↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/36

第九章 依央さん 後編


 朝。


 依央が玄関を開けると、ちょうど隣のドアも開いた。


「おはようございます」


「おはようございます、依央さん」


 朔が笑う。


「昨日は遅くまでありがとうございました」


「こちらこそ。資料、間に合いました?」


「無事に提出できました」


「よかったです」


「依央さんのおかげです」


「私は少し見ただけですよ」


「それでも助かりました」


 朔はバッグを肩に掛け直した。


「じゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃい、朔」


 その呼び方に、朔が少しだけ目を細める。


「……はい。行ってきます」


 二人は別々の方向へ歩き出した。


 もう名前で呼ぶことに、昨日ほどの照れはない。


 それでも。


 その一言が、一日の始まりを少しだけ明るくしてくれる。


     *


 昼休み。


 依央はスマートフォンを確認した。


 午後三時にはまだ早い。


 しかし、今日は朔からの連絡がない。


 忙しいのだろう。


 そう思って、仕事へ戻った。


 そして午後三時。


 いつもの時間。


 画面を確認する。


 やはり、何も届いていない。


 依央は少し迷ったあと、自分からメッセージを送った。


『午後三時です』


 しばらくして既読がつく。


 返信はない。


 依央はスマートフォンをしまった。


 今日は、仕方ない。


 そう思った。


 けれど。


 胸の奥には、ほんの少しだけ寂しさが残った。


     *


 夜。


 マンションへ帰る。


 廊下の先を見る。


 朔の部屋は暗い。


「まだ帰ってないのかな」


 依央は自分の部屋へ入った。


 着替えて、簡単な夕食を作る。


 一人分。


 食べ終えて、食器を洗う。


 時計は午後八時を回っていた。


 そのとき。


 隣から鍵の音がした。


 依央は反射的に玄関へ向かった。


 ドアを開ける。


「……おかえりなさい」


 廊下に立っていた朔が、驚いた顔をした。


「依央さん?」


「お疲れさまでした」


「ただいま……」


 朔は少し疲れたように笑う。


「今日、遅かったですね」


「はい」


 朔は鞄を下ろした。


「ちょっと仕事が長引いて」


「夕飯は?」


「まだです」


「よかったら」


 依央は自分の部屋を指した。


「何か食べます?」


「……いいんですか?」


「簡単なものしかありませんけど」


「お願いします」


     *


 依央は冷蔵庫を開ける。


「何か食べたいものあります?」


「何でも」


「それが一番困ります」


「じゃあ、依央さんにお任せします」


「分かりました」


 残っていた食材で、簡単な炒め物を作る。


 朔は椅子に座り、依央の手元を眺めていた。


「手際いいですね」


「一人暮らしが長いので」


「同居してたときも、いつも作ってくれましたよね」


「久住さんも作ってくれましたよ」


「懐かしいな」


 料理が完成する。


 二人で食卓につく。


「いただきます」


 食事が始まる。


 朔は黙々と食べていた。


 いつもより口数が少ない。


「……疲れてます?」


「少し」


「今日は大変だったんですね」


「はい」


 朔は箸を置いた。


「昨日、話してたことなんですけど」


「仕事の担当変更の話?」


「はい」


 朔は小さく息を吐いた。


「今日、正式に決まりました」


 依央の手が止まる。


「来月から、担当が変わります」


「そうですか」


「今より忙しくなると思います」


「……」


「帰りが遅くなる日も増えるみたいで」


 朔は苦笑した。


「今までみたいにはいかないかもしれません」


     *


 依央は少し考えた。


 寂しい。


 正直に言えば、そうだった。


 毎日のように一緒に夕飯を食べる。


 仕事のあとに顔を見る。


 午後三時にメッセージを送り合う。


 それが減る。


 考えるだけで、胸が重くなる。


 でも。


 朔の仕事を理由に、それを止めてほしいとは言えない。


「無理に時間を作らなくてもいいですよ」


 依央が言った。


「え?」


「忙しいなら、仕事を優先してください」


 朔は黙っている。


「私も来週から、今より慣れない仕事が増えると思いますし」


「……」


「会えるときに会えばいいと思います」


 朔はしばらく依央を見つめた。


「それ、本心ですか?」


「はい」


