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ゼロ・カロリー  作者: ぽむぽむ


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第9章 止める人

記事だけでは、箱は止まらない。

 玲奈は出荷予定を見ながら言った。

 独立した検証を進め、関係する窓口へ資料を届ける。同時に学校や納品先へ、確認が終わるまで提供を控えるよう求める。だが、元社員と記者の呼びかけが、すべての現場へ届く保証はない。

「会社の中で、保留をかける人が必要です」

 拓真は田所の名前を挙げた。

「来てくれますか」

「分かりません」

 玲奈はうなずいた。

「では、ほかの手も同時に進めます」

 賭けを1つにしない。

 拓真は、その考え方をもっと早く知りたかったと思った。


 木曜の夕方、拓真は田所の家を訪ねた。

 門の脇で待った。帰ってきた田所は、隣家の窓を見てから、何の用だと聞いた。

「出荷を保留してください」

「今の君が、私に命令するのか」

「頼みに来ました」

 病状を話し、娘の写真を見せていいか尋ねた。田所は、見せなくていいと言った。

「同情で、仕事はできない」

「会社の記録で、止めてください。原料を測った記録は、部長が持っているでしょう」

「私が保留しても、上で解除される」

「保留したことは、残る」

「私は職を失う」

「僕も失いました」

 田所の顔が変わった。

「同じになれと?」

 拓真は謝りかけ、やめた。田所の後ろに、家の灯りがあった。あそこへ帰ることの値段を、自分は今、知っているつもりになった。

「部長にしか、できないことがあります」

 田所は鍵を出し、門を開けた。拓真は追わなかった。

「最初のデータを、私が差し替えた」

 背中を向けたまま、田所が言った。

「分かっています」

「分かっていない。元の測定記録は、別に残した。命令があった証拠も残した。いつか、自分だけは逃げられるように」

 拓真は手帳を開いた。

「今も、残っていますか」

 田所は振り返った。

「そこだけを聞くのか」

「まず、そこです」

 家の中で食器の触れる音がした。田所は、明日の朝、確認すると言った。

 拓真は時刻を書いた。田所が門を閉めるまで、ペンの先を紙から離さなかった。


 田所は家へ入ると、靴をそろえた。

 いつもより丁寧にそろえたことに、自分で気づいた。仕事で何かを失いそうな時、人は家の小さな秩序を整えたくなるのかもしれない。

 妻は食卓で書類を見ていた。

 娘の進学費用の案内だった。

「遅かったのね」

「早瀬が来た」

 妻は顔を上げた。

 テレビで見た名前だった。会社が情報を売ったと発表した社員。田所は、会社の話だからと詳しく説明していなかった。

「何の用?」

 田所は椅子に座った。

「俺が、間違ったことをした」

 妻は黙った。

 田所はデータを差し替えたことを話した。出荷を止めなかったことも。早瀬を倉庫へ異動させる決定に従ったことも。

 妻は途中で、なぜ、と聞かなかった。

 話し終えると、進学費用の紙を伏せた。

「それを、今からどうするの」

「止める。出荷を」

「仕事は?」

「失うかもしれない」

 妻は長く黙った。

 田所は、反対してほしいと思っている自分に気づいた。家族のためにできなかったと言えるように、誰かに止めてほしかった。

「私が、やめてと言ったら、やめるの?」

 妻が聞いた。

 田所は答えられなかった。

「私に、決めさせないで」

 妻は言った。

「家計のことは、一緒に考える。でも、あなたが仕事で何をするかの責任を、私に渡さないで」

 田所はうなずいた。

 家族のためという言葉で、自分の決断を家族に背負わせようとしていた。

 妻は伏せた紙を引き寄せた。

「娘には、私たちで話そう。会社の発表で知るのは、嫌だから」

 田所は目を閉じた。

 早瀬の妻も、同じことを言ったのかもしれないと思った。


 田所の家へ行ったあと、拓真が玲奈の部屋に着いたのは、木曜の夜だった。資料を広げる場所は、もうなかった。

 机の上には被験者の経過。床には会社への質問状。椅子には、納品先の情報を整理した紙が積まれていた。藤井は入口で靴を脱ぎ、座る場所を探した。

「まず、通路を空けましょう」

 玲奈は紙を持ち上げた。

 大事な資料だからと床に広げたものが、人を転ばせる。そんな当たり前のことを忘れるほど、急いでいた。

