第十二章 午後三時、君と 後編
休日の夕方。
二人は商店街からマンションへ戻ってきた。
朝からずっと一緒にいた。
雑貨屋を見て、本屋を覗いて、喫茶店で休んで。
特別なことをしたわけではない。
それでも、依央にとっては不思議なくらい満たされた一日だった。
マンションの前まで来る。
いつものように、隣り合った部屋の前で立ち止まった。
「じゃあ、またあとで」
朔が言う。
「うん」
依央も頷く。
けれど。
朔が自分の部屋へ向かおうとしたところで、依央はその袖をつまんだ。
「……待って」
「ん?」
朔が振り返る。
依央は自分でも少し驚いていた。
何となく、離れたくなかった。
「……もう少し、一緒にいたい」
言ってから、頬が熱くなる。
昨日までなら、こんなことを言うのにもっと時間がかかっただろう。
でも今は。
恋人だから。
そう思うと、少しだけ素直になれた。
「もちろん」
朔が笑う。
「じゃあ、私の部屋来る?」
「……いい?」
「恋人なんだから、遠慮しなくていいよ」
その言葉に、依央は小さく頷いた。
「うん」
*
朔の部屋。
以前、二人が一緒に暮らしていた頃とは違う。
それぞれの部屋に戻ってから、もうしばらく経っている。
だからこそ。
今ここにいることには、少し特別な意味があった。
朔が冷蔵庫から飲み物を取り出す。
「何飲む?」
「お茶」
「はい」
「ありがとう」
ソファに座る。
依央も隣に座った。
テレビをつける。
けれど、やっぱりほとんど見ない。
今日一日の話をする。
あの店が面白かった。
本屋で見つけた本が気になった。
喫茶店のケーキが美味しかった。
そんな話をしているうちに、自然と沈黙が訪れた。
気まずくはない。
むしろ心地いい。
依央は隣にいる朔を見る。
そして、少し迷ってから肩を寄せた。
「……依央?」
「何でもない」
「何でもない顔じゃないけど」
「……ちょっとだけ」
「うん?」
「甘えてもいい?」
朔が目を丸くする。
依央は恥ずかしくなって視線を逸らした。
「……今日、ずっと一緒にいたのに」
「うん」
「帰る時間が近づくと、なんか嫌になってきた」
朔は少しだけ笑った。
「それ、私も」
「……本当に?」
「本当」
依央は少し安心したように息を吐いた。
そして。
ゆっくりと朔の肩に頭を預ける。
「……これくらいなら?」
「もちろん」
「重くない?」
「全然」
「じゃあ、もう少し」
依央は身体を寄せた。
朔の肩の温度が伝わってくる。
以前なら、こんなふうに甘えることはできなかった。
一緒に暮らしていた頃でさえ。
近くにいることが当たり前すぎて、自分がどれだけ朔を求めているのか、依央自身が分かっていなかった。
今は違う。
一度離れて。
それでも会いたいと思った。
自分から会いに行きたいと思った。
だから今。
隣にいることが、こんなにも嬉しい。
「朔」
「ん?」
「私ね」
「うん」
「恋人になったって、まだちゃんと実感できてない」
「私も少し」
「でも」
依央は目を閉じた。
「こうしてると、分かる気がする」
「何が?」
「朔に甘えていいんだって」
朔が黙った。
しばらくして。
依央の頭に、そっと手が乗る。
「……じゃあ、いっぱい甘えて」
「いいの?」
「いいよ」
「じゃあ……」
依央は少しだけ迷ってから。
「もう少し、このままでいたい」
「うん」
「今日は帰りたくない」
朔が小さく笑う。
「泊まっていく?」
「……それは」
依央は少し考えた。
「今日はやめておく」
「そっか」
「でも」
依央は顔を上げる。
「もう少しだけ、ここにいたい」
「それなら、いくらでも」
その言葉が嬉しくて。
依央はもう一度、朔の肩に寄りかかった。
*
しばらくして。
窓の外が少しずつ暗くなっていく。
朔が時計を見る。
「夕飯どうする?」
「作る?」
「何食べたい?」
「……朔が作るなら何でもいい」
