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第十章 名前を呼ぶ距離 中編


 翌朝。


 午前八時半。


 依央は玄関で靴紐を結んでいた。


 昨日の夜に決めた予定は、海へ行くこと。


 特別な準備をするような場所ではない。


 それでも、なぜか少し落ち着かなかった。


 玄関の鏡を見る。


 髪を整える。


 バッグを確認する。


 財布。


 スマートフォン。


 ハンカチ。


「……大丈夫」


 そのとき。


 隣のドアが開いた。


「おはよう、依央。早いね」


「おはよう、朔。そっちこそ」


 朔も出かける準備を終えていた。


「忘れ物は?」


「たぶんない。朔は?」


「私は依央がいれば大丈夫」


「それ、忘れ物の確認になってないよ」


「じゃあ、依央が確認して」


 朔がバッグを差し出す。


 依央は思わず笑った。


「……本当に大丈夫そう」


「でしょ?」


「じゃあ、行こうか」


「うん。今日は逃げないでね」


「海から?」


「私から」


「逃げる理由がないよ」


 二人は並んでエレベーターへ向かった。


     *


 駅までの道。


 朝の空気はまだ少し涼しく、夜の名残を含んだ風が頬を撫でていく。歩道の植え込みからは湿った土と青葉の匂いが漂い、遠くで車の走る音が途切れ途切れに聞こえていた。


「昨日、ちゃんと眠れた?」


 朔が聞く。


「眠れたよ。朔は?」


「私は少し楽しみで寝つけなかった」


「気になったから」


「何が?」


「依央が、今日を楽しみにしてるのか」


 依央は返事に迷い、前を向いた。


「楽しみじゃなかったら、こんなに早く出てこないよ」


「それなら安心した」


 朔の声が弾む。


 その笑い声が朝の道に溶けていく。依央の胸に残っていた緊張も、朔の隣を歩くうちに、少しずつほどけていった。


 電車に乗る。


 車内には、まだ眠気を引きずった人たちの気配があった。吊り革が揺れるたび、金属のかすかな音が響く。窓ガラスには朝の光が反射し、二人の姿を淡く重ねていた。


 窓の外の景色が少しずつ変わっていく。


 街並みが減り、建物の間から青空が広がっていく。差し込む光が依央の手の甲を温めた。


「見えてきた」


 朔が窓の外を指差す。


「本当だ」


 依央も窓を見る。


 遠くに海が見えた。


「思ったより近いね」


「でも、ここまで来ると別の場所って感じがする」


「うん。朔と来るのは初めてだし」


「初めてって、ちゃんと覚えてるんだ」


「忘れるほうが難しいでしょ」


 まだ青い帯にしか見えない海を眺めながら、依央の胸の奥がふっと軽くなる。朔も同じ景色を見ている。そのことが、景色そのものより嬉しかった。


     *


 駅を降りる。


 海まで歩く。


 駅前の道を抜けるにつれて、潮の香りが濃くなっていく。遠くから、波が砕ける低い音が絶え間なく聞こえてきた。


 そして。


 二人の目の前に、海が広がった。


「……綺麗」


 依央が呟く。


 陽を受けた水面が細かな銀色にきらめき、寄せては返す波が白い泡を残している。砂浜には乾いた砂の匂いがあり、吹き抜ける風が街中とは違う広がりを運んできた。


「来てよかったね」


「うん。思ってたより、ずっと広い」


「依央、海を見ると少しだけ素直になるね」


「どういう意味?」


「普段は、感想を一度胸の中で審査してから話すから」


「そんなことしてないよ」


「してるよ。今だって、最初に出てきた言葉が『綺麗』だった」


「それ以外に何て言えばいいの」


「『朔と来られて嬉しい』とか」


 依央は朔を見る。


 朔は冗談めかしていたが、視線だけはまっすぐだった。


「……それは、あとで言う」


「あとでなら言ってくれるんだ」


「気が向いたら」


「じゃあ、今日は帰れないね」


 依央は呆れたように息を吐いた。


「朔は、朝から調子がいいね」


「依央が逃げないから」


 二人は砂浜へ向かった。


 足元で砂がかすかに沈む。波の音、遠くから聞こえる子どもの声、海鳥の鳴き声。普段の生活とは違う場所に立つだけで、二人の気持ちも少し軽くなった。


 依央は深く息を吸った。


 冷たい空気が胸に入り、抱えていた迷いの輪郭まで薄れていくようだった。


     *


「飲み物買ってくる」


 朔が言う。


「私も行く」


「大丈夫。依央はここで海を見てて」


「一人で待ってるの?」


「すぐ戻るから。もし寂しくなったら、波に話しかけて」


「朔が戻ってくるまでに、波と仲良くなっておく」


「それは困るな。私の立場がなくなる」


「じゃあ、早く戻ってきて」


 朔が一瞬だけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。


「了解」


 売店へ向かう朔の背中を見送り、依央は海を眺めながら待った。