 少しだけ間を置いて。


「……寂しくはありますけど」


 依央は正直に付け加えた。


「でも、朔が無理するほうが嫌です」


 朔の表情が変わった。


「依央さん」


「はい?」


「私も同じです」


「何が?」


「依央さんが無理してまで会ってくれるのは、嫌です」


 二人の視線が重なる。


「だから」


 朔が少し笑った。


「会える時間を、大事にしましょう」


「……はい」


     *


 食事を終える。


 今日はお酒を飲む気分ではなかった。


 その代わり、二人でコーヒーを淹れた。


 時計を見る。


 午後九時四十分。


 午後三時からは、ずいぶん時間が経っている。


 それでも。


 同じマグカップを手にして向かい合っていると、少し落ち着いた。


「ねえ、依央さん」


「はい?」


「午後三時の約束」


「はい」


「毎日じゃなくても、続けませんか?」


「もちろん」


「忙しい日は、メッセージ一つでもいい」


「それならできます」


「午後三時に『今日もお疲れさま』って送るだけ」


「いいですね」


 朔が笑う。


「それなら、どんなに忙しくても忘れないと思います」


「私も」


     *


 時計の針が十時を指す。


「今日は帰ります」


「はい」


 玄関まで見送る。


 朔が靴を履く。


「明日から、少し忙しくなるかもしれません」


「分かりました」


「でも」


 朔が振り返る。


「午後三時には、なるべく連絡します」


「無理しない範囲で」


「はい」


「私も送ります」


「楽しみにしてます」


 朔がドアを開ける。


「おやすみなさい、依央さん」


「おやすみ、朔」


 今度は二人とも自然だった。


     *


 翌日。


 午後三時。


 依央のスマートフォンが震えた。


『午後三時です』


 朔からだった。


 その下に、もう一通。


『今日は少し忙しいので、これだけ』


 依央は笑った。


『十分です。お疲れさま』


 返信する。


 少しして。


『ありがとう、依央さん』


 それだけだった。


 けれど。


 依央には、それで十分だった。


     *


 その日の夜。


 仕事を終えた依央がマンションへ帰る。


 廊下を歩いていると、隣のドアが開いた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 朔だった。


「今日は早かったんですね」


「はい。昨日よりは」


「よかった」


「依央さんは?」


「今帰ってきたところです」


 二人は顔を見合わせる。


「……夕飯」


 朔が言った。


「はい?」


「今日、一緒に食べません?」


 依央は笑った。


「もちろん」


 二人は並んで歩き出す。


 向かうのは、依央の部屋でも朔の部屋でもない。


 近所のスーパー。


「何にします?」


「今日は私が作ります」


「珍しいですね」


「昨日のお礼です」


「じゃあ、楽しみにしてます」


「任せてください」


 並んで歩く。


 その距離は、以前よりずっと近かった。


     *


 午後三時は、窓の外の光が少しだけ傾き始める頃だった。


 忙しい日は、画面に短い文字が浮かぶ。


 余裕のある日は、そこに一言、二言が重なる。


 会えない日にも、同じ時刻だけが静かに過ぎていく。


 そのたびに、依央は手を止める。


 朔も、どこかで同じようにしているのだろうか。


 確かめることはできない。


 けれど、確かめなくても分かることが、少しずつ増えていた。


     *


 数日後の午後三時。


 依央のスマートフォンが震えた。


『午後三時です』


 いつもの短い文面。


 依央は窓の外を見た。


 向かいの建物のガラスに、夕方へ向かう光が細く伸びている。


 その光の中で、誰かが立ち止まったように見えた。


 すぐに人影は消えた。


 依央は画面に視線を戻す。


『お疲れさま、朔』


 送信すると、ほどなくして既読がついた。


 返信はなかった。


 それでも依央は、スマートフォンを伏せずに机の端へ置いた。


 午後三時の光が、ゆっくりと部屋の奥へ移っていく。


 隣の部屋にも、同じ光が届いているはずだった。


 依央は立ち上がり、コーヒーを二杯淹れた。


 一杯は自分の前に置く。


 もう一杯は、まだ誰もいない向かいの席へ。


 冷める前に来るかどうかは、分からない。


 けれど、カップから立ちのぼる湯気は、しばらくのあいだ、二人の間に残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。