「それ、結構甘えてるね」
「恋人だから」
「便利な言葉になってない?」
「なってるかも」
二人で笑う。
結局、冷蔵庫にあるものを使って簡単な夕食を作ることにした。
キッチンに並ぶ。
野菜を切る依央。
鍋を見る朔。
以前、一緒に暮らしていたときにも似た光景はあった。
けれど。
あの頃とは違う。
あのときは「一緒に暮らしているから」だった。
今は。
「恋人だから、一緒にご飯を作る」
依央はその違いを、少しだけ嬉しく思った。
「依央、これお願い」
「分かった」
「味見して」
「うん」
スープを一口飲む。
「美味しい」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、よかった」
朔が嬉しそうに笑う。
その顔を見て、依央も笑った。
夕食を食べ終える。
片づけを終える。
気づけば、時計は午後九時を回っていた。
「そろそろ帰る」
依央が立ち上がる。
「うん」
玄関まで送ってもらう。
靴を履く。
ドアの前で、依央は振り返った。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「楽しかった」
「私も」
少しの沈黙。
依央は帰ろうとして。
また、足を止めた。
「……朔」
「なに?」
「明日も会いたい」
朔は笑った。
「会おう」
「……嬉しい」
「依央」
「うん?」
「こっち来て」
朔が手を広げる。
依央は一瞬だけ驚いて。
それから、その胸元へそっと近づいた。
短い抱擁。
けれど、依央には十分だった。
「おやすみ」
「おやすみ、依央」
ドアが閉まる。
依央は自分の部屋へ戻る。
鍵を閉める。
そして、そのまま玄関に立ち尽くした。
頬が熱い。
「……恋人って」
小さく呟く。
まだ少し慣れない。
でも。
嫌じゃない。
むしろ――嬉しい。
*
ベッドに入る。
スマートフォンを見る。
朔からメッセージが届いていた。
『今日はありがとう』
依央はすぐに返信する。
『こちらこそ』
少し考えて。
『今日はいっぱい甘えちゃった』
送る。
すぐに既読がついた。
『もっと甘えていいよ』
依央は画面を見つめる。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
『じゃあ、明日も甘える』
『待ってる』
それだけのやり取り。
なのに。
依央は嬉しくて、布団の中で小さく笑った。
*
翌日。
午後三時。
いつもの時間。
依央のスマートフォンが震える。
『午後三時』
朔からだった。
依央は少し考えてから返信する。
『今日も会いたい』
すぐに返事が来る。
『私も』
依央はスマートフォンを胸元に置いた。
そして、目を閉じる。
昔の自分なら。
誰かに頼ることを、少し怖いと思っていた。
迷惑をかけないように。
自分で何とかできるように。
そうやって、一人で抱え込んできた。
けれど。
今は違う。
甘えてもいい。
寂しいと言ってもいい。
会いたいと言ってもいい。
好きだと言ってもいい。
それを受け止めてくれる人がいる。
そして自分も。
朔が甘えたいときには、その隣にいたい。
それが恋人になるということなのかもしれない。
*
夕方。
インターホンが鳴る。
「依央?」
「うん」
ドアを開ける。
そこには朔が立っていた。
「来たよ」
「うん」
依央は笑った。
「おかえり」
朔も笑う。
「ただいま」
二人で顔を見合わせる。
隣人だった。
同居人だった。
友達だった。
そして今は。
恋人。
関係は変わった。
けれど。
これまで二人で積み重ねてきた時間が消えるわけではない。
むしろ。
そのすべてが、これからの二人を作っていく。
「ねえ、朔」
「なに?」
「これからも、午後三時は続けよう」
「もちろん」
「たとえ会えない日でも」
「うん」
「忙しい日でも」
「うん」
「ちゃんと、好きって伝える」
