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第十章 名前を呼ぶ距離 前編


 新しい仕事を始めて、二週間が過ぎた。


 朝の支度を終えた依央は、玄関の鏡で自分の姿を確認した。


 髪を整える。


 襟元を直す。


 バッグを手に取る。


 そこには、朔からもらった小さなキーホルダーが揺れていた。


「……よし」


 玄関を開ける。


 ほとんど同じタイミングで、隣のドアも開いた。


「おはようございます、依央さん」


「おはよう、朔」


 朔がわずかに目を見開く。


「……今、名前で呼んだ?」


「うん」


 依央は自分でも少し照れながら、キーホルダーに触れた。


「もう、前ほど緊張しないから」


「そっか」


 朔は嬉しそうに笑った。


「おはよう、依央」


「うん。おはよう、朔」


 同じ言葉を交わしただけなのに、以前より二人の間にある距離が近くなった気がした。


「今日、帰り遅くなりそう?」


「たぶん、少しだけ。朔は?」


「私は普通に帰れると思う」


「じゃあ、帰ったら連絡するね」


「うん」


 依央が自然に返すと、朔がまた少し笑った。


「今の『うん』も、すっかり慣れたね」


「そう?」


「うん。前はもっと丁寧に返してたから」


「……たしかに」


 依央も笑う。


「じゃあ、行ってらっしゃい、朔」


「行ってきます、依央」


 二人はそれぞれの仕事へ向かった。


     *


 その日の午前。


 依央の仕事は、いつもより忙しかった。


 新しい業務を任されることになり、その説明を受けていた。


「白瀬さん、これ、今日中に一度まとめてもらえますか?」


「はい」


「分からないところがあれば聞いてください」


「分かりました」


 資料を受け取る。


 量はそれなりに多い。


 けれど、できない仕事ではない。


 依央は席へ戻り、一つずつ整理していった。


 昼を過ぎる。


 午後になる。


 作業は思ったより時間がかかった。


 午後三時。


 休憩時間。


 依央はスマートフォンを見る。


 いつものように朔からメッセージが来ていた。


『午後三時です』


 依央は少し笑って返信する。


『今日は忙しいです』


 すぐに返事が来る。


『無理しないでね、依央』


『ありがとう、朔』


 名前を添えて送るのは、まだ少しだけ照れた。


 けれど、送信したあとに残ったのは、気恥ずかしさよりも安心感だった。


 それだけで、少し肩の力が抜けた。


 しかし。


 その直後。


 上司から声を掛けられた。


「白瀬さん、ちょっといいですか?」


「はい」


 依央は席を立った。


     *


「この資料なんですが」


 上司が画面を指差す。


「ここ、数字が一つ違っています」


「……え?」


 依央は画面を確認する。


 本当に一か所だけ数字が違っていた。


「申し訳ありません」


「まだ外には出していないので大丈夫です」


「はい」


「ただ、こういう資料は一つの数字が違うだけでも後の作業に影響します。次から確認をお願いします」


「分かりました」


 席へ戻る。


 依央はもう一度、最初から資料を確認した。


 原因は単純だった。


 入力した数字を、別の資料へ転記するときに間違えていた。


 大きな問題ではない。


 けれど。


 依央の胸には、嫌な感覚が残った。


 ――まただ。


 以前の仕事でも、最初は小さなミスから始まった。


 気にしすぎる。


 自分を責める。


 もっと頑張らなければと思う。


 そして、気づいたときには余裕がなくなっていた。


「……違う」


 依央は小さく呟いた。


 今は同じではない。


 まだ始まったばかり。


 それに、今回はちゃんと注意してもらえた。


 直せた。


 それでも。


 頭では分かっていても、胸の奥のざわつきは消えなかった。


     *


 仕事を終えたのは、予定より少し遅い時間だった。


 依央はマンションへ戻る。


 廊下を歩く。


 隣の部屋を見る。


 明かりがついている。


 今日は朔が先に帰っているらしい。


 依央は自分の部屋へ入った。


 バッグを置く。


 上着を脱ぐ。


 しばらく椅子に座ったまま動かなかった。


 スマートフォンを見る。


 午後三時に届いた朔のメッセージ。


 そして、まだ返信していない。


『帰りました』


 送ろうとして、指が止まる。


 今日のことを話したら、きっと心配させる。


 でも。


 話さないまま一人で抱えるのも、以前の自分と同じ気がした。


 依央は画面を見つめる。


 そして。


『今、帰りました』


 送信した。


 数秒後。


『お疲れさま。今から行ってもいい?』


 依央は少し驚いた。


『うん。来て、朔』


 送ってから、依央は自分の言葉に気づいた。


 以前なら、もっと遠慮した言い方をしていたはずだ。


 けれど今は、朔に来てほしいと思ったことを、そのまま伝えられた。


 すぐに返事が来る。


『分かった。すぐ行くね、依央』


 画面に表示された名前を見て、依央は小さく息を吐いた。


 名前で呼び合うことが、少しずつ二人の日常になっている。


     *


 チャイムが鳴る。


「はい」


「私」


 依央がドアを開ける。


「お疲れさま、依央」


「ありがとう。朔もお疲れさま」


 朔が入ってくる。


 その手には、小さな袋があった。


