第十一章 午後三時の告白 中編
翌日。
依央は朝から、少しだけ変な気分だった。
目を覚ましてから、昨日のことを何度も思い返している。
朔の言葉。
自分の言葉。
そして。
「待つ」と言ってくれた朔の顔。
胸の奥が、落ち着かない。
眠っている間も、どこかで昨日の会話を反芻していたのかもしれない。喉が少し乾いていて、指先には薄い汗が残っていた。
布団の中で天井を見つめながら、依央は小さく息を吐いた。
「……簡単じゃないな」
好きか嫌いか。
本来なら、それだけの話なのかもしれない。
けれど。
依央にとっては違った。
誰かを好きになるということは、その人との関係を変えることでもある。
今までのように隣にいること。
何気なく名前を呼ぶこと。
午後三時にメッセージを送ること。
それらすべてが、違う意味を持ってしまうかもしれない。
もし、今までの何気ない時間まで「好きだったから」と説明されてしまったら。
自分は、これまで何を見ないふりをしていたのだろう。
そう考えると、胸の奥がきゅっと縮んだ。
そして何より。
もし一度「好き」と認めてしまったら。
もう後戻りできない気がした。
認めた瞬間から、朔の声も、表情も、触れそうで触れない距離も、すべてが今までとは違って見えてしまう。
それが怖かった。
怖いのに。
同時に、確かめてみたいとも思っていた。
*
仕事へ向かうため、玄関を出る。
隣のドアが開いた。
「おはよう、依央」
「おはよう、朔」
いつもの朝。
なのに。
昨日までより、少しだけお互いを意識している。
朔の声を聞いただけで、依央の背中がわずかに強張った。振り向く前から、そこに朔がいると分かっていたはずなのに、心臓が一度だけ大きく跳ねる。
「眠そう」
「昨日ちょっと考え事してたから」
「……私のこと?」
「少し」
正直に答えると、朔が照れたように笑う。
その笑顔を見た瞬間、依央の胸がまた熱くなった。
「ごめん」
「謝らないでよ」
「でも」
「朔が悪いわけじゃない」
依央は靴を履き終える。
「私がちゃんと考えたいだけだから」
「うん」
朔の返事は短かった。
けれど、その声には急かす気配がなかった。
二人でエレベーターへ向かう。
「依央」
「なに?」
「昨日より、少し楽そう」
「そう?」
「うん」
「たぶん」
依央は少し考えてから続けた。
「朔が待ってくれるって言ってくれたから」
言葉にした途端、胸の奥にあったものが少しだけほどけた。
朔が黙る。
「……それ、嬉しい」
「どうして?」
「依央がちゃんと私を信じてくれてる気がするから」
その言葉に、依央の指先がかすかに震えた。
信じている。
そう言われると、嬉しい。
けれど同時に、そんなふうに思ってもらえるほど、自分は朔に何かを返せているのだろうかという不安も湧いた。
エレベーターの扉が開く。
二人は中へ入った。
誰もいない。
静かな箱の中で、朔がぽつりと言った。
「私も、依央を信じてる」
依央は返事をしなかった。
声を出せば、何かがこぼれてしまいそうだった。
ただ。
その言葉は一日中、胸の中に残った。
仕事をしていても、書類に目を通していても、ふとした瞬間に思い出す。
信じてる。
その響きが、胸の内側をゆっくり撫でるようだった。
*
昼休み。
依央は一人で食事をしていた。
窓の外を眺める。
以前の自分なら、仕事のことばかり考えていた。
今日やらなければならないこと。
明日までに終わらせること。
誰かに迷惑をかけないために、何をしなければならないか。
そんなことばかり。
けれど今は。
朔のことを考えている。
昨日の笑顔。
朝の声。
エレベーターの中で聞いた言葉。
思い出すたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
それが少し不思議だった。
以前の自分なら、誰かのことをここまで考える余裕なんてなかった。
考えないようにしていた、と言ったほうが正しいのかもしれない。
誰かを思えば、その人の反応に期待してしまう。
期待すれば、失望する可能性も生まれる。
だから、最初から何も望まないほうが楽だった。
けれど朔のことだけは、考えないようにしようとするほど、意識の中に浮かんでくる。
そのたびに、胸が苦しくなる。
それなのに、嫌ではなかった。
むしろ、その苦しさの中に、確かな温度があった。
そして。
そんな自分を、少しだけ嫌いではなくなっていた。
*
午後三時。
スマートフォンが震える。
『午後三時』
朔からだった。
画面に表示された短い言葉を見ただけで、依央の頬が緩む。
自分でも分かるほど、反応が早かった。
依央は微笑んで返信する。
『今日は少し忙しい』
『大丈夫?』
『うん』
『無理しないで』
少し考えてから、依央は送る。