 藤井は拓真の説明を聞き、出荷予定の情報をどう得たか確認した。

「掲示を見ました。私物を取りに行った時です」

「複写は?」

「していません。数字と提供日を覚えて、外へ出てから書きました」

 藤井はうなずいた。

「では、その経緯を明記します。正式な納品先一覧があるように見せないこと」

 玲奈が紙に書き込んだ。

 約4000校という数字は、計画上の数だった。すべてに届いたわけではない。すべてが月曜に提供するわけでもない。だが、計画の大きさを小さく見せることもできなかった。

「学校へ、直接伝えます」

 拓真が言った。

「どの学校に?」

 藤井が聞いた。

 拓真は答えられなかった。

 数字は知っていても、名前を知らない。

 玲奈は由香へ連絡し、新井に話をつないでもらえるか尋ねた。

 新井は夜遅くの電話に出た。

 拓真は最初に、自分が会社を解雇されたことと、今は会社を代表して話していないことを説明した。

「そのうえで、提供予定を確認してほしいんです」

 新井は、学校の保管品は止めていると答えた。

「ただ、ほかの学校の判断を、私が代わりにすることはできません。情報を共有する先はあります。確認できる資料を送ってください」

 玲奈が送付する資料を説明した。

「製品名と、どの点が未確認か。今求めている対応。それから、問い合わせ先を分けてください。医療のことを、学校が判断する形にはしないでほしいです」

 拓真はメモを取った。

 危ないから止めてくれ、だけでは、受け取った人が何をすればいいか分からない。

 相手の仕事の形に合わせて情報を渡す。それは営業の仕事に似ていた。だが、売るためではなく、止めるために必要だった。


 深夜、資料の最初の版ができた。

 玲奈は見出しを短くした。

 確認が済むまで、提供を見合わせてください。

 その下に、確認済みの事実を並べた。被験者の証言と記録。測定上の疑問。医療側で検討中の症例。会社へ質問している事項。

 藤井は、死亡と製品との因果関係を断定しているように読める箇所を指した。

「ここは、試験参加者に死亡例があったことと、それが提出資料に反映されていない疑いを、分けてください」

 拓真は、弱くなるのではないかと思った。

 玲奈は首を振った。

「正確にすると、弱くなるとは限りません」

 彼女は文を書き直した。

 重大な情報が、判断する人へ届いていなかった。

 それだけでも、止める理由になる。

 拓真は読み返した。

 娘の体の中で何が起きたか、すべて分からなくても、会社の記録の中で何が起きたかは確かめられる。

 科学の結論が出るまで、仕事の責任まで保留にする必要はなかった。


 由香から電話が来た。

 拓真は別室へ移った。

「中野さんとの約束、破るのね」

「うん」

「美波を助けてもらったのに、って思ってる?」

「思ってる」

「私も」

 由香は言った。

「でも、助けてもらったことを、ほかの子を危険にさらす理由にはできない」

 拓真は壁に手をついた。

「中野に、何て言えばいい」

「分からない。許してもらう言葉を探すより、したことを話すしかないんじゃない」

 拓真はうなずいた。

 電話の向こうで、美波が何か言った。

「パパ、今、どこ?」

「神崎さんのところ」

「ごはん食べた?」

 拓真は机の上の空のカップを見た。

「まだ」

「ママが、食べないと怒るって」

 由香の声が遠くで聞こえた。そんな言い方してない、と言っていた。

 拓真は笑った。

 笑えることが、ありがたかった。

 電話を切ると、玲奈がコンビニの袋を持って立っていた。

「食べましょう」

 3人は資料を端へ寄せ、冷めた弁当を食べた。

 その間だけ、誰も話さなかった。


 翌朝、田所はいつもより早く出社した。

 小松が分析室の前にいた。

「部長、話があります」

「私も、ある」

 2人はしばらく見つめ合った。

 田所は鍵を開けた。

 元データを保存した領域は、自分だけが知っているつもりだった。だが小松は、監査履歴の不整合に気づいていた。

「削除されていない記録があるはずです」

 小松が言った。

「ある」

 田所は答えた。

「私が、残した」

 小松の顔が変わった。

「では、差し替えたのも」

「私だ」

 田所は椅子に座った。

 若い部下の目が、これほど怖いとは思わなかった。上司から叱られることには慣れている。だが、自分が教えてきた相手に、教えたことを破った人間として見られることには慣れていなかった。