 波が砂を撫でる音を聞いていると、時間の流れまでゆっくりになったように感じる。風に揺れた髪が頬にかかり、指で払うと、指先にわずかな塩気が残った。


 しばらくして、朔が戻ってくる。


「お待たせ。海とは仲良くなれた?」


「まだ名前を聞いただけ」


「それならよかった。私のことも忘れられてなさそう」


「飲み物を買ってきた人は覚えてるよ」


「そこだけ?」


「……ありがとう」


 朔が缶を差し出す。


「どういたしまして。今日は特別に、私が選んだ」


「何が特別なの?」


「依央が好きそうな味」


「外したら?」


「そのときは、私が責任を持って飲む」


 手渡された缶は冷たく、掌にひんやりとした感触が伝わった。プルタブを開けると、小さな音がして、甘い香りが立ち上る。


 二人でベンチに座る。


「こういうの、久しぶりだね」


「海?」


「それもだけど」


 朔は缶を両手で包み、少し遠くを見る。


「何も考えずに休日を過ごすこと」


 依央は海へ視線を向けた。


「何も考えないのは、難しいけどね」


「依央は特にね」


「朔だって、考えすぎると黙るじゃん」


「私は黙ってるだけ。依央は黙ったまま結論まで出す」


「……否定できない」


 仕事をしていた頃は、休日も仕事のことを考えていた。


 仕事を辞めてからも、これからどうするかばかり考えていた。


 朔と暮らすようになってから、少しずつ変わった。


 そして今は。


 別々に暮らしているのに。


 一緒に休日を過ごしている。


「不思議だね」


「何が?」


「同居が終わったら、もっと離れると思ってた」


 朔の声が少しだけ静かになる。


 波の音が二人の間を埋めた。さっきまで心地よかった風が、今は言葉の続きを待つように感じられる。


「私も。部屋が別になったら、会う理由までなくなる気がしてた」


「理由なら、いくらでも作れるよ」


「例えば?」


「海に行く。ご飯を食べる。午後三時に連絡する」


「最後のは、もう理由じゃなくて習慣だね」


「習慣になったなら、なおさら大事でしょ」


 依央は海を見る。


 水面の光が眩しくて、目を細めた。遠くの水平線はどこまでも続いているのに、隣にいる朔との距離だけは、以前よりはっきりと感じられた。


「前より近くなった気がする」


「……それ、私も言おうと思ってた」


「先に言われた?」


「うん。少し悔しい」


「朔でも悔しがるんだ」


「依央の前では、わりと」


 依央は朔を見た。


 朔は海を見たまま、小さく笑っている。


「それは、知らなかった」


「これから知っていけばいいよ」


 その言葉に、依央はすぐには答えなかった。


 ただ、隣で笑う朔の横顔を見つめた。


     *


 昼。


 二人は海沿いの店へ入った。


 扉を開けると、焼いたパンと魚介の香りが混ざった暖かな空気が流れてきた。外で冷えた指先が、店内の温度に触れて少しずつ緩んでいく。


「何食べる?」


「パスタかな。朔は?」


「私は魚にする。依央、さっきからメニューの写真を見てるけど、もう決まってる顔だよ」


「見てたの?」


「見てた。迷ってるふりをして、同じページを三回開いてた」


「……じゃあ、パスタで」


「最初からそう言えばいいのに」


「朔に見抜かれるのが少し悔しかった」


「勝負だったんだ」


「勝負ではないよ」


「じゃあ、私の勝ちということで」


「勝手に決めないで」


 料理が届く。


 湯気とともに、トマトの酸味や香草の香りが立ち上る。フォークを動かすたび、皿の上でソースが小さく光った。


 二人で食べる。


「やっぱり美味しい」


「その顔なら、私のおすすめも当たりだね」


「朔が選んだのは魚でしょ」


「依央が美味しそうに食べてるから、私の勝ち」


「また勝負にしてる」


「今日はそういう日なの」


 朔が自分の皿を少し依央のほうへ寄せる。


「こっちも食べてみる?」


「いいの?」


「その代わり、依央のパスタも一口」


「最初からそれが目的だったんだ」


「交換条件があるほうが、依央は安心するでしょ」


 依央は一瞬だけ朔を見た。


「……よく分かってるね」


「長い付き合いだから」


 料理を交換する。


「……こっちのほうが好きかも」


「じゃあ、次に来たらそれにする?」


「朔が覚えてたらね」


「覚えてるよ。依央の好きなものは、意外と忘れない」


「意外と、って何?」


「全部覚えてると言うと、重いかなと思って」


 依央の手が止まる。


 朔は照れ隠しのように水を飲んだ。


「……じゃあ、次も来るつもりなんだ」


「うん。今度はもっと暖かい季節に」


「その頃も、こうして一緒に来られるかな」


「来ようよ。予定を先に押さえておけば、依央は逃げないでしょ」


「私を何だと思ってるの」


「予定を立てると、急に慎重になる人」


