↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/36

第十一章 午後三時の告白 中編


 翌日。


 依央は朝から、少しだけ変な気分だった。


 目を覚ましてから、昨日のことを何度も思い返している。


 朔の言葉。


 自分の言葉。


 そして。


 「待つ」と言ってくれた朔の顔。


 胸の奥が、落ち着かない。


 眠っている間も、どこかで昨日の会話を反芻していたのかもしれない。喉が少し乾いていて、指先には薄い汗が残っていた。


 布団の中で天井を見つめながら、依央は小さく息を吐いた。


「……簡単じゃないな」


 好きか嫌いか。


 本来なら、それだけの話なのかもしれない。


 けれど。


 依央にとっては違った。


 誰かを好きになるということは、その人との関係を変えることでもある。


 今までのように隣にいること。


 何気なく名前を呼ぶこと。


 午後三時にメッセージを送ること。


 それらすべてが、違う意味を持ってしまうかもしれない。


 もし、今までの何気ない時間まで「好きだったから」と説明されてしまったら。


 自分は、これまで何を見ないふりをしていたのだろう。


 そう考えると、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 そして何より。


 もし一度「好き」と認めてしまったら。


 もう後戻りできない気がした。


 認めた瞬間から、朔の声も、表情も、触れそうで触れない距離も、すべてが今までとは違って見えてしまう。


 それが怖かった。


 怖いのに。


 同時に、確かめてみたいとも思っていた。


     *


 仕事へ向かうため、玄関を出る。


 隣のドアが開いた。


「おはよう、依央」


「おはよう、朔」


 いつもの朝。


 なのに。


 昨日までより、少しだけお互いを意識している。


 朔の声を聞いただけで、依央の背中がわずかに強張った。振り向く前から、そこに朔がいると分かっていたはずなのに、心臓が一度だけ大きく跳ねる。


「眠そう」


「昨日ちょっと考え事してたから」


「……私のこと?」


「少し」


 正直に答えると、朔が照れたように笑う。


 その笑顔を見た瞬間、依央の胸がまた熱くなった。


「ごめん」


「謝らないでよ」


「でも」


「朔が悪いわけじゃない」


 依央は靴を履き終える。


「私がちゃんと考えたいだけだから」


「うん」


 朔の返事は短かった。


 けれど、その声には急かす気配がなかった。


 二人でエレベーターへ向かう。


「依央」


「なに?」


「昨日より、少し楽そう」


「そう?」


「うん」


「たぶん」


 依央は少し考えてから続けた。


「朔が待ってくれるって言ってくれたから」


 言葉にした途端、胸の奥にあったものが少しだけほどけた。


 朔が黙る。


「……それ、嬉しい」


「どうして?」


「依央がちゃんと私を信じてくれてる気がするから」


 その言葉に、依央の指先がかすかに震えた。


 信じている。


 そう言われると、嬉しい。


 けれど同時に、そんなふうに思ってもらえるほど、自分は朔に何かを返せているのだろうかという不安も湧いた。


 エレベーターの扉が開く。


 二人は中へ入った。


 誰もいない。


 静かな箱の中で、朔がぽつりと言った。


「私も、依央を信じてる」


 依央は返事をしなかった。


 声を出せば、何かがこぼれてしまいそうだった。


 ただ。


 その言葉は一日中、胸の中に残った。


 仕事をしていても、書類に目を通していても、ふとした瞬間に思い出す。


 信じてる。


 その響きが、胸の内側をゆっくり撫でるようだった。


     *


 昼休み。


 依央は一人で食事をしていた。


 窓の外を眺める。


 以前の自分なら、仕事のことばかり考えていた。


 今日やらなければならないこと。


 明日までに終わらせること。


 誰かに迷惑をかけないために、何をしなければならないか。


 そんなことばかり。


 けれど今は。


 朔のことを考えている。


 昨日の笑顔。


 朝の声。


 エレベーターの中で聞いた言葉。


 思い出すたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 それが少し不思議だった。


 以前の自分なら、誰かのことをここまで考える余裕なんてなかった。


 考えないようにしていた、と言ったほうが正しいのかもしれない。


 誰かを思えば、その人の反応に期待してしまう。


 期待すれば、失望する可能性も生まれる。


 だから、最初から何も望まないほうが楽だった。


 けれど朔のことだけは、考えないようにしようとするほど、意識の中に浮かんでくる。


 そのたびに、胸が苦しくなる。


 それなのに、嫌ではなかった。


 むしろ、その苦しさの中に、確かな温度があった。


 そして。


 そんな自分を、少しだけ嫌いではなくなっていた。


     *


 午後三時。


 スマートフォンが震える。


『午後三時』


 朔からだった。


 画面に表示された短い言葉を見ただけで、依央の頬が緩む。


 自分でも分かるほど、反応が早かった。


 依央は微笑んで返信する。


『今日は少し忙しい』


『大丈夫?』


『うん』