「今から、保全する。君には、私が何をしたかも記録してほしい」

 小松はすぐには返事をしなかった。

「僕が記録したものを、あとで部長が直すことはありませんか」

 田所は首を振った。

「ない」

「では、僕以外にも確認してもらいます」

 田所はうなずいた。

「そうしてくれ」

 小松は手袋を取り出した。

 信じてもらえたのではない。

 信じなくても確かめられる形を、部下が作ろうとしていた。

 それが、田所の最初の救いだった。


 金曜の朝、ロット2611に保留がかかった。

 小松は田所の指示で保存試料を取り出し、再測定を始めた。元の測定記録と監査履歴も保全した。結果がどうであれ、誰が何をしたかを消さないためだった。

 P7は再び現れた。

 小さな山だった。

 あれほどのことを引き起こしているのに、画面の上では、指で隠せる大きさしかなかった。

「外部にも確認を依頼します」

 小松が言った。

 田所はうなずいた。

「同じ試料を、分けて残しておいてくれ」

 小松は手袋を替えた。

 特別なことをしている感覚はなかった。教わった通りのことを、ようやく教わった通りにできる。それだけで、手が少し軽くなった。


 再測定の結果を待つ間、小松は保存試料の台帳を確認した。

 採取日、保管場所、開封の有無、担当者。2611の欄には、拓真の名前があった。自分が入社した時、台帳の書き方を教えたのも拓真だった。

 面倒でも、あとで分かるように書く。

 その時は、古い仕事のやり方だと思った。装置に記録が残るのだから、紙に同じことを書く必要はないのではないか。

 今は、その紙と装置の記録が違うことが、重要だった。

 同じ情報が別の場所に残ることは、無駄だけではない。

 小松は保管庫の扉を閉め、封印の状態を撮影した。田所と別の担当者に立ち会ってもらい、時刻を記録した。

 外部の分析機関へ依頼するため、試料を分けた。送る分、社内で測る分、再確認のために残す分。どれも同じ元試料から取ったことを、書面に残した。

 分析機関の担当者、北原は、電話で測定の条件を確認した。

「成分の同定を求めるのか、まず同じピークが出るかの確認なのか、分けてください」

「両方です。ただ、急いでいます」

「急ぐことは分かりました。できたところから、何が言えるかを明記して返します」

 小松は、ありがとうございますと言った。

 電話を切ると、田所が立っていた。

「外へ出す承認は、私が取る」

「止められたら?」

「止められたことを、記録する」

 小松はうなずいた。

 記録するだけで何が変わるのか、以前なら思っただろう。

 だが、記録されなかったことが、ここまでのことを可能にした。

 まずは、そこを逆にするしかなかった。


 外部の分析機関では、北原が依頼書の数字を見直していた。

 ロット2611。保存試料の封印。社内の再測定結果。急ぎという印が、2か所についている。

 電話で小松へ尋ねた。

「社内結果を見ない条件でも、測ります。試料の番号だけで区別したものを、もう1組作れますか」

「波形の位置を、知らせなくてもですか」

「知らせない組を作ります。こちらが、探せと言われた山だけを探さないためです」

 小松は、分かりましたと答えた。少し間があり、そういう測り方もあるんですね、と言った。

「いつもできるわけではありません。時間も試料も、余分に要ります」

 北原は後ろの予定表を見た。別の顧客の試験が入っていた。担当者へ連絡し、順番を動かせるか聞いた。相手は理由を尋ね、納期は動かせないと答えた。

 北原は装置の空く時刻をもう1度調べ、夜の担当を交代してもらった。交代した職員は、翌朝の出勤を遅らせたいと言った。彼は承認し、自分の予定をずらした。

 金曜の夜、番号だけの試料を装置へ入れた。社内の波形を表示していた画面は閉じた。

 結果が出るまで、装置の前に座る必要はなかった。北原は別の顧客の報告書へ戻った。画面の中で、知らない会社の数字が並んでいた。どちらも、今日、誰かが待っている結果だった。