『朔もね』
送信したあと、なぜか返事が来るまでの数秒が長く感じられた。
すぐに返事が来た。
『はいはい』
『何その返事』
『依央に言われると、なんか先生みたい』
『じゃあ言わない』
『それは困る』
依央は思わず笑った。
笑ったあとで、胸の奥が軽く跳ねる。
こんなやり取りだけで、こんなにも気持ちが動く。
それが、少し怖かった。
周囲から見れば、何でもないやり取り。
けれど。
今の依央には、この時間が特別だった。
午後三時。
忙しい日でも。
離れていても。
必ず一度、相手を思い出す。
それが、二人の間にできた小さな習慣だった。
そして依央は、もう気づき始めていた。
この習慣を守りたいと思っているのは、朔だけではない。
自分も同じなのだ。
*
仕事を終えたあと。
依央はまっすぐマンションへ帰った。
エレベーターを降りる。
廊下を歩く。
隣の部屋を見る。
明かりはついていない。
まだ帰っていないらしい。
その事実に、依央の足がほんの少しだけ重くなった。
会えると思っていた。
会いたいと思っていた。
けれど、いざ姿が見えないと、胸の中に小さな空白ができる。
依央は自分の部屋へ入った。
荷物を置く。
上着を脱ぐ。
そして。
冷蔵庫を開けた。
中には、昨日買った食材が残っている。
依央はしばらく考えた。
作る理由なら、いくらでもつけられる。
食材を無駄にしたくない。
一人分より二人分のほうが作りやすい。
朔はまだ帰っていないから、少しでも楽をさせてあげたい。
けれど。
本当は、ただ朔と一緒に食べたかった。
その考えを認めると、胸の奥が熱くなり、同時に胃のあたりが落ち着かなくなった。
依央はスマートフォンを手に取る。
『今日、夕飯どうする?』
送信。
送ったあと、取り消したくなった。
重く思われないだろうか。
会いたいと言っているように見えないだろうか。
いや、実際に会いたいのだから、そう見えてもいいのかもしれない。
迷っているうちに返信が来る。
『まだ帰れてない』
依央は画面を見つめた。
それだけの返事なのに、少し寂しい。
自分でも驚くほど、落胆していた。
『じゃあ、何か作ろうか?』
指が先に動いた。
『いいの?』
『うん』
『じゃあ、お言葉に甘える』
依央は冷蔵庫を閉めた。
胸の奥に、じわりとした喜びが広がる。
「……何作ろうかな」
口元が自然に緩んだ。
その笑顔を誰かに見られたら、きっとすぐに分かってしまう。
自分が、朔を待っていることが。
*
午後七時過ぎ。
玄関のチャイムが鳴った。
音を聞いた瞬間、依央の心臓が大きく跳ねた。
自分でも可笑しいと思う。
ただ、朔が来ただけなのに。
「依央?」
「おかえり」
「ただいま」
朔が部屋へ入る。
外の冷たい空気が一緒に流れ込み、朔の匂いが近くなった。
それだけで、依央の呼吸が少し浅くなる。
「いい匂い」
「簡単なものだけど」
「十分嬉しい」
その言葉に、依央の胸が柔らかくほどけた。
テーブルには、温かい料理が並んでいる。
「いただきます」
「いただきます」
二人で食卓を囲む。
以前、一緒に暮らしていた頃と似ている。
けれど。
どこか違う。
朔が箸を持つ仕草を見ているだけで、依央は妙に意識してしまう。
指先。
伏せられた睫毛。
料理を口に運ぶときの、わずかな表情。
以前なら見過ごしていたものが、今はひとつひとつ目に入ってくる。
「美味しい」
「よかった」
「依央の料理、久しぶりに食べた気がする」
「そんなに?」
「同居してた頃は、もっと普通だったから」
「そうだね」
二人で笑う。
その笑い声が重なった瞬間、依央の胸の奥が温かくなった。
この時間が終わってほしくない。
そう思った自分に気づいて、依央は箸を持つ手を一度止めた。
食事を終える。
朔が食器を持って立ち上がる。
「洗うよ」
「いいよ。私がやる」
「今日は作ってもらったから、私がやる」
「でも」
「いいから」
朔がキッチンへ向かう。
蛇口から水が流れる。
食器が触れ合う音。
依央はその背中を見ていた。
以前なら。
これも当たり前だった。
けれど今は。
その光景が、少しだけ大切に思える。
朔がここにいる。
自分の部屋で、自分のために食器を洗っている。
その事実だけで、胸の奥が満たされていく。
同時に、もしこの時間がなくなったらと思うと、喉の奥が詰まるようだった。
失いたくない。
その言葉が、はっきりと浮かんだ。
依央は慌てて視線を逸らした。
*
食器を洗い終えた朔が戻ってくる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……なんか」
朔がソファに座る。
「こういうの、いいね」
「うん」
依央も少し離れて隣に座った。
肩が触れない距離。
けれど、朔が動けばすぐに触れそうな距離だった。