「朔が急に決めるからでしょ」


「じゃあ、今回は依央が決めて」


 依央は少し考えた。


「……次は、海の見える場所で夕日を見たい」


「それ、今日じゃない?」


「今日は昼に来たから。次は、夕方から」


「分かった。次の約束ね」


「うん」


 まだ先の季節を思い浮かべるだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。


     *


 食後。


 二人は再び海辺を歩いた。


 波打ち際まで近づく。


 寄せてきた波が砂を濡らし、泡を残して引いていく。水滴が足元にかかり、靴の甲に冷たさを残した。


「冷たい」


「だから言ったでしょ。入らないよ」


「入るつもりはなかったよ」


「その顔は、少しだけ入ってみたい顔」


「どんな顔?」


「好奇心が勝ちそうな顔」


「朔は私の顔を見すぎじゃない?」


「見てるよ。見てないと、依央が無茶する前に止められないから」


「昔、一人で夜道を歩いてたこと、まだ覚えてるんだ」


「忘れられないよ。連絡もつかなかったし」


「あれは……」


「大丈夫だと思った?」


「うん」


「私は大丈夫じゃなかった」


 朔の声から、冗談の色が消えた。


 依央は足元の波を見つめる。冷たい水が引いていく。


「……心配かけたね」


「謝ってほしいわけじゃない」


「分かってる」


「ただ、次は一人で抱えないで」


 依央は少し黙った。


 胸の奥がじんわりと熱くなる。冷えた空気の中でも、その温度だけは消えなかった。


「努力する」


「努力じゃなくて、連絡して」


「厳しいね」


「依央には、それくらいでちょうどいい」


「……分かった。連絡する」


 朔がようやく笑った。


「約束?」


「約束」


 風が吹く。


 依央の髪が揺れ、耳元で低く鳴った。


 朔が何か言おうとして、やめた。


「どうしたの?」


「今、言うと約束が多すぎる気がして」


「何の約束?」


「それは、まだ秘密」


「秘密にするほどのこと?」


「私にとっては」


 依央は朔を見た。


「……そのうち聞かせて」


「うん。ちゃんと聞いてもらえるときに言う」


 朔は海へ視線を戻した。


 依央も追及しなかった。


 けれど、朔の言いかけた言葉は心の中に残った。聞かなかったことにしたのに、依央は何度もその続きを探していた。


     *


 午後三時。


 海辺のベンチ。


 いつもの時間。


 今日はスマートフォンを見る必要もない。


 二人とも隣にいる。


 午後の光は少し傾き、水面のきらめきも朝より柔らかくなっていた。陽に温められたベンチの木肌から、かすかなぬくもりが伝わってくる。


「午後三時」


 朔が言った。


「今日は確認しなくても分かるね」


「うん。隣にいるから」


「いつもは画面越しだったのに」


「画面越しでも、依央が返事をくれると安心した」


「そんなに?」


「そんなに」


 朔が少しだけ肩を寄せる。


 触れるか触れないかの距離。


 依央は離れなかった。


 肩越しに伝わる朔の体温が、言葉よりも確かなものに思えた。一定の波音を聞いているうちに、依央の鼓動もゆっくり落ち着いていく。


「ねえ、依央」


「なに?」


「これからも、こういう時間を作ろう」


「海じゃなくても?」


「海じゃなくても。依央が疲れた日に、何も聞かずに隣にいられる時間」


 依央は少しだけ目を伏せた。


「それなら、私も朔に作りたい」


「私に?」


「朔だって、平気な顔をして無理するから」


「ばれてた?」


「ずっと」


「……そっか」


 朔は照れたように笑った。


「仕事が忙しくなっても、今より会えなくなっても?」


「会える時間が減るのは、寂しいよ」


「うん」


「でも、会えない日があることと、離れることは違うから」


 朔が黙って依央を見る。


 依央は海へ視線を戻した。


「会える日に、ちゃんと会えばいい。連絡できる日に、ちゃんと連絡すればいい」


「それだけで、つながっていられるかな」


「つながっていたいと思っているなら、たぶん」


 朔の表情がゆっくりほどけていく。


「依央は、たまにすごく強いことを言うね」


「強くないよ。怖いから、考えてるだけ」


「怖い?」


「離れるのが」


 言ってから、依央は自分の言葉に驚いた。


 朔は何も急かさなかった。


「……私も」


 その声は小さかったが、依央にははっきり届いた。


 離れてしまう未来を想像する寂しさと、それでもつながっていたいという願いが、胸の中で静かに重なった。


     *


 帰りの電車。


 窓の外は夕方の色になっていた。


 沈みかけた太陽が街の屋根や窓を橙色に染め、長く伸びた影が線路沿いを流れていく。車内には夕方特有の疲れた静けさがあり、空調の低い音とレールの継ぎ目を越える振動が一定のリズムで響いていた。


