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第十一章 午後三時の告白 前編


 午後三時を過ぎてから、依央は何度も時計を見た。


 仕事に集中しようとしても、どうしても気になる。


 ――今日、帰ったら会いたい。


 昨日、朔から届いたメッセージ。


 その短い言葉が、朝からずっと頭の片隅に残っていた。


「……落ち着かないな」


 小さく呟いて、依央は資料へ視線を戻した。


 新しい仕事にも、少しずつ慣れてきた。


 以前なら、一つのミスを引きずってしまっていた。


 けれど最近は、間違いがあれば確認して、修正して、次へ進む。


 それが少しずつできるようになっている。


 朔に話を聞いてもらったことも大きかった。


 だから今日も、目の前の仕事に集中する。


 そう決めた。


 それでも。


 時計を見る。


 午後三時十二分。


 また見る。


 三時二十七分。


 そして。


 午後四時。


「……まだ早い」


 自分に言い聞かせるように呟いた。


     *


 仕事を終えたのは、午後六時前だった。


 外へ出る。


 夕方の風が少し冷たい。


 駅からマンションへ向かう道を歩きながら、依央はスマートフォンを確認した。


 メッセージはない。


 今日、朔と会う約束をしている。


 それだけなのに。


 足取りがいつもより少し速くなる。


 マンションに着く。


 エレベーターを降りる。


 廊下を進む。


 そして。


 隣の部屋の前で足を止めた。


 明かりがついている。


 朔は帰っている。


 依央は自分の部屋の鍵を取り出した。


 そのとき。


「依央」


 後ろから声がした。


 振り返る。


「朔」


「おかえり」


「ただいま」


 朔は仕事用のバッグを持っていた。


「今日は早かったね」


「うん。依央は?」


「今帰ってきたところ」


「そっか」


 二人とも、しばらくその場に立っていた。


「……入る?」


 朔が言う。


「うん」


     *


 朔の部屋。


 以前、二人で暮らしていた頃とは違う。


 家具の配置も少し変わっている。


 けれど。


 依央には不思議と懐かしく感じられた。


「座って」


「ありがとう」


 依央がソファに座る。


 朔はキッチンへ向かった。


「何か飲む?」


「お茶でいいよ」


「分かった」


 湯を沸かす音。


 食器の触れ合う小さな音。


 そのどれもが、妙に大きく聞こえる。


 依央は手を膝の上で組んだ。


 緊張している。


 自分でも分かった。


 やがて。


 朔が二つのカップを持って戻ってくる。


「どうぞ」


「ありがとう」


 二人でお茶を飲む。


 しばらく会話がない。


 普段なら、すぐに何か話す。


 今日は違った。


「……昨日のこと」


 朔が口を開く。


「うん」


「覚えてる?」


「覚えてるよ」


「そっか」


 朔がカップを置く。


「じゃあ、話すね」


 依央の背筋が少し伸びる。


「うん」


「ちゃんと聞いてほしい」


「分かった」


 朔は一度、深く息を吸った。


「私ね」


 そこで言葉が止まる。


 依央は急かさなかった。


 ただ、朔を見る。


「依央と一緒にいる時間が、好き」


 依央の胸が大きく鳴った。


「友達として、って言おうと思ってた」


 朔は苦笑した。


「でも、それじゃ自分の気持ちに嘘をついてる気がして」


 依央は何も言えない。


「一緒に暮らしてた頃も」


 朔が続ける。


「部屋が別になってからも」


「午後三時に連絡するときも」


「海へ行ったときも」


「依央が名前を呼んでくれたときも」


 その一つ一つを思い出すように、朔は言葉を重ねた。


「もっと一緒にいたいって思ってた」


 依央は俯いた。


 胸の奥が熱い。


 何か言わなければと思う。


 けれど、言葉が出てこない。


「ごめん」


 朔が小さく言った。


「困らせたいわけじゃない」


「……ううん」


 依央は首を振る。


「困ってない」


「本当に?」


「うん」


 顔を上げる。


 朔と目が合う。


「ただ……」


 そこで、依央は言葉を止めた。


 言ってしまえば、自分の中にあるものまで形になってしまいそうだった。


「私も、分からなくなってた」


 朔が黙って待つ。


「朔と一緒にいると安心する」


「うん」


「会えないと寂しい」


「うん」


「午後三時に連絡が来ると嬉しい」


「うん」


「名前で呼ばれると……もっと嬉しい」


 そこまで言って、依央は一度目を閉じた。


 それだけなら。


 答えは、もう出ているようにも思えた。


 けれど。


 依央の中には、もう一つ怖いものがあった。


「でも」


 ゆっくり息を吐く。


「私は、一度、自分が限界になるまで気づけなかったことがあるから」


 朔の表情が変わる。


「仕事をしてたときも、最初は大丈夫だと思ってた」


「……うん」


「少しくらい我慢すればいいって思ってたし、周りに迷惑をかけないようにしなきゃって思ってた」


 依央は膝の上で指を組み直す。


