第十章 名前を呼ぶ距離 後編
翌朝。
依央は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。
昨日の海。
帰りの電車。
肩に寄りかかって眠っていた朔。
そして。
『次に会ったとき、話したいことがある』
昨夜のメッセージ。
それを思い出した瞬間、胸の奥が少しだけ騒がしくなった。
「……何だろう」
考えても分からない。
仕事のことかもしれない。
新しい担当のことかもしれない。
それとも。
昨日、海で言いかけていたことなのか。
依央は枕元のスマートフォンを置いた。
まだ朝だ。
答えを急ぐ必要はない。
そう思った。
*
午前中。
依央は洗濯をして、部屋を片づけた。
いつもなら休日はゆっくり過ごすところだが、昨日一日外に出ていた分、家のことが少し溜まっていた。
洗濯物を干す。
掃除機をかける。
キッチンを整える。
ひと通り終わったところで、時計を見る。
午前十一時半。
静かな部屋。
ふと、昨日までなら当たり前だったことを思い出す。
同居していた頃なら、ここで朔の声が聞こえていた。
「依央、お昼どうする?」
そんな何気ない声。
今はない。
なのに。
寂しいというより、少し不思議な感じがした。
同居をやめたことで、二人の関係は終わらなかった。
むしろ。
会いたいと思って会うようになった。
依央は窓の外を見る。
昨日の海とは違う、いつもの街。
「……変なの」
そう呟いた。
*
午後。
スマートフォンが震えた。
『今、何してる?』
朔からだった。
依央はすぐに返信する。
『家のことしてた』
『真面目だね』
『朔は?』
『私は昨日の写真見てた』
『海の?』
『うん』
少し間が空く。
『また行きたい』
依央は画面を見つめた。
『私も』
送信。
既読がつく。
『じゃあ、行こう』
『うん』
短いやり取り。
それだけなのに、自然と笑ってしまう。
少し前までなら、こんな約束をするだけでも「迷惑じゃないかな」と考えていた。
今は違う。
会いたい。
そう思ったら、言葉にできる。
それが嬉しかった。
*
午後三時。
いつもの時間。
依央はコーヒーを淹れた。
昨日は海辺で過ごした午後三時。
今日は一人の部屋。
カップを机に置いたところで、メッセージが届く。
『午後三時』
『今日は家でコーヒー飲んでる』
『私も』
『同じだね』
『うん』
依央はそこでスマートフォンを伏せた。
窓から入る午後の光。
机の上のコーヒー。
隣の部屋にいる朔。
別々の場所にいるのに、同じ時間を共有している。
それだけで十分だった。
*
夕方。
玄関のチャイムが鳴った。
依央がドアを開ける。
「こんばんは」
「こんばんは、朔」
「昨日のお礼」
朔が小さな紙袋を差し出した。
「何?」
「お菓子」
「わざわざ?」
「昨日、私ばっかり楽しませてもらった気がしたから」
「そんなことないよ」
「でも、受け取って」
「じゃあ、ありがとう」
依央は袋を受け取った。
「お茶、飲んでいく?」
「いいの?」
「うん」
二人で部屋へ入る。
*
お茶を淹れる。
テーブルに二つのカップ。
昨日の海の話をする。
写真を見せ合う。
「この写真、いいね」
「どれ?」
「これ」
朔がスマートフォンを見せる。
そこには、海を眺める依央の横顔が写っていた。
「いつ撮ったの?」
「ベンチに戻ってくる前」
「……撮るなら言ってよ」
「言ったら、そんな顔しないでしょ」
「どんな顔?」
「自然な顔」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
依央は写真を見る。
自分では気づかなかった表情。
少しだけ笑っている。
「……悪くないね」
「でしょ?」
「朔は?」
「私はこっち」
次に見せられた写真には、電車の中で眠っている朔が写っていた。
「これ、撮ったの?」
「うん」
「削除して」
「嫌」
「恥ずかしい」
「私しか見ないから」
「それなら……まあ」
依央はスマートフォンを返した。
「大切にしてね」
「うん」
