第十二章 午後三時、君と 前編
朝。
目を覚ました依央は、しばらく布団の中から動けなかった。
昨夜のことを思い出していた。
朔と話したこと。
そして、自分が口にした言葉。
『朔に、私を選んでほしい』
思い返すだけで、胸が熱くなる。
あれは、ただの寂しさから出た言葉ではない。
朔にそばにいてほしい。
これからも一緒にいたい。
その気持ちが、自分の中にある。
そこまでは、もう分かっている。
問題は、その気持ちを何と呼ぶのか。
依央は枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
画面を見る。
午前七時。
まだ朔からの連絡はない。
当たり前だ。
まだ午後三時ではない。
なのに。
少しだけ物足りない。
「……私、変わったな」
以前なら、こんなふうに誰かからの連絡を待つことなんてなかった。
誰かに期待することも避けていた。
期待すれば、傷つく。
だから。
最初から何も望まない。
それが一番楽だった。
けれど。
朔と出会ってから、その考えは少しずつ変わっていった。
*
仕事へ向かうため、玄関を開ける。
ほとんど同時に、隣のドアが開いた。
「おはよう、依央」
「おはよう、朔」
「眠そう」
「昨日、少し考え事してた」
「また私?」
「……うん」
朔が少し照れたように笑う。
「何を考えてたの?」
「秘密」
「教えてくれないんだ」
「まだね」
「じゃあ、いつか教えて」
「うん」
依央は笑った。
そのとき。
ふと、思う。
――いつか。
その言葉を、自分は自然に使っている。
朔との未来を、無意識に想像している。
それは以前の自分にはなかったことだった。
「行こうか」
「うん」
二人は並んでエレベーターへ向かった。
*
仕事中。
依央は何度か手を止めた。
集中できていないわけではない。
むしろ、今日は妙に頭が冴えている。
自分の気持ちを整理するように、一つずつ考えていく。
朔と出会ったこと。
部屋をシェアすることになったこと。
最初は、ただ事情があって一緒に暮らしただけだった。
隣人になった。
同居した。
そして。
同居を終えた。
それでも。
関係は終わらなかった。
別々の部屋に戻ったからこそ、会いたいと思うようになった。
午後三時の約束を作った。
名前で呼ぶようになった。
海へ行った。
一緒に食事をした。
仕事の悩みを話した。
何度も笑った。
何度も支えてもらった。
その一つ一つを思い出していく。
そこで、依央は気づいた。
自分が怖かったのは、恋そのものではなかった。
怖かったのは。
また自分の気持ちを後回しにしてしまうことだった。
相手を喜ばせるため。
相手を安心させるため。
嫌われないため。
そうやって、自分の本当の気持ちを置き去りにすること。
だから。
時間がほしかった。
誰かに決めてもらうためではない。
自分で決めるために。
依央は、ようやくその意味を理解した。
「……そういうことだったんだ」
小さく呟く。
*
午後三時。
スマートフォンが震えた。
『午後三時』
朔から。
いつものメッセージ。
依央は画面を見つめた。
今までは。
この一言が来るだけで嬉しかった。
今も嬉しい。
でも。
今日は少し違った。
依央は自分からメッセージを打つ。
『午後三時』
送信。
すぐに返信。
『今日は一緒だね』
『うん』
『仕事終わったら会える?』
『会いたい』
送信した瞬間。
依央はスマートフォンを握り直した。
もう一度、自分の気持ちを確かめる。
会いたい。
今すぐ会いたい。
仕事が終わったら、顔を見たい。
声を聞きたい。
隣に座りたい。
そして。
ちゃんと伝えたい。
依央は深く息を吐いた。
もう、逃げなくていい。
*
仕事が終わる。
今日は不思議なくらい時間が早かった。
駅からマンションまで歩く。
いつもなら長く感じる道が、今日は短い。
エレベーターに乗る。
扉が開く。
廊下。
隣の部屋。
明かりがついている。
依央は自分の部屋の前を通り過ぎた。
そして。
朔のドアの前で立ち止まる。
チャイムを押す。
「はい」
「私」
すぐにドアが開いた。
「おかえり」
「ただいま」
朔が笑う。
「今日は早かったね」
「うん」
「夕飯どうする?」
「その前に」
依央は言った。
「少し話したい」
朔の表情が変わる。
「……うん」
二人は部屋へ入った。
*
ソファに並んで座る。