「その結果、自分が何を感じてるのか分からなくなった」


「依央……」


「仕事を辞めてから、やっと気づいたの」


 声が少し震える。


「自分のことなのに、自分の気持ちを後回しにしてたって」


 朔は何も言わない。


 ただ、依央の話を聞いている。


「だから今度は、同じことをしたくない」


「……うん」


「朔が好きって言ってくれたから、嬉しい」


 その言葉に、朔の目が揺れる。


「本当に嬉しい」


 依央は正直に続けた。


「でも、その嬉しさだけで答えたくない」


「どうして?」


「朔を失いたくないから」


 朔が息を止める。


「もし私が、寂しいからとか、嬉しいからとか、朔に大切にされてるからって理由だけで答えたら……」


 依央は一度言葉を切った。


「あとで自分の気持ちが分からなくなったとき、私はきっと怖くなる」


「……」


「そうなったら、一番傷つくのは朔だと思う」


 部屋が静かになる。


 時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「だから」


 依央は朔を見る。


「ちゃんと自分で分かりたい」


「何を?」


「朔と一緒にいたいのが、ただ安心するからなのか」


 少しだけ間を置く。


「それとも――」


 そこで言葉が止まる。


 まだ、その先を口にする勇気がない。


「……ちゃんと、私自身が朔を好きだからなのか」


 朔はしばらく黙っていた。


 やがて。


「そっか」


 それだけ言って、ゆっくり頷いた。


「だから、時間がほしいんだね」


「うん」


「私が嫌だからじゃなくて?」


「違う」


 依央はすぐに首を振った。


「むしろ逆」


「逆?」


「大切だから、適当に答えたくない」


 朔の瞳が少し潤む。


 それでも、朔は笑った。


「……それなら、待つ」


「いいの?」


「うん」


「長くなるかもしれないよ」


「いいよ」


「答えが変わるかもしれない」


 その言葉を口にした瞬間、依央自身の胸が痛んだ。


 朔も少しだけ目を伏せる。


「……それも、分かってる」


「ごめん」


「謝らないで」


 朔は静かに言った。


「私が欲しいのは、無理に出してもらった答えじゃないから」


 依央は何も言えなかった。


「依央が自分で考えて、それでも私を選んでくれたら」


 朔が小さく笑う。


「そのほうが、私は嬉しい」


「朔……」


「だから待つよ」


 その言葉に、依央の胸が熱くなる。


「ただ」


「うん?」


「一つだけ、お願いしていい?」


「何?」


「今まで通りでいてほしい」


「……今まで通り?」


「午後三時に連絡するのも」


「うん」


「名前で呼ぶのも」


「うん」


「会いたいときに会うのも」


 依央は少し考えてから頷いた。


「分かった」


「ありがとう」


 朔は安心したように笑った。


 依央も少し笑う。


 答えはまだ出ていない。


 けれど。


 今は、それでいいと思えた。


     *


 しばらくして。


 依央が立ち上がる。


「今日は帰るね」


「うん」


 玄関まで見送る。


 靴を履く。


 ドアを開ける。


「依央」


「なに?」


「返事を急がなくていいから」


「うん」


「でも、私も待ってる間、普通に会いたいって言うから」


 依央は思わず笑った。


「それは、今まで通りだね」


「うん」


「じゃあ、私も今まで通りにする」


「約束?」


「約束」


 依央は廊下へ出る。


「おやすみ、朔」


「おやすみ、依央」


 ドアが閉まる。


     *


 自分の部屋へ戻る。


 照明をつける。


 静かな部屋。


 依央はソファへ座った。


 今日聞いた言葉を思い返す。


 好き。


 もっと一緒にいたい。


 そして。


 待つ。


 その言葉が、何度も胸の中で響いている。


 依央は目を閉じた。


 朔を失いたくない。


 その気持ちは、もう疑いようがなかった。


 ただ。


 それが「好き」という気持ちと同じなのか。


 そこだけが、まだ分からない。


 だから、考える。


 過去の自分なら、相手を安心させるために、きっとすぐ答えを出していた。


 「うん」と言えば、朔は安心する。


 「私も好き」と言えば、きっと笑ってくれる。


 でも。


 それでは駄目だった。


 今度こそ、自分の気持ちを置き去りにしたくない。


 朔を大切にしたい。


 だからこそ。


 自分自身の気持ちも、大切にしなければならない。


 依央はスマートフォンを手に取った。


 午後三時に交わしたメッセージを開く。


『今日、帰ったら会いたい』


『うん。待ってる』


 たったそれだけのやり取り。


 なのに。


 今見ると、少し意味が違って見えた。


 依央は小さく笑った。


「……私も、待ってるのかもしれない」


 朔の告白の返事を。


 そして。


 自分自身の答えを。


 まだ知らないまま。


 それでも。


 明日の午後三時が、少しだけ待ち遠しかった。


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