『無理しないで』


 少し考えてから、依央は送る。


『朔もね』


 送信したあと、なぜか返事が来るまでの数秒が長く感じられた。


 すぐに返事が来た。


『はいはい』


『何その返事』


『依央に言われると、なんか先生みたい』


『じゃあ言わない』


『それは困る』


 依央は思わず笑った。


 笑ったあとで、胸の奥が軽く跳ねる。


 こんなやり取りだけで、こんなにも気持ちが動く。


 それが、少し怖かった。


 周囲から見れば、何でもないやり取り。


 けれど。


 今の依央には、この時間が特別だった。


 午後三時。


 忙しい日でも。


 離れていても。


 必ず一度、相手を思い出す。


 それが、二人の間にできた小さな習慣だった。


 そして依央は、もう気づき始めていた。


 この習慣を守りたいと思っているのは、朔だけではない。


 自分も同じなのだ。


     *


 仕事を終えたあと。


 依央はまっすぐマンションへ帰った。


 エレベーターを降りる。


 廊下を歩く。


 隣の部屋を見る。


 明かりはついていない。


 まだ帰っていないらしい。


 その事実に、依央の足がほんの少しだけ重くなった。


 会えると思っていた。


 会いたいと思っていた。


 けれど、いざ姿が見えないと、胸の中に小さな空白ができる。


 依央は自分の部屋へ入った。


 荷物を置く。


 上着を脱ぐ。


 そして。


 冷蔵庫を開けた。


 中には、昨日買った食材が残っている。


 依央はしばらく考えた。


 作る理由なら、いくらでもつけられる。


 食材を無駄にしたくない。


 一人分より二人分のほうが作りやすい。


 朔はまだ帰っていないから、少しでも楽をさせてあげたい。


 けれど。


 本当は、ただ朔と一緒に食べたかった。


 その考えを認めると、胸の奥が熱くなり、同時に胃のあたりが落ち着かなくなった。


 依央はスマートフォンを手に取る。


『今日、夕飯どうする?』


 送信。


 送ったあと、取り消したくなった。


 重く思われないだろうか。


 会いたいと言っているように見えないだろうか。


 いや、実際に会いたいのだから、そう見えてもいいのかもしれない。


 迷っているうちに返信が来る。


『まだ帰れてない』


 依央は画面を見つめた。


 それだけの返事なのに、少し寂しい。


 自分でも驚くほど、落胆していた。


『じゃあ、何か作ろうか?』


 指が先に動いた。


『いいの?』


『うん』


『じゃあ、お言葉に甘える』


 依央は冷蔵庫を閉めた。


 胸の奥に、じわりとした喜びが広がる。


「……何作ろうかな」


 口元が自然に緩んだ。


 その笑顔を誰かに見られたら、きっとすぐに分かってしまう。


 自分が、朔を待っていることが。


     *


 午後七時過ぎ。


 玄関のチャイムが鳴った。


 音を聞いた瞬間、依央の心臓が大きく跳ねた。


 自分でも可笑しいと思う。


 ただ、朔が来ただけなのに。


「依央?」


「おかえり」


「ただいま」


 朔が部屋へ入る。


 外の冷たい空気が一緒に流れ込み、朔の匂いが近くなった。


 それだけで、依央の呼吸が少し浅くなる。


「いい匂い」


「簡単なものだけど」


「十分嬉しい」


 その言葉に、依央の胸が柔らかくほどけた。


 テーブルには、温かい料理が並んでいる。


「いただきます」


「いただきます」


 二人で食卓を囲む。


 以前、一緒に暮らしていた頃と似ている。


 けれど。


 どこか違う。


 朔が箸を持つ仕草を見ているだけで、依央は妙に意識してしまう。


 指先。


 伏せられた睫毛。


 料理を口に運ぶときの、わずかな表情。


 以前なら見過ごしていたものが、今はひとつひとつ目に入ってくる。


「美味しい」


「よかった」


「依央の料理、久しぶりに食べた気がする」


「そんなに?」


「同居してた頃は、もっと普通だったから」


「そうだね」


 二人で笑う。


 その笑い声が重なった瞬間、依央の胸の奥が温かくなった。


 この時間が終わってほしくない。


 そう思った自分に気づいて、依央は箸を持つ手を一度止めた。


 食事を終える。


 朔が食器を持って立ち上がる。


「洗うよ」


「いいよ。私がやる」


「今日は作ってもらったから、私がやる」


「でも」


「いいから」


 朔がキッチンへ向かう。


 蛇口から水が流れる。


 食器が触れ合う音。


 依央はその背中を見ていた。


 以前なら。


 これも当たり前だった。


 けれど今は。


 その光景が、少しだけ大切に思える。


 朔がここにいる。


 自分の部屋で、自分のために食器を洗っている。


 その事実だけで、胸の奥が満たされていく。


 同時に、もしこの時間がなくなったらと思うと、喉の奥が詰まるようだった。


 失いたくない。


 その言葉が、はっきりと浮かんだ。


 依央は慌てて視線を逸らした。


     *


 食器を洗い終えた朔が戻ってくる。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「……なんか」


 朔がソファに座る。


「こういうの、いいね」


「うん」


 依央も少し離れて隣に座った。


 肩が触れない距離。


 けれど、朔が動けばすぐに触れそうな距離だった。