朔は少し照れながら笑った。
「じゃあ、約束」
「約束」
二人は手を繋ぐ。
午後三時から始まった小さな約束。
隣人として始まった関係。
一緒に暮らした時間。
離れて初めて気づいた想い。
そして。
恋人になった二人。
ここまで来るのに、少し時間がかかった。
迷った。
怖かった。
それでも。
ちゃんと自分の気持ちを選ぶことができた。
依央は、繋いだ手を見る。
その手を、今度は自分から強く握った。
「朔」
「うん?」
「これからも、よろしくね」
「こちらこそ」
朔が笑う。
「依央」
「なに?」
「好きだよ」
依央は少しだけ照れて。
でも、今度は逃げなかった。
「……私も、好き」
窓から差し込む午後の光が、二人の間を柔らかく照らしていた。
午後三時。
いつもの時間。
けれど今日からは。
二人の「好き」が始まる時間でもある。
隣人から始まった二人の物語は。
ここで、一つの区切りを迎える。
そして。
これから先は――
恋人になった二人が、また新しい毎日を作っていく。
君と暮らす。
同じ部屋でなくても。
同じ家でなくても。
心のどこかで、いつも君と暮らしている。
そんな日々が。
これからも続いていく。
――第一部・完
第一部 あとがき
ここまで『君と暮らす、午後三時。』を読んでくださって、本当にありがとうございます。
第一部は、白瀬依央と久住朔という二人の女性が、隣人として出会い、ひょんなことから一緒に暮らすことになり、離れてからも互いを求めるようになって、最後には恋人になる――そんな二人の変化を描いてきました。
最初は、恋愛を書くつもりでありながらも、二人の関係をどこまでゆっくり進めるか、かなり悩みました。
すぐに好きだと気づいてしまうのではなく、
「一緒にいると落ち着く」
「会えないと少し寂しい」
「また会いたい」
「この人といる時間が好き」
という小さな感情を一つずつ積み重ねていきました。
特に大切にしたかったのが、タイトルにもある「午後三時」です。
最初は何気ない連絡だったものが、二人にとって少しずつ特別な時間になっていく。
同じ場所にいなくても、同じ時間を共有できる。
そんな小さな約束が、二人の関係を繋ぐものになればいいなと思って書きました。
そして第一部の終盤では、依央が自分自身の気持ちと向き合うことになります。
朔のことが好きだから答える。
ただそれだけなら、もっと早く答えを出すこともできたかもしれません。
けれど依央にとっては、「誰かを安心させるため」ではなく、自分自身が本当にそう思っているのかを確かめることが大切でした。
だからこそ、少し遠回りをしました。
その時間があったからこそ、最後に依央自身の言葉で「好き」と伝えられたのだと思います。
そして。
ようやく二人は恋人になりました。
第一部では、二人が恋人になるまでを描きました。
なので、ここから先は少し違った二人を見ることができます。
付き合う前にはできなかったこと。
恋人になったからこそ言えること。
今まで以上に素直に甘えたり、少し嫉妬したり。
二人で遠くへ出かけたり、何でもない休日を過ごしたり。
「好き」という気持ちを知った二人が、その気持ちと一緒にどう日々を過ごしていくのか。
そんな時間を第二部では描いていきたいと思っています。
もちろん、二人の関係が変わったからといって、これまでの日常がなくなるわけではありません。
午後三時の約束も。
二人で食べるご飯も。
隣の部屋へ会いに行くことも。
くだらない話をして笑うことも。
きっとこれからも続いていきます。
ただ、その一つ一つに「恋人」という新しい意味が加わっていく。
第一部を書き終えてみて、私自身も二人のこれからが楽しみになりました。
ここまで二人を見守ってくださった皆さんにも、ぜひ第二部での二人を楽しんでいただけたら嬉しいです。
それでは。
金麦




