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第十二章 午後三時、君と 中編


恋人になった翌朝。


白瀬依央は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。


カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床を細く照らしている。


昨日までと何も変わらない朝だった。


自分の部屋。

自分のベッド。

いつもの時間。


けれど、ひとつだけ違う。


隣の部屋に――久住朔がいる。


それを思った瞬間、依央は布団の中で小さく笑った。


昨日、あれだけ緊張していたのが嘘みたいだった。


「……恋人、か」


口に出してみる。


途端に恥ずかしくなって、依央は布団を鼻まで引き上げた。


昨日までなら、こんなことを考えている自分を少し可笑しく思ったかもしれない。


けれど今は違う。


朔のことを好きだと言っていい。


会いたいと思ったら、会いたいと言っていい。


触れたいと思ったら、その気持ちを隠さなくてもいい。


そんな当たり前のことが、妙に嬉しかった。


スマートフォンを手に取る。


時刻は午前八時を少し過ぎたところ。


メッセージの画面を開く。


昨日までと同じ名前。


けれど、その意味だけが変わっている。


依央は少し迷ってから、文字を打った。


『おはよう』


送信。


すぐに既読がついた。


『おはよう。起きてた?』


『今起きた』


『私も』


それだけのやり取りなのに、依央は頬が緩むのを止められなかった。


昨日までなら、こんなことで喜ぶ自分を少し不思議に思っていた。


今は違う。


恋人なのだから。


……恋人なのだから。


もう一度心の中で繰り返して、依央は枕に顔を埋めた。


「……慣れない」


それでも、嬉しい。


少しして、部屋の外から小さく物音がした。


依央が玄関を開ける。


ちょうど向かいから朔も出てきた。


目が合う。


二人とも、少しだけ固まった。


「……おはよう」


朔が言う。


「おはよう」


「昨日の今日だから、なんか変な感じするね」


「私も」


二人とも笑った。


けれど、その笑い方には昨日までにはなかった照れが混じっている。


朔が一歩近づく。


「……恋人なんだよね、私たち」


「うん」


「じゃあ」


朔が少しだけ手を伸ばす。


依央はその手を見る。


それから、そっと自分の手を重ねた。


指先が触れる。


それだけなのに、胸の奥が熱くなった。


「……こういうのも、普通になるのかな」


「どうだろう」


「依央は嫌?」


「嫌じゃない」


依央は少しだけ握り返した。


「むしろ……好き」


朔の顔が一気に赤くなる。


「……それ、朝から言う?」


「恋人だから、いいかなって」


「そういうところ、ずるい」


朔は笑いながら、握った手を離さなかった。


そのまま二人で近所の店へ朝食を買いに出た。


以前なら、ただの近所への買い物だった。


けれど今日は違う。


歩く速度を合わせる。


信号を待つ。


どちらからともなく手を繋ぐ。


そんな何気ないことが、ひとつひとつ新鮮だった。


「今日、どうする?」


帰り道、朔が尋ねた。


「まだ決めてない」


「じゃあ、どこか行こうよ」


依央は隣を見る。


「どこに?」


「それも決めてない」


「決まってないことだらけだね」


「恋人になった最初の休日なんだから、それくらいでいいでしょ」


朔が笑う。


その笑顔を見ていると、依央まで楽しくなってきた。


「……じゃあ、出かけよう」


「決まり」


二人は朝食を済ませると、支度をして再び外へ出た。


向かったのは、以前海へ行ったときとは反対方向。


少し離れた場所にある、小さな商店街だった。


目的はない。


ただ、二人で歩きたかった。


雑貨屋を覗いて、喫茶店の前で足を止めて、本屋に入る。


依央が気になった本を手に取れば、朔も隣から覗き込む。


朔が雑貨を眺めていれば、依央は少し後ろからその様子を見ている。


以前から何度もあった光景だった。


けれど、今はそのすべてに小さな変化がある。


「これ、依央っぽい」


朔が棚から小さな栞を取り出した。


淡い色の、シンプルな栞だった。


「私っぽい?」


「うん。なんとなく」


「朔は?」


「私はこれかな」


朔が選んだのは、少し変わった形のしおり。


二人で並べてみる。


「……交換する?」


依央が言った。


「いいの?」


「恋人記念」


その言葉に、朔がまた照れた。


「今日、何回恋人って言うの?」


「だって、昨日なったばかりだから」


「そっか」


朔は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、私も言う」


「何を?」


「恋人記念だから」


そう言って、朔は依央の手を握った。


「依央と一緒にいられて嬉しい」


「……うん」


依央も握り返す。


「私も」


それから二人は喫茶店に入った。


窓際の席。


午後三時にはまだ少し早い。


それでも、二人の間にはいつもの時間が近づいてくる感覚があった。


飲み物を注文し、しばらく今日見つけたものについて話す。


けれど、会話が一度途切れたところで、朔がふと時計を見た。


「もうすぐ三時だね」


依央も時計を見る。


「本当だ」


「なんか……」


朔が少し笑った。


「前は、三時に連絡しないと寂しいって感じだったけど」


「うん」


「今は、三時になったら依央に何を言おうかなって考えるようになった」


依央はその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。


三時。


二人が離れていることを確かめるための時間ではない。


離れていても繋がっていることを、二人で楽しむ時間になったのだ。


「じゃあ、今日は何て言う?」


「それを今考えてる」


「じゃあ私から」


依央はスマートフォンを取り出した。


「三時になったら送る」


「ここにいるのに?」


「うん」


「それ、意味ある?」


「あるよ」


依央は少し笑った。


「私たちの約束だから」


時計の針が三時を指す。


同時に、二人のスマートフォンが小さく震えた。


依央が送った。


『午後三時。今日も好き』


朔が画面を見る。


そして、顔を真っ赤にした。


「……依央」


「なに?」


「これ、反則」


「そう?」


「そう」


朔は少し考えてから返信する。


『午後三時。私も好き。今日は一日ずっと一緒にいよう』


送信。


依央のスマートフォンが震える。


画面を見る。


思わず笑った。


「……うん」


「どうしたの?」


「嬉しい」


「私も」


二人は顔を見合わせる。


そして、どちらからともなく笑った。


午後三時。


以前と同じ時間。


けれど今日からは、その意味が少しだけ変わっている。


二人の関係が変わったからだ。


それでも、変えなくていいものもある。


いつもの時間に連絡すること。


一緒に食事をすること。


くだらないことで笑うこと。


たまには遠くまで出かけること。


そして――隣にいること。


恋人になったからといって、今までの日々を捨てる必要はない。


むしろ依央は思った。


今まで積み重ねてきたものの上に、これからの時間を重ねていけばいい。


店を出る。


夕方にはまだ早い。


「このあと、どうする?」


朔が聞いた。


依央は少し考える。


「もう少し歩きたい」


「うん」


二人はまた歩き出した。


今度は目的地を決めずに。


繋いだ手だけは、さっきより自然になっていた。


依央は隣を歩く朔を見る。


そして、ほんの少しだけ肩を寄せた。


「朔」


「なに?」


「今日、楽しいね」


「うん」


「……恋人になってよかった」


朔は一瞬だけ黙った。


それから、繋いだ手に少し力を込める。


「私も」


その言葉だけで十分だった。


二人は夕暮れへ向かって歩いていく。


いつもの町。


いつもの道。


いつもの二人。


ただひとつ違うのは――


これからは、お互いを「好きな人」と呼べることだった。

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