その一言に、二人とも少しだけ黙った。
*
「依央」
「なに?」
朔の声が変わった。
さっきまでの軽さが消えている。
依央はカップに触れたまま、朔を見た。
「……話したいこと?」
「覚えてた?」
「忘れられるわけないでしょ」
思ったより早く言葉が出た。
朔の指が、カップの取っ手をゆっくりなぞる。
「そんなに気になる?」
「気になるよ」
「どうして?」
「朔が、あんなふうに言ったから」
「どんなふうに?」
「『次に会ったとき』って。まるで、今すぐには言えないことみたいに」
朔は目を伏せた。
「……そう聞こえた?」
「違うの?」
「違わない」
短い返事だった。
その声に、依央の胸がわずかに強くなる。
「仕事の話?」
「違う」
「じゃあ、新しい担当?」
「それも違う」
「昨日、海で言いかけてたこと?」
朔の呼吸が止まったように見えた。
依央はそれ以上、聞けなかった。
聞けば、朔が本当に困ってしまう気がした。
けれど、朔は逃げるように笑った。
「やっぱり、逃げられないね」
「逃げないって言ったの、朔でしょ」
「そうだった」
朔は笑おうとしたが、うまく笑えていなかった。
依央には、それが分かった。
「朔」
「うん」
「無理に今言わなくてもいいよ」
朔が顔を上げる。
「……いいの?」
「いいよ」
「聞きたいって言ったのに?」
「聞きたい。でも、朔がそんな顔をしてまで話すことじゃない」
朔の目が揺れた。
「そんな顔って?」
「今にも逃げそうな顔」
「逃げたいわけじゃない」
「じゃあ、何?」
問いかけると、朔は黙った。
テーブルの上で、二人のカップから細い湯気が立っている。
その向こうにいる朔の表情が、少しだけ遠く見えた。
「……怖いの」
やがて、朔が言った。
「何が?」
「話したら、今までみたいにいられなくなるかもしれない」
依央の指が止まった。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
「私と?」
「うん」
「私が、何かすると思ってる?」
「そうじゃない」
朔はすぐに首を振った。
「依央がどうするかじゃなくて。私が、もう今までのふりをできなくなる気がする」
「……ふり?」
「何でもないみたいに、隣にいて。何でもないみたいに、名前を呼んで。何でもないみたいに、帰ること」
最後の言葉が、かすかに震えた。
依央は朔から目を逸らせなかった。
「朔」
「ごめん。今の、忘れて」
「忘れられないよ」
「だよね」
朔は困ったように笑った。
その笑顔が、依央には痛かった。
「でも、今日は無理」
「……うん」
「もう少しだけ、時間がほしい」
依央はすぐには答えなかった。
朔の手が、膝の上で固く握られている。
その手を取れば、何かが変わってしまう気がした。
取らなければ、朔を一人で帰すことになる気がした。
迷った末に、依央はテーブルの上へ手を伸ばした。
朔の指先に、ほんの少しだけ触れる。
朔が息を呑んだ。
「分かった」
依央は手を引かなかった。
「待つよ」
「……怒らない?」
「怒らない」
「聞きたくないって、思わない?」
「思わない」
「聞きたいのに?」
「聞きたいから、待つ」
朔は依央の指先を見つめた。
「それ、ずるい」
「何が?」
「そんなこと言われたら、余計に言えなくなる」
「どうして?」
「大事にされてるみたいで」
依央の胸が大きく鳴った。
朔は自分で言った言葉に気づいたのか、慌てて目を逸らす。
「……ごめん。変なこと言った」
「変じゃないよ」
「でも」
「朔が話したいと思ったときでいい」
依央はゆっくり手を離した。
離れた指先が、急に冷たくなる。
「ただ」
「うん」
「一人で悩みすぎないでね」
朔はしばらく黙っていた。
やがて、かすかに笑う。
「依央は、そういうところが優しすぎる」
「朔にだけだよ」
言ってから、依央自身が驚いた。
朔も目を見開いている。
部屋の空気が、ほんの少し変わった。
「……今の、もう一回言って」
「言わない」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「私も恥ずかしい」