「これ」


「何?」


「帰りに買ってきた」


 袋の中には、二人分の惣菜と小さな缶のお酒が入っていた。


「今日は作る気力ないかなと思って」


 依央は少し笑った。


「……分かってた?」


「顔を見れば分かるよ」


「そんなに?」


「うん。今日は特に」


 朔は靴を脱いだ。


「今日は楽する日」


「いいの?」


「いいよ、依央」


 名前を添えられた「いいよ」が、依央には妙に心地よかった。


「じゃあ、甘える。ありがとう、朔」


「うん」


     *


 二人で食事をする。


 最初は仕事の話をしなかった。


 テレビをつける。


 買ってきた料理を並べる。


 缶を開ける。


「乾杯」


「乾杯」


 一口飲む。


 しばらくして。


 朔が箸を置いた。


「……今日、何かあった?」


 依央は少し黙った。


「仕事で、ちょっとミスした」


「そっか」


「大したことじゃないんだけど」


「うん」


「昔のことを思い出して」


 依央は今日の出来事を話した。


 ミスそのもの。


 注意されたこと。


 それから、昔の自分を思い出して怖くなったこと。


 朔は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。


「……ごめん」


 依央が言う。


「何が?」


「こんな話」


「謝ることじゃないよ」


「でも」


「依央」


 呼ばれて、依央は顔を上げた。


 朔は少しだけ笑った。


「一人で抱えないって決めたんじゃなかった?」


「……うん」


 名前を呼ばれたことで、依央は逃げずに朔の目を見ることができた。


 以前、仕事を辞めた頃。


 そして、新しい仕事を始めるとき。


 二人で何度も話した。


 無理をしない。


 困ったら誰かに頼る。


 自分の状態を自分で見失わない。


「だから、今日話してくれてよかった」


「……ありがとう、朔」


「うん」


「朔に話せてよかった」


 今度は依央から名前を呼んだ。


 朔は一瞬だけ目を伏せ、それから柔らかく笑った。


「私も、依央が話してくれてよかった」


「それに」


 朔は缶をテーブルへ置いた。


「一回のミスで、前と同じになるわけじゃないよ」


「分かってる」


「なら大丈夫」


「……うん」


 依央は少し笑った。


「朔がそう言ってくれると、ちゃんと信じられる気がする」


「じゃあ、何度でも言うよ」


「うん。頼りにしてる」


     *


「そういえば」


 朔が話題を変えた。


「明日、休みだよね?」


「うん」


「じゃあ、どこか行かない?」


「どこか?」


「最近、仕事ばっかりだったから」


 依央は少し考える。


「いいね」


「どこ行きたい?」


「朔は?」


「私?」


「うん。朔が行きたいところ」


 朔は少し考えた。


「……海」


「急だね」


「なんとなく」


「明日、天気いいの?」


「たぶん」


「たぶん?」


「調べてない」


 依央が笑う。


「じゃあ、まず天気から調べよう」


「はい」


「……あ」


 朔が少し困ったように笑った。


「今、また丁寧に戻った」


「癖なんだと思う」


「無理に直さなくていいよ」


「でも、朔とはもう少し自然に話したい」


「もう十分自然だよ」


「そうかな」


「うん。名前で呼んでくれるだけで、私は嬉しいから」


 依央は少し黙った。


「じゃあ、明日はもっと自然に話す」


「楽しみにしてる、依央」


 二人でスマートフォンを覗き込む。


 明日の天気。


 電車の時間。


 海辺の店。


 気づけば、休日の予定を二人で考えていた。


     *


 午後十時。


 食事を終える。


 缶は一本ずつ。


 今日はそれ以上飲まなかった。


「明日、九時に出ようか」


「うん」


「寝坊しないでね、依央」


「朔こそ」


 その言葉に、二人とも一瞬止まった。


「……今」


 朔が笑う。


「自然に名前で呼んだ」


「……本当だ」


「もう完全に慣れたね」


「まだ少し照れるけど」


「私も」


「朔も?」


「うん。依央に名前で呼ばれるの、嬉しいけど、まだ慣れない」


 依央は思わず笑った。


「じゃあ、お互い様だね」


「そうだね」


「明日は寝坊しないようにしよう、朔」


「うん、依央」


     *


 朔が帰るため、玄関へ向かう。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日、朔」


「おやすみ、依央」


「おやすみ、朔」


 ドアが閉まる。


 依央はその場に立ったまま、少しだけ笑っていた。


 名前で呼ばれること。


 名前で呼ぶこと。


 それが、もう特別なことではなくなりつつある。


 けれど。


 今日、朔に「依央」と呼ばれた瞬間だけは。


 胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった。


 そして。


 明日は久しぶりに、仕事ではない場所で二人の時間を過ごす。


 それが楽しみだと思っている自分にも、依央は気づいていた。


 ただの休日。


 ただの外出。


 そう思おうとしても。


 なぜか、少しだけ特別な一日になる気がしていた。


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