第九章 依央さん 後編
朝。
依央が玄関を開けると、ちょうど隣のドアも開いた。
「おはようございます」
「おはようございます、依央さん」
朔が笑う。
「昨日は遅くまでありがとうございました」
「こちらこそ。資料、間に合いました?」
「無事に提出できました」
「よかったです」
「依央さんのおかげです」
「私は少し見ただけですよ」
「それでも助かりました」
朔はバッグを肩に掛け直した。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、朔」
その呼び方に、朔が少しだけ目を細める。
「……はい。行ってきます」
二人は別々の方向へ歩き出した。
もう名前で呼ぶことに、昨日ほどの照れはない。
それでも。
その一言が、一日の始まりを少しだけ明るくしてくれる。
*
昼休み。
依央はスマートフォンを確認した。
午後三時にはまだ早い。
しかし、今日は朔からの連絡がない。
忙しいのだろう。
そう思って、仕事へ戻った。
そして午後三時。
いつもの時間。
画面を確認する。
やはり、何も届いていない。
依央は少し迷ったあと、自分からメッセージを送った。
『午後三時です』
しばらくして既読がつく。
返信はない。
依央はスマートフォンをしまった。
今日は、仕方ない。
そう思った。
けれど。
胸の奥には、ほんの少しだけ寂しさが残った。
*
夜。
マンションへ帰る。
廊下の先を見る。
朔の部屋は暗い。
「まだ帰ってないのかな」
依央は自分の部屋へ入った。
着替えて、簡単な夕食を作る。
一人分。
食べ終えて、食器を洗う。
時計は午後八時を回っていた。
そのとき。
隣から鍵の音がした。
依央は反射的に玄関へ向かった。
ドアを開ける。
「……おかえりなさい」
廊下に立っていた朔が、驚いた顔をした。
「依央さん?」
「お疲れさまでした」
「ただいま……」
朔は少し疲れたように笑う。
「今日、遅かったですね」
「はい」
朔は鞄を下ろした。
「ちょっと仕事が長引いて」
「夕飯は?」
「まだです」
「よかったら」
依央は自分の部屋を指した。
「何か食べます?」
「……いいんですか?」
「簡単なものしかありませんけど」
「お願いします」
*
依央は冷蔵庫を開ける。
「何か食べたいものあります?」
「何でも」
「それが一番困ります」
「じゃあ、依央さんにお任せします」
「分かりました」
残っていた食材で、簡単な炒め物を作る。
朔は椅子に座り、依央の手元を眺めていた。
「手際いいですね」
「一人暮らしが長いので」
「同居してたときも、いつも作ってくれましたよね」
「久住さんも作ってくれましたよ」
「懐かしいな」
料理が完成する。
二人で食卓につく。
「いただきます」
食事が始まる。
朔は黙々と食べていた。
いつもより口数が少ない。
「……疲れてます?」
「少し」
「今日は大変だったんですね」
「はい」
朔は箸を置いた。
「昨日、話してたことなんですけど」
「仕事の担当変更の話?」
「はい」
朔は小さく息を吐いた。
「今日、正式に決まりました」
依央の手が止まる。
「来月から、担当が変わります」
「そうですか」
「今より忙しくなると思います」
「……」
「帰りが遅くなる日も増えるみたいで」
朔は苦笑した。
「今までみたいにはいかないかもしれません」
*
依央は少し考えた。
寂しい。
正直に言えば、そうだった。
毎日のように一緒に夕飯を食べる。
仕事のあとに顔を見る。
午後三時にメッセージを送り合う。
それが減る。
考えるだけで、胸が重くなる。
でも。
朔の仕事を理由に、それを止めてほしいとは言えない。
「無理に時間を作らなくてもいいですよ」
依央が言った。
「え?」
「忙しいなら、仕事を優先してください」
朔は黙っている。
「私も来週から、今より慣れない仕事が増えると思いますし」
「……」
「会えるときに会えばいいと思います」
朔はしばらく依央を見つめた。
「それ、本心ですか?」
「はい」
少しだけ間を置いて。