 二人は向かい合わせに座っていた。


「今日は楽しかった」


「私も。依央が海と仲良くなれてよかった」


「まだ名前を聞いただけだよ」


「じゃあ、次は名前をつけよう」


「海に?」


「うん。依央が呼びやすい名前」


「朔が変な名前をつけないなら」


「候補はもうあるよ」


「聞かないほうがよさそう」


「ひどい」


 依央は窓の外を見た。


「仕事のこと、少し忘れられた?」


「うん。久しぶりに、明日のことを考えなくてよかった」


「それなら、今日の目的は達成だね」


「目的だったの?」


「依央を休ませること」


「朔は?」


「私は、依央と海を見ることが目的」


 依央は返事をせず、窓へ視線を戻した。


 夕焼けの光がガラスに反射し、向かいに座る朔の顔を淡く重ねていた。外の景色と朔の姿が一つに見え、その不思議な重なりに胸の奥をそっと掴まれたような気がした。


「じゃあ、次はどこに行く?」


「もう次の話?」


「依央が嫌なら、今日の余韻だけで帰るけど」


「嫌とは言ってない」


「じゃあ、考えておいて」


「朔も考えて」


「私はもう決めた」


「早いね」


「依央が一緒なら、場所はどこでもいい」


 依央は少しだけ黙った。


「……そういうことを、急に言う」


「本当のことだから」


 電車が揺れる。


 しばらくして、朔が眠そうに目をこする。


「眠い?」


「少し。朝から楽しみにしてた分、今になってきた」


「寝ていいよ。乗り過ごしたら起こす」


「依央が起こしてくれるなら、安心」


「寝過ごす前提なんだ」


「依央の肩、借りてもいい?」


 依央は一瞬だけ朔を見た。


「……少しだけなら」


「ありがとう」


 朔が目を閉じる。


 数分後。


 電車が揺れた拍子に、朔の頭が少し傾いた。


 そして。


 依央の肩に触れた。


 衣服越しに伝わる重みと、朔の髪からかすかに漂うシャンプーの匂い。規則正しい寝息が、車内の振動に混じって聞こえる。


 依央は動かなかった。


 朔も気づいていない。


 そのまま、しばらく時間が過ぎる。


 依央は窓の外を見る。


 夕焼けが街を染めている。


 赤みを帯びた光が、窓ガラスと朔の頬を柔らかく照らしていた。やがて光が薄れていくにつれ、肩に感じる重さだけがはっきりと残る。


 その重さが、不思議と心地よかった。


 離れてしまうかもしれない未来を考えたばかりなのに、今ここにある温もりは確かだった。依央はその感触を、今日という一日の記憶ごと、そっと胸の奥にしまった。


     *


 マンションへ戻ったのは、午後六時過ぎだった。


 外気はすっかり冷え、海辺でまとった潮の匂いも、街の乾いた空気の中で少しずつ薄れていた。


「今日はありがとう」


「こちらこそ。連れてきてくれてありがとう」


「朔が誘ってくれたんでしょ」


「じゃあ、誘いに乗ってくれてありがとう」


「それなら、こちらこそ」


 二人は廊下で立ち止まる。


 それぞれの部屋の前。


「今日は、ちゃんと休めた?」


「うん。朔は?」


「私も。依央の肩を借りたし」


「それは休みすぎ」


「じゃあ、次も借りるね」


「予約が必要」


「いつ空いてる?」


「……考えておく」


「それ、断る気がない返事だね」