 港英樹は、保留の解除を命じた。

 田所が応じないと、会議の呼び出し先が変わった。品質管理の打ち合わせではなく、取締役会だった。常盤は会議までの1時間、港の部屋で再分析の必要を説明した。

「君まで、今になって何を言う」

「発売を見合わせるべきです」

「今までの承認は、全部、君の名前だ」

 港は引き出しから、常盤の署名のある資料を出した。必要になると分かっていたような出し方だった。

 常盤は1枚ずつ見た。

「私の責任です」

「責任なら、最後までやれ」

 港は資料をしまわなかった。


 緊急取締役会の会議室は、いつもより冷えていた。

 空調の設定は変わっていない。常盤は自分の手が冷たいことに気づいた。資料をめくる指が、紙に引っかからなかった。

 港は、保留による損失見込みを説明させた。

 出荷の遅れ。契約先への違約金の可能性。販促費の回収不能。株価への影響。

 数字はよく整理されていた。

 常盤は、追加の調査費用を求めた時の資料を思い出した。あの時、自分の資料はこれほど整っていなかった。必要な検査、対象人数、見込まれる期間。結果がどう出るか分からないため、費用の上限を決めにくかった。

 不確かな危険より、確かな損失のほうが、会議では強い。

 港はそのことを知っていた。

「再分析は進めればいい。出荷と並行して」

 役員の1人が言った。

 常盤は首を振った。

「並行してはいけない可能性があるから、保留している」

「可能性だけで止めるのか」

「確認するまで、出さない」

「君が、今まで出してきたんだろう」

 常盤は言葉を失った。

 その通りだった。

 過去の自分が、今の自分の発言を弱くしている。

 だからといって、過去と同じ判断を続ければ、整合性だけは守れる。それが会社で長く働く人間の、最も危険な誘惑だった。

「私の判断は、間違っていました」

 常盤は言った。

 会議室が静かになった。

「その責任は取ります。だが、今の出荷を止めることとは、別にしてください」

 港は椅子にもたれた。

「君の反省のために、会社を止めるわけにはいかない」

 常盤は、議事録の担当者を見た。

「今の発言も、残してください」

 担当者の指が止まった。

 港は、残せと言った。

 常盤は、その声を聞いた。

 記録が残っても、自分の権限が残ると思っている。

 だからこそ、権限の外へ記録を出さなければならなかった。


 会議の前、港は銀行の担当者と話していた。

 金曜の夕方だった。週明けの提供を延期すれば、翌月の計画を見直す必要がある。担当者は、健康被害の情報は事実なのかと聞いた。

「関連は確認されていません」

 港は答えた。法務の用意した文言だった。

「その状態で、提供するんですね」

「適法に流通している製品です」

「ではなく、御社の判断として」

 港は窓の外を見た。本社の向かいに、昔は小さな工場があった。父がそこで働いていた時代の写真を、創業の記念冊子に使った。自分が継いでから、売上は4倍になった。

「予定は維持します」

 そう答えると、担当者は、記録させていただきますと言った。

 港は電話を切り、常盤の署名のある資料を鞄へ入れた。署名の下に自分の承認印もあった。赤い印がよく見えるよう、紙の向きを直してから、また伏せた。


 注意表示を見送った時の文書を、常盤はもう1度開いた。

 発売後に情報を集め、必要に応じて改める。自分の書いた文だった。

 別紙に、実際に使うはずだった表示案が残っている。久我の筆跡で、誰に届く表示か、と書かれていた。

