第十一章 午後三時の告白 後編
その日の夜。
午後三時に自分から連絡したことが、依央の中に残っていた。
仕事が終わってからも、何度かスマートフォンを見る。
約束したわけではない。
それでも、朔が来ることを期待している自分がいた。
午後七時を少し過ぎた頃。
チャイムが鳴る。
「依央?」
「うん」
ドアを開ける。
「お疲れさま」
「お疲れさま、朔」
朔は小さな袋を持っていた。
「これ、買ってきた」
「何?」
「プリン」
「急に?」
「なんとなく食べたくなって」
「二つ買ったから」
そう言って、朔が笑う。
依央も笑った。
「じゃあ、食べよう」
「うん」
*
二人でテーブルを囲む。
プリンを食べながら、今日あったことを話す。
仕事のこと。
帰り道のこと。
駅で見かけた犬のこと。
どれも大した話ではない。
けれど。
依央は、こういう時間が好きだった。
何か特別なことをしなくてもいい。
ただ朔と話している。
それだけで、心が落ち着く。
「そういえば」
朔がスプーンを置いた。
「今日、仕事どうだった?」
「普通」
「本当に?」
「うん」
「最近、前より楽しそう」
「……そうかな」
「そうだよ」
朔は少し笑った。
「前は仕事の話になると、すぐ顔が固くなってた」
「そんなに?」
「うん」
「見てたんだ」
「見てたよ」
その答えが、妙に嬉しかった。
「今は?」
「今は……」
依央は少し考える。
「仕事だけが全部じゃないって思えるようになった」
「それならよかった」
「朔のおかげかも」
「私?」
「うん」
朔が少し照れたように笑う。
「じゃあ、もっと役に立たないとね」
「もう十分だよ」
「そう?」
「うん」
*
食器を片づけたあと。
二人はソファに並んで座った。
テレビはつけている。
けれど、二人ともほとんど見ていなかった。
「依央」
「なに?」
「この前の話」
依央の身体が少し固くなる。
「うん」
「まだ、考えてる?」
「考えてる」
「そっか」
朔はそれ以上聞かなかった。
そのことが、かえって依央には気になった。
「……聞かないの?」
「何を?」
「答え」
「聞きたいよ」
朔は正直に言った。
「でも、急かしたくない」
「どうして?」
「依央がちゃんと考えたいって言ったから」
依央は俯いた。
「ありがとう」
「うん」
「でも」
依央は顔を上げる。
「待たせるのも、少し嫌なんだ」
「え?」
「朔に待ってもらってるって思うと、申し訳なくなる」
朔は少し困ったように笑った。
「私は、待たされてるとは思ってないよ」
「じゃあ、何?」
「一緒に答えを探してる感じ」
その言葉に、依央は目を見開いた。
「……一緒に?」
「うん」
「でも、答えを出すのは私だよ」
「そうだけど」
朔は依央を見る。
「私は、依央が自分の気持ちを見つけるまで、隣にいるだけ」
依央の胸が熱くなった。
「……それ、ずるい」
「また?」
「そういうこと言われると、余計に好きになりそう」
言った瞬間。
部屋が静かになった。
依央自身が、一番驚いていた。
朔も目を見開いている。
「……今」
「忘れて」
「無理」
「お願い」
「それは無理」
朔は少し笑った。
けれど、頬は赤かった。
「依央」
「なに?」
「今の、どういう意味?」
依央は答えられなかった。
自分でも分からない。
いや。
分かっているのかもしれない。
ただ、言葉にするのが怖かった。
「……分からない」
「そっか」
朔はそれ以上追及しなかった。
「じゃあ、今はそれでいいよ」
*
しばらくして。
朔が帰る時間になった。
玄関へ向かう。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「プリン美味しかった」
「また買ってくる」
「楽しみにしてる」
靴を履く。
朔がドアを開ける。
「おやすみ、依央」
「おやすみ、朔」
朔が廊下へ出る。
ドアが閉まる。
依央はしばらく玄関に立っていた。
そして。
さっき自分が口にした言葉を思い返す。
『余計に好きになりそう』
どうして、あんな言葉が出てきたのだろう。
冗談ではなかった。
少なくとも。
完全な冗談では。
*
部屋へ戻る。
ソファに座る。
隣には、まだ朔が座っていた場所が残っている。
依央はそこへ手を置いた。
ほんの少し温かい。
その温度が消えるのが、惜しいと思った。
そして。
気づく。
自分は、朔が帰るたびに寂しいと思っている。
会えない日は、会いたいと思っている。
午後三時になると、連絡が来るのを待っている。
そして。
自分から会いたいと言えるようになった。
「……これって」
依央は小さく呟く。
答えは、もうすぐそこまで来ている。
*
翌朝。
依央はいつもより少し早く起きた。
仕事へ向かう準備をする。
玄関を開ける。
隣のドアが開く。
「おはよう」
「おはよう、朔」
朔が依央の顔を見る。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか、顔が違う」
「そう?」
「うん」
依央は少し考える。
「昨日、考えた」
「何を?」
「私の気持ち」
朔の表情が少し変わる。
「……そっか」
「まだ全部は分からない」
「うん」
「でも、一つ分かった」
「何?」
依央は少しだけ笑った。
「朔に会いたいって思うのは、寂しいからだけじゃない」
朔は黙って聞いている。
「一緒にいると嬉しい」
「うん」
「もっと一緒にいたい」
「うん」
「それに」
依央は一度息を吸った。
「朔に、私を選んでほしいって思う」
朔の目が大きくなる。
けれど。
依央はそこで止めた。
「……まだ、ここまで」
「うん」
「ちゃんとした答えは、もう少しだけ待って」
朔はしばらく依央を見つめた。
そして。
「分かった」
柔らかく笑った。
「ありがとう」
「何が?」
「ここまで話してくれて」
「……うん」
「じゃあ、行こう」
「うん」
二人は並んで歩き出す。
*
午後三時。
いつもの時間。
依央のスマートフォンが震えた。
『午後三時』
朔からだった。
依央はすぐに返信する。
『今日もお疲れさま』
少し考えて。
『帰ったら会いたい』
送信。
既読。
『私も』
その返事を見て。
依央は笑った。
もう、分かっている。
自分が何を望んでいるのか。
あとは。
その気持ちに、自分で名前をつけるだけだった。
*
夕方。
仕事を終えた依央は、いつもより少し早くマンションへ戻った。
隣の部屋の前。
足を止める。
中から物音がする。
依央はチャイムを押そうとして。
やめた。
代わりに、メッセージを送る。
『帰ったよ』
すぐに返信。
『今行く』
ドアが開く。
「おかえり、依央」
「ただいま、朔」
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥にあった迷いが、また一つ消えた。
まだ「好き」と言うには、ほんの少しだけ勇気が足りない。
でも。
もう、その言葉から逃げるつもりはなかった。
午後三時に始まった小さな約束。
隣人として始まった二人の時間。
一度は同居という形を終えて。
それでも、またこうして隣にいる。
そのすべてが。
少しずつ、一本の答えへ繋がっている。
依央は朔の隣に並んだ。
「ねえ、朔」
「なに?」
「明日も、会える?」
朔は笑った。
「もちろん」
午後三時。
その時間がまた、二人を繋いでいた。