「じゃあ、お互い様」
朔は笑った。
今度の笑顔は、さっきより少しだけ自然だった。
「約束して」
「何を?」
「ちゃんと話すから」
「うん」
「逃げないから」
「うん」
「だから、もう少しだけ待って」
「分かった」
朔は小さく息を吐いた。
「ありがとう、依央」
名前を呼ばれただけなのに、依央の胸がまた高鳴った。
*
しばらくして。
朔が立ち上がる。
「今日は帰るね」
「うん」
「これ以上いたら、本当に全部話してしまいそうだから」
依央は朔を見上げた。
「それは、話したくないってこと?」
「違う」
朔は玄関へ向かいながら答えた。
「ちゃんと話したいってこと」
靴を履く。
依央も玄関まで見送る。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
ドアに手をかけた朔が、そこで動きを止めた。
「依央」
「ん?」
「……やっぱり、明日じゃなくてもいい?」
「何が?」
「話すの」
依央は朔の横顔を見た。
帰りたいのに、帰りたくない。
話したいのに、話せない。
その迷いが、表情にそのまま出ていた。
「朔が話したいと思ったときでいいよ」
「……本当に?」
「うん」
「待たせるよ」
「待つ」
「長くなるかもしれない」
「それでも」
朔がゆっくり振り返る。
近い距離で目が合った。
「……どうして?」
依央は答えを探した。
けれど、うまく言葉にできない。
「朔だから」
それだけ言うと、朔の目が揺れた。
「それ、反則」
「何が?」
「そんなふうに言われたら、帰れなくなる」
「帰らない?」
「帰る」
朔は笑ったが、目元は少し赤かった。
「帰るけど……ちゃんと、また来る」
「うん」
「一人で悩みすぎないでねって言われたから」
「朔もね」
「約束」
「うん」
朔は一度だけ、依央の名前を呼んだ。
「依央」
「なに?」
「……おやすみ」
「おやすみ、朔」
ドアが閉まる。
*
その夜。
依央はベッドに入ってからも、朔のことを考えていた。
何を話したいのだろう。
どうしてそんなに迷っているのだろう。
いくら考えても分からない。
でも。
不思議と不安ではなかった。
朔が話してくれるまで待てばいい。
そう思えた。
スマートフォンを見る。
午後三時に交わしたメッセージ。
海での写真。
そして今日の「また明日」。
依央は画面を消した。
「……また明日」
小さく呟く。
以前は、明日会えるかどうかなんて考えなかった。
隣にいたから。
今は違う。
隣の部屋に住んでいても、会うには互いの意思が必要だ。
だからこそ。
「また明日」が、以前より少しだけ特別に聞こえた。
*
翌朝。
仕事へ向かう準備をしていると、隣のドアが開いた。
「おはよう、依央」
「おはよう、朔」
いつもの朝。
それなのに。
昨日までとは少し違って見えた。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「うん。朔は?」
「少し考え事してた」
「……そっか」
「でも、大丈夫」
朔は笑った。
「今日の午後三時、忘れないから」
「うん」
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
二人は歩き出す。
しばらく進んだところで、依央が振り返る。
朔も振り返った。
目が合う。
朔が手を振る。
依央も小さく手を振り返した。
*
午後三時。
依央のスマートフォンが震える。
『午後三時』
いつもの言葉。
依央はすぐに返信した。
『お疲れさま』
既読。
少しして。
『今日、帰ったら会いたい』
依央は画面を見つめた。
『うん。待ってる』
送信する。
すぐに返事が来た。
『ありがとう、依央』
その文字を見た瞬間。
依央の胸が、少しだけ高鳴った。
今日。
何かが変わる。
そんな予感がした。
そして。
その予感を、依央は怖いとは思わなかった。
むしろ。
少しだけ楽しみにしている自分がいた。