 当時、常盤はその問いを面倒だと思った。対象者を特定できなければ、表示は誰にでも向けることになる。それでは売れない。

 久我は、売れる表示を考えていませんと答えた。

 会議の議事録に、その発言はなかった。発言を載せない判断を、常盤は修正しなかった。

 彼は別紙を外し、複写機へ載せた。鉛筆の文字が薄く、1回目の複写では読めなかった。濃度を上げてやり直した。


 相談室から来ていた問い合わせの一覧も、常盤は開いた。

 飲料、菓子、家庭用。別々の商品名の隣に、震え、発汗、気分不良とある。回答欄は規格適合だった。

 体調について尋ねたはずの問いが、規格の確認になって戻ってきた。その時も彼は気づいていた。

 常盤は、回答を作った担当者の名を見た。

 若い研究員だった頃、自分が採用面接で会った人だった。質問に答えられず、少し考えさせてくださいと言ったので、評価を上げたことを覚えている。

 今日、彼へ電話することはできた。

 私はそういう意味で聞いたのではない、と言うこともできた。

 常盤は電話をかけず、その回答を受け取った日付と自分の承認を、一覧の上へ書き足した。


 早瀬の家族の写真を撮らせた指示書は、紙では残っていなかった。

 調査会社への請求は、危機管理対応という1行にまとめられている。常盤は担当者とのメールを探した。病院の場所。撮影日。費用。送られてきた画像。

 窓の隅に、早瀬の妻がいた。

 そこまで調べろとは言わなかった、と説明する余地はあった。調査会社は、依頼の範囲だと主張するだろう。

 常盤は、自分が画像を早瀬へ転送した記録を出した。添えた文も印刷した。

 お嬢さんのお大事に。

 文字にすると、余計にひどかった。


 今、彼の手元には、注意表示を見送った時の文書がある。

 自分の名前がある。

 承認した日付もある。

 これを出せば、会社だけでなく自分も傷つく。

 出さなければ、傷つくのは、また名前を知らない人になる。

 常盤は、田所へ渡す分を複写した。

 複写機の光が、紙の上をゆっくり走った。

 何度も見てきた、ただの光だった。

 それが終わるまで、彼は目を逸らさなかった。


 地下駐車場で、常盤は田所にファイルを見せた。

 注意表示の検討案。菌株変更の稟議。追加調査を求めた文書。承認済みの議事録の控え。

「コピーを取ってある」

「これを、早瀬に」

「私が渡す」

 常盤は主要な文書の写しと、保存先を記した紙を田所に渡し、残りのファイルを鞄に戻した。

「君と小松くんは、測定記録を守ってくれ。私の話が嘘でも、試料は嘘をつかない。ただし、扱う人間は嘘をつく。だから、扱った順番まで残してくれ」

 田所はうなずいた。

 常盤は、自分の言葉が自分を追い詰めていることを理解していた。

 それでも、口にした。


 玲奈の記事は金曜の夜に公開された。

 隠された被験者群B。

 見出しの下には、死亡4人という数字だけでなく、現時点で確認できたこと、確認中のこと、会社側の回答が並んでいた。拓真の解雇と競合接触の疑いについても触れた。都合の悪い事実を隠して、隠蔽を告発することはできなかった。

 コメントには罵倒が続いた。

 デマ。競合の工作。会社を潰したいだけ。

 それでも、学校関係者から確認の連絡が来た。被験者だったという人の家族から、非公開の問い合わせも届いた。

 やがてサイトがつながりにくくなった。原因はすぐには分からなかった。玲奈は障害の記録を取り、別の配信経路にも同じ記事を掲載した。攻撃だと断定する前に、運営側へ確認を求めた。