 依央がドアを開ける。


 そのとき。


「依央」


「ん?」


「今日、言おうと思ってたことがある」


 朔が言葉を探している。


「海で言いかけてたこと?」


「うん。でも、今日はまだ言わない」


「どうして?」


「楽しかった日の最後を、緊張で終わらせたくないから」


 依央は朔を見つめた。


「じゃあ、いつ言うの?」


「次に会ったとき」


「約束?」


「約束。今度は逃げない」


「逃げるのは、朔のほうじゃない?」


「……それは否定できない」


 依央は小さく笑った。


「分かった。待ってる」


 朔の目がわずかに見開かれる。


「待っててくれるの?」


「言ったでしょ。逃げる理由がないって」


「そっか」


 朔は安心したように笑った。


「じゃあ、またね」


「うん。またね、依央」


 ドアが閉まる。


 閉じた扉の向こうに、海の音はもう聞こえない。それでも依央の耳には、まだ波の余韻が残っていた。朔の声と一緒に、その音が胸の中で静かに続いている。


     *


 夜。


 依央は今日撮った写真を見返していた。


 海。


 料理。


 夕方の景色。


 そして。


 ベンチに置かれた二つの飲み物。


 写真を指でなぞると、冷たい缶の感触や潮風の匂いまで蘇ってくるようだった。


 何気ない一日だった。


 でも。


 依央は思う。


 ――また一緒に行きたい。


 次の休日も。


 その次も。


 自然にそう思った。


 その願いは、夕暮れの海に残した約束のように、静かで、それでも確かなものだった。


     *


 同じ頃。


 朔も自分の部屋で、今日の写真を見ていた。


 海を見ている依央の横顔。


 笑っている依央。


 そして、帰りの電車で自分が寄りかかってしまったこと。


「……恥ずかしい」


 けれど、顔は笑っていた。


 写真の中の夕焼けはもう消えているのに、朔の胸にはまだその光が残っていた。依央の肩に触れたときの温かさも、電車の揺れも、耳元で聞こえた穏やかな呼吸も、鮮明に蘇る。


 スマートフォンを操作する。


『今日はありがとう』


 送信。


 すぐに返信が来る。


『こちらこそ。楽しかった』


 少し迷う。


 そして。


『次も行こうね、依央』


『うん。次も行こう、朔』


 朔は画面を見つめたまま、もう一度文字を打つ。


『次に会ったとき、話したいことがある』


 送信してから、すぐに後悔した。


 けれど、依央から返ってきたのは、短い一文だった。


『待ってる』


 それだけで、胸の奥にあった不安が少しほどけた。


 朔はスマートフォンを胸元に抱えた。


 画面の明かりが消えたあとも、指先には依央の名前を打った感触が残っていた。


「……もっと一緒にいたいな」


 小さく呟く。


 その気持ちが何なのか。


 もう、気づき始めていた。


 ただ。


 言葉にするには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。


 それでも次に会ったときは、逃げない。


 そう決めて、朔はもう一度、依央から届いた『待ってる』の文字を見つめた。


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