以前とは違う。
何度もこうして座ってきた。
けれど。
今日は特別だった。
「依央」
「うん」
「答え、出た?」
依央は一度目を閉じた。
そして。
「うん」
目を開く。
朔を見る。
「まだ、怖い」
朔が黙って聞いている。
「これから何が変わるのか分からないし」
「うん」
「もし今までみたいにいかなくなったらって考えると、怖い」
「うん」
「でも」
依央はゆっくり言葉を続けた。
「何もしないまま、今の関係を守るほうが、もっと嫌だって思った」
朔の目が揺れる。
「昨日まで、私は答えを探してた」
「うん」
「でも、本当はもう分かってたんだと思う」
依央の指先が震える。
それでも。
今度は目を逸らさなかった。
「朔と会いたい」
「うん」
「朔と一緒にいたい」
「うん」
「これからも、朔を一番近くで見ていたい」
胸が苦しい。
でも。
不思議と逃げたいとは思わなかった。
「だから」
依央は小さく息を吸った。
「私は、朔が好き」
言葉にした瞬間。
世界が少し静かになった気がした。
朔は何も言わない。
ただ、目を潤ませながら依央を見つめている。
「……やっと言った」
朔が笑った。
「うん」
「長かった」
「ごめん」
「謝らないで」
朔は涙を拭う。
「嬉しくて」
依央の胸が熱くなる。
「私も、嬉しい」
「依央」
「うん」
「もう一回言って」
「え?」
「好きって」
依央は恥ずかしそうに笑った。
「……好き」
今度は、はっきりと言えた。
朔が笑う。
「私も」
その声が、優しく響いた。
「ずっと好きだった」
依央はその言葉を聞いて。
ようやく、自分が長い間探していた答えに辿り着いた気がした。
*
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
ただ隣にいる。
それだけなのに。
今までとは違う。
依央は隣に座る朔を見る。
「……ねえ」
「なに?」
「これから、どうなるの?」
朔は少し考える。
「分からない」
「分からないんだ」
「だって、今日からだから」
「そっか」
依央は笑う。
「じゃあ、一つずつ決めていこう」
「うん」
「今まで通り、午後三時も続ける」
「もちろん」
「一緒にご飯も食べる」
「うん」
「たまには旅行にも行く」
「行きたい」
「仕事が忙しいときは無理しない」
「約束」
依央は少しだけ考えた。
「それから」
「うん?」
「……名前で呼ぶ」
朔が笑う。
「それはもう慣れたでしょ」
「違う」
依央は少し照れながら言った。
「これからは、恋人として呼びたい」
朔の顔が赤くなる。
「……それ、ずるい」
「朔が言わせたんでしょ」
「そうだけど」
二人で笑う。
その笑い声が、今までより少し近く聞こえた。
*
午後八時。
二人で簡単な夕食を作る。
さっきまで緊張していたとは思えないほど、自然に動けた。
朔が野菜を切る。
依央が鍋を火にかける。
「ねえ」
「なに?」
「恋人になったからって、急に何か変えなくてもいいよね」
「うん」
「今までみたいに、普通に過ごしたい」
「私も」
「よかった」
依央は笑った。
けれど。
料理を盛り付けるために皿を渡すとき。
指先が触れた。
二人とも、一瞬だけ止まる。
「……」
「……」
「今までなら、何とも思わなかったのに」
朔が小さく笑う。
「私も」
依央も笑った。
たったそれだけ。
けれど。
二人の関係が変わったことを、改めて実感した。
*
食事のあと。
午後三時ではない。
それでも。
依央は時計を見た。
「明日の午後三時」
「うん」
「ちゃんと連絡するね」
「楽しみにしてる」
「私も」
朔が笑う。
その笑顔を見て。
依央は思った。
あの日。
隣の部屋から始まった。
事情があって、一緒に暮らすことになった。
いつか終わると思っていた時間。
けれど。
終わったからこそ分かった。
本当に欲しかったのは、同じ部屋に住むことではなかった。
同じ時間を生きること。
会いたいと思ったときに、会いたいと言えること。
嬉しいときに、嬉しいと言えること。
そして。
好きな人に、好きだと伝えられること。
依央は隣にいる朔を見る。
「朔」
「ん?」
「これからもよろしくね」
「うん」
朔が少し照れながら笑う。
「こちらこそ、依央」
午後三時から始まった小さな約束は。
いつの間にか。
二人の未来を繋ぐ約束になっていた。