 その作業の途中で、代理人から削除要求が届いた。

 玲奈は通知を保存した。

 消してくれという要求も、起きたことの1つだった。


 金曜の夜、石田から、1箱は廃棄されなかったと連絡が来た。

 藤井の文書を受けた会社側が、当面の保管を指示したという。同じ夕方、再測定のため製品を回す指示も来ていた。品質管理部の名で出されたものだった。

 小松に聞くと、田所が権限を失う前に出した依頼だと分かった。

「今、開けています。立ち会いもいます」

 電話の向こうで、梱包用のテープを切る音がした。

 中には飲み残しのパックと、未開封の試供品があった。イベント会社の送付状には、飲用後の問い合わせがあったため、とある。

 添付の記録には、気分が悪くなったという人が2人。医療機関を受診したかは、未確認だった。

「返品理由は」

「品質の判断待ちです。物流の区分は販促資材の戻り」

 拓真は、棚の右端にあった1箱を思い浮かべた。何度も前を通った。中を開ける権限がないと言われて、数と場所だけを書いた。

 写真と受領記録は、正式な保全先へ送られた。未開封品は、原料の保存試料と同じように、外部へ分けて測ることになった。

 玲奈は記事へ追記する前に、イベント会社へ照会した。担当者は、体調不良があったとは知らない、余りを返しただけだと答えた。

 送付状の画像を送ると、返事は翌週すると言った。

 玲奈は金曜の追記には間に合わないと伝え、回答待ちであることを記した。

 拓真はもう1度、1箱の記録を見た。商品を飲んだ人の訴えが、別の名前の荷物になって戻ってきていた。


 記事を読んだ澄江は、台所の椅子に座ったまま、何度も同じ段落を読み返した。

 健太の名前があった。

 年齢。試験への参加。亡くなったこと。示談金を受け取ったこと。

 最後の事実を読んだ時、胸が縮んだ。

 自分が載せていいと言った。それでも、文字になると、知らない人の前で財布を開かれたような気がした。

 コメント欄を開いた。

 金をもらっておいて、今さら。

 そんな短い文があった。

 澄江は画面を閉じた。

 やはり、言わなければよかったのかもしれない。

 夫が隣の部屋から呼んだ。お茶がほしいという。澄江は湯を沸かし、急須を出した。いつもの手順をしている間だけ、画面の文字から離れられた。

 夫は記事を読んだかと聞いた。

 澄江はうなずいた。

「金のことも、出たな」

「私が、いいって言ったの」

「そうか」

 夫は湯呑みを持った。

 澄江は、責められると思った。なぜ自分たちのことまで話したのか。もう終わったことを、なぜ掘り返したのか。

 夫は、すまなかったと言った。

 澄江は顔を上げた。

「何が」

「署名する時、何も言わなかった」

 湯気が2人の間に上がった。

「お前が決めたことにして、俺は助かった」

 澄江は椅子に座った。

 夫の治療費のためだった。

 そう思うことで、自分も決断を夫へ渡していたのかもしれない。だが夫は、今、自分の沈黙を引き取ろうとしていた。

「私も、受け取りたかったのよ」

 澄江は言った。

「お金があれば、これから困らないと思った。健太がいないのに、これからのことを考えた」

「生きてるからな」

 夫は答えた。

「俺たちは、まだ」

 澄江は泣かなかった。

 泣けば何かが終わるような気がしていたが、終わらないまま話せることもある。

 電話が鳴った。

 玲奈だった。

 記事を読んで、困ったことがないかという確認だった。

 澄江は、コメントのことを話した。

 玲奈は謝り、無理に読まなくていいと伝えた。窓口を通して対応できることも説明した。

「でも、消さないで」

 澄江は言った。

「私が受け取ったこと。そこを消したら、健太のことを話すために、私がきれいな人にならなくちゃいけない」

 玲奈は、分かりましたと答えた。

 澄江は電話を切り、仏壇の前へ行った。

「名前、出たよ」

 写真の息子に話しかけた。

 それがうれしいことなのか、悲しいことなのか、まだ分からなかった。

 ただ、番号ではなくなった。

 そのことだけを、今日は覚えていようと思った。


 中野から電話が来た。

「約束を破ったな」

「破った」

「美波ちゃんを助けるために、誰が資料を渡した」

「お前だ。感謝してる」

「だったら」

「感謝と、黙ることは別だ」

 拓真は言った。

 その言葉を口にするために、自分がどれだけ人を傷つけてきたかも分かっていた。美波のために中野の条件を受け、今度はほかの子供のために中野との約束を破る。正しい側に立てば、過去の選択がきれいになるわけではなかった。