「……寂しくはありますけど」
依央は正直に付け加えた。
「でも、朔が無理するほうが嫌です」
朔の表情が変わった。
「依央さん」
「はい?」
「私も同じです」
「何が?」
「依央さんが無理してまで会ってくれるのは、嫌です」
二人の視線が重なる。
「だから」
朔が少し笑った。
「会える時間を、大事にしましょう」
「……はい」
*
食事を終える。
今日はお酒を飲む気分ではなかった。
その代わり、二人でコーヒーを淹れた。
時計を見る。
午後九時四十分。
午後三時からは、ずいぶん時間が経っている。
それでも。
同じマグカップを手にして向かい合っていると、少し落ち着いた。
「ねえ、依央さん」
「はい?」
「午後三時の約束」
「はい」
「毎日じゃなくても、続けませんか?」
「もちろん」
「忙しい日は、メッセージ一つでもいい」
「それならできます」
「午後三時に『今日もお疲れさま』って送るだけ」
「いいですね」
朔が笑う。
「それなら、どんなに忙しくても忘れないと思います」
「私も」
*
時計の針が十時を指す。
「今日は帰ります」
「はい」
玄関まで見送る。
朔が靴を履く。
「明日から、少し忙しくなるかもしれません」
「分かりました」
「でも」
朔が振り返る。
「午後三時には、なるべく連絡します」
「無理しない範囲で」
「はい」
「私も送ります」
「楽しみにしてます」
朔がドアを開ける。
「おやすみなさい、依央さん」
「おやすみ、朔」
今度は二人とも自然だった。
*
翌日。
午後三時。
依央のスマートフォンが震えた。
『午後三時です』
朔からだった。
その下に、もう一通。
『今日は少し忙しいので、これだけ』
依央は笑った。
『十分です。お疲れさま』
返信する。
少しして。
『ありがとう、依央さん』
それだけだった。
けれど。
依央には、それで十分だった。
*
その日の夜。
仕事を終えた依央がマンションへ帰る。
廊下を歩いていると、隣のドアが開いた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
朔だった。
「今日は早かったんですね」
「はい。昨日よりは」
「よかった」
「依央さんは?」
「今帰ってきたところです」
二人は顔を見合わせる。
「……夕飯」
朔が言った。
「はい?」
「今日、一緒に食べません?」
依央は笑った。
「もちろん」
二人は並んで歩き出す。
向かうのは、依央の部屋でも朔の部屋でもない。
近所のスーパー。
「何にします?」
「今日は私が作ります」
「珍しいですね」
「昨日のお礼です」
「じゃあ、楽しみにしてます」
「任せてください」
並んで歩く。
その距離は、以前よりずっと近かった。
*
午後三時は、窓の外の光が少しだけ傾き始める頃だった。
忙しい日は、画面に短い文字が浮かぶ。
余裕のある日は、そこに一言、二言が重なる。
会えない日にも、同じ時刻だけが静かに過ぎていく。
そのたびに、依央は手を止める。
朔も、どこかで同じようにしているのだろうか。
確かめることはできない。
けれど、確かめなくても分かることが、少しずつ増えていた。
*
数日後の午後三時。
依央のスマートフォンが震えた。
『午後三時です』
いつもの短い文面。
依央は窓の外を見た。
向かいの建物のガラスに、夕方へ向かう光が細く伸びている。
その光の中で、誰かが立ち止まったように見えた。
すぐに人影は消えた。
依央は画面に視線を戻す。
『お疲れさま、朔』
送信すると、ほどなくして既読がついた。
返信はなかった。
それでも依央は、スマートフォンを伏せずに机の端へ置いた。
午後三時の光が、ゆっくりと部屋の奥へ移っていく。
隣の部屋にも、同じ光が届いているはずだった。
依央は立ち上がり、コーヒーを二杯淹れた。
一杯は自分の前に置く。
もう一杯は、まだ誰もいない向かいの席へ。
冷める前に来るかどうかは、分からない。
けれど、カップから立ちのぼる湯気は、しばらくのあいだ、二人の間に残っていた。