 その近さを意識しただけで、依央の腕に薄い鳥肌が立つ。


「同居してた頃みたい」


「でも、今は別々の部屋だよ」


「そうなんだよね」


 朔が笑う。


「だから余計に嬉しい」


 依央はその言葉を聞いて、少し考えた。


 嬉しい。


 自分も同じだった。


 けれど、それを口にするのはまだ怖い。


「朔」


「なに?」


「同居してた頃って」


「うん」


「私たち、どうだったと思う?」


 朔は少し驚いた顔をした。


「急に難しい質問」


「ごめん」


「ううん」


 朔は考える。


「楽しかった」


「それだけ?」


「もちろん大変なこともあったけど」


 少し笑う。


「私は、あの時間が好きだった」


 その言葉を聞いた瞬間、依央の胸が強く締めつけられた。


 好き。


 朔が過去の時間に向けた言葉なのに、その音だけが耳の奥に残る。


 依央は黙って聞く。


「でも」


「うん」


「今のほうが、ちゃんと依央と会えてる気がする」


「どうして?」


「一緒にいることが当たり前じゃなくなったから」


 朔は自分の手を見る。


「会いたいって思って、会いに行く」


「話したいって思って、連絡する」


「一緒にいたいって思って、誘う」


 そして。


「それって、前よりちゃんと私の気持ちで依央を選んでる気がする」


 依央はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 熱が喉元まで上がってきて、うまく息ができない。


「……選ぶ」


「うん」


「私も、そうなのかもしれない」


 言葉にした途端、指先が震えた。


 自分で言ったのに、その意味が怖い。


 朔が依央を見る。


「同居してた頃は、朔が隣にいることが当たり前だった」


「うん」


「今は違う」


「うん」


「だから、会いたいって思うたびに……」


 依央は言葉を探した。


 胸の中には、もう答えに近いものがある。


 けれど、それを声にしてしまえば、何かが決定的に変わる。


「私、朔を選んでるのかな」


 問いかけた瞬間、心臓が痛いほど鳴った。


 朔は何も言わなかった。


 ただ、優しく笑った。


「私は、そう思うよ」


 その笑顔を見て、依央は目を逸らした。


 嬉しい。


 怖い。


 もっと近づきたい。


 でも、これ以上近づけば、もう自分を誤魔化せない。


 相反する感情が胸の中でぶつかり合い、依央は膝の上で手を強く握った。


     *


 その夜。


 朔が帰ったあと。


 依央は一人でソファに座っていた。


 部屋は静かだった。


 さっきまで朔がいた場所を見る。


 ソファの隣には、まだ朔の体温が残っているような気がした。


 依央は無意識に、その場所へ手を伸ばしかける。


 けれど、触れる前に止めた。


 テーブルには二人分のカップ。


 キッチンには、洗ったばかりの食器。


 そして。


 午後三時のメッセージ。


 全部が一本の線で繋がっているように感じた。


 依央はスマートフォンを開く。


 今日のやり取りを見る。


『今日、夕飯どうする?』


『じゃあ、何か作ろうか?』


 自分から誘っている。


 自分から会いたいと思った。


 自分から一緒に過ごす時間を作った。


 そこに「寂しいから」という理由だけでは説明できないものがある。


 朔がいない廊下を見たときの寂しさ。


 チャイムを聞いたときの高鳴り。


 隣に座ったときの体温への意識。


 帰ったあとに残る空白。


 それらはすべて、ただの習慣ではなかった。


 依央はゆっくり目を閉じた。


 胸の奥に浮かんだ言葉を、何度も確かめる。


 会いたい。


 触れたい。


 そばにいてほしい。


 そして。


 朔に、自分を選んでほしい。


「……そっか」


 声にした途端、胸の奥が震えた。


 まだ、はっきりとは言えない。


 「好き」と口にするには、怖さが残っている。


 けれど。


 もう、何も感じていないふりはできなかった。


 昨日までより、一歩だけ近づいた気がした。


 自分の気持ちに。


     *


 翌日。


 午後三時。


 依央は自分からメッセージを送った。


『午後三時』


 送信ボタンを押した指先が、わずかに熱を持つ。


 すぐに返信が来る。


『今日は依央からだ』


『たまにはね』


『嬉しい』


 その一言を見ただけで、依央の胸が満たされる。


 少し迷ってから。


 依央はもう一文、打った。


『今日も帰ったら、少し会わない?』


 送信。


 既読。


 返事を待つ間、心臓の音が耳の近くで鳴っているようだった。


 そして。


『もちろん』


 依央は画面を見つめた。


 胸の奥が、また少しだけ熱くなる。


 嬉しい。


 その感情を、もう否定しなかった。


 まだ答えは出ていない。


 それでも。


 答えを出すことから逃げているわけではない。


 自分が何を感じているのかを、一つずつ確かめている。


 その時間そのものが。


 依央にとって、大切なものになり始めていた。


 そして。


 午後三時という時間もまた。


 ただの約束ではなく。


 自分が朔を選び続けている証のように、少しずつ意味を変えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。