その近さを意識しただけで、依央の腕に薄い鳥肌が立つ。
「同居してた頃みたい」
「でも、今は別々の部屋だよ」
「そうなんだよね」
朔が笑う。
「だから余計に嬉しい」
依央はその言葉を聞いて、少し考えた。
嬉しい。
自分も同じだった。
けれど、それを口にするのはまだ怖い。
「朔」
「なに?」
「同居してた頃って」
「うん」
「私たち、どうだったと思う?」
朔は少し驚いた顔をした。
「急に難しい質問」
「ごめん」
「ううん」
朔は考える。
「楽しかった」
「それだけ?」
「もちろん大変なこともあったけど」
少し笑う。
「私は、あの時間が好きだった」
その言葉を聞いた瞬間、依央の胸が強く締めつけられた。
好き。
朔が過去の時間に向けた言葉なのに、その音だけが耳の奥に残る。
依央は黙って聞く。
「でも」
「うん」
「今のほうが、ちゃんと依央と会えてる気がする」
「どうして?」
「一緒にいることが当たり前じゃなくなったから」
朔は自分の手を見る。
「会いたいって思って、会いに行く」
「話したいって思って、連絡する」
「一緒にいたいって思って、誘う」
そして。
「それって、前よりちゃんと私の気持ちで依央を選んでる気がする」
依央はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。
熱が喉元まで上がってきて、うまく息ができない。
「……選ぶ」
「うん」
「私も、そうなのかもしれない」
言葉にした途端、指先が震えた。
自分で言ったのに、その意味が怖い。
朔が依央を見る。
「同居してた頃は、朔が隣にいることが当たり前だった」
「うん」
「今は違う」
「うん」
「だから、会いたいって思うたびに……」
依央は言葉を探した。
胸の中には、もう答えに近いものがある。
けれど、それを声にしてしまえば、何かが決定的に変わる。
「私、朔を選んでるのかな」
問いかけた瞬間、心臓が痛いほど鳴った。
朔は何も言わなかった。
ただ、優しく笑った。
「私は、そう思うよ」
その笑顔を見て、依央は目を逸らした。
嬉しい。
怖い。
もっと近づきたい。
でも、これ以上近づけば、もう自分を誤魔化せない。
相反する感情が胸の中でぶつかり合い、依央は膝の上で手を強く握った。
*
その夜。
朔が帰ったあと。
依央は一人でソファに座っていた。
部屋は静かだった。
さっきまで朔がいた場所を見る。
ソファの隣には、まだ朔の体温が残っているような気がした。
依央は無意識に、その場所へ手を伸ばしかける。
けれど、触れる前に止めた。
テーブルには二人分のカップ。
キッチンには、洗ったばかりの食器。
そして。
午後三時のメッセージ。
全部が一本の線で繋がっているように感じた。
依央はスマートフォンを開く。
今日のやり取りを見る。
『今日、夕飯どうする?』
『じゃあ、何か作ろうか?』
自分から誘っている。
自分から会いたいと思った。
自分から一緒に過ごす時間を作った。
そこに「寂しいから」という理由だけでは説明できないものがある。
朔がいない廊下を見たときの寂しさ。
チャイムを聞いたときの高鳴り。
隣に座ったときの体温への意識。
帰ったあとに残る空白。
それらはすべて、ただの習慣ではなかった。
依央はゆっくり目を閉じた。
胸の奥に浮かんだ言葉を、何度も確かめる。
会いたい。
触れたい。
そばにいてほしい。
そして。
朔に、自分を選んでほしい。
「……そっか」
声にした途端、胸の奥が震えた。
まだ、はっきりとは言えない。
「好き」と口にするには、怖さが残っている。
けれど。
もう、何も感じていないふりはできなかった。
昨日までより、一歩だけ近づいた気がした。
自分の気持ちに。
*
翌日。
午後三時。
依央は自分からメッセージを送った。
『午後三時』
送信ボタンを押した指先が、わずかに熱を持つ。
すぐに返信が来る。
『今日は依央からだ』
『たまにはね』
『嬉しい』
その一言を見ただけで、依央の胸が満たされる。
少し迷ってから。
依央はもう一文、打った。
『今日も帰ったら、少し会わない?』
送信。
既読。
返事を待つ間、心臓の音が耳の近くで鳴っているようだった。
そして。
『もちろん』
依央は画面を見つめた。
胸の奥が、また少しだけ熱くなる。
嬉しい。
その感情を、もう否定しなかった。
まだ答えは出ていない。
それでも。
答えを出すことから逃げているわけではない。
自分が何を感じているのかを、一つずつ確かめている。
その時間そのものが。
依央にとって、大切なものになり始めていた。
そして。
午後三時という時間もまた。
ただの約束ではなく。
自分が朔を選び続けている証のように、少しずつ意味を変えていた。