「お前の10か月を、無駄にしたくない。でも、そのために誰かの明日を使えない」

 中野は黙っていた。

「原本を出してくれ」

「お前に頼まれる筋合いはない」

「そうだな」

 拓真は答えた。

「それでも、頼む」

 電話は切れた。


 森田沙織のところには、以前取材した記者から連絡が来た。

 記事を読んだという。改めて話を聞きたいという。

 沙織は、今すぐは無理だと答えた。

 記者は、世の中の関心が高いうちに、と言った。

 沙織は窓を見た。

 関心が高くなかった頃にも、自分の生活はあった。話したい時に話せず、今は話せるからといって、すぐに同じことをもう1度説明する力があるわけではない。

「私の都合も、あります」

 沙織は言った。

 電話の向こうが静かになった。

 彼女は、来週なら時間を作れると伝えた。子供の名前を出さないこと。症状の映像を撮らないこと。契約書だけを大きく映し、金額を見出しにしないこと。

 条件を口にすると、少し息がしやすくなった。

 以前は、取材を受けるか受けないかの2つしかないと思っていた。

 受ける形を、自分で決めてもいい。

 玲奈が最初に、できる約束とできない約束を分けた意味が、少し分かった。

 電話を切ると、子供が帰ってきた。

「ママ、テレビ出るの?」

「まだ、分からない」

「学校で、聞かれた」

 沙織は椅子を引いた。

 自分が名前を出すことを決めた時、子供に何を伝えるかは考えた。だが、子供が外で何を聞かれるかまでは、全部想像できなかった。

「何て答えたの」

「知らないって」

「それでいいよ。答えたくないことは、答えなくていい」

 子供は鞄を置いた。

「ママは、答えるの?」

 沙織は少し考えた。

「答えたいことを、答える」

「じゃあ、私もそうする」

 子供は台所へ行き、水を飲んだ。

 沙織はその背中を見た。

 自分が悪かったのか知りたい。

 そう言った時には、誰かが答えをくれるのを待っていた。

 今は、答えが出るまでの自分の暮らしを、少しずつ取り戻そうとしていた。


 土曜から日曜にかけて、玲奈たちは資料の確認と配布を続けた。

 提供を見合わせる学校も出た。だが全国の納品先を把握し、連絡が届いたことを確認するには、会社側の情報が必要だった。

 月曜の朝、会見を開くことになった。

 常盤が証言する。修一も出る。拓真は、自分の測定と家族に起きたことを話す。

 日曜の午後、北原から速報が届いた。

 外部で測った試料にも、対応するピークが認められた。だが、その時点では成分名を確定できなかった。久我が示した研究上の物質と、同じものだと断言するには追加の照合が必要だった。

 拓真は画面を読んだ。

 期待していたより、短い結論だった。

「これだけですか」

 電話で聞くと、北原は、今言えるのはそこまでですと答えた。

「月曜に、提供されるんです」

「承知しています。だから、確認できたことを先に出しました」

 拓真は黙った。

 北原は続けた。

「あなたの会社の測定だけではないことは、示せます。成分が何かは、まだ示せない。その違いを、崩さないでください」

 拓真は謝った。

「急がせて、すみません」

「急いでくださいと言うのは構いません。分かっていないことを分かったと言ってほしい、には応じられません」

 拓真は電話を置いた。

 自分が、田所や常盤に求められて嫌だったことを、今、別の人へ求めかけていた。

 自分の目的が正しいと思う時ほど、確認の手間が邪魔に見える。

 彼は速報の文を、そのまま資料へ入れた。

 まだ確定していない。

 その言葉を、自分たちに不利なものとして隠さなかった。


 夕方、宮下から連絡があった。

 工場に、保存試料と工程記録の整理を急ぐよう指示が来たという。廃棄ではない。保存期間の区分を見直し、重複したものをまとめる。

「今、この時期にやることかと思ってな」

 宮下は言った。

「勝手に捨てたわけじゃない。まだ、全部ある」

 拓真は藤井へつないだ。記録の保全を求める連絡を、適切な窓口から出すためだった。

 宮下は、電話の最後に聞いた。

「俺の名前は、出るか」

「今は、出しません。必要な時は、先に話します」

「頼む。家には、まだ話してない」

 拓真は、話したほうがいいと言いかけた。

 だが、他人の家族に何をどこまで話すかを、自分が決めることはできない。

「僕は、話さなくて、妻を困らせました」

 それだけ伝えた。

 宮下は少し黙った。

「そうか」

 通話が終わった。

 その夜、宮下は家で、明日、会社のことでテレビに出るかもしれないと話した。自分が出るのではない。会社が出る。だが、自分の仕事も、その中にある。

 妻は、弁当はいるのかと聞いた。

 宮下は、いる、と答えた。

 明日も仕事をする。

 何を守るかが変わっても、朝は来る。


 日曜の深夜、常盤から位置情報が届いた。

 会見資料を渡すため、帰宅途中で落ち合いたいという。拓真が電話すると、常盤は、明日は私が最初に謝ると言った。

「謝る前に、説明してください」

「そうだな」

 背後で車が止まる音がした。常盤の名を呼び、社長がお呼びですと言う声が聞こえた。

「今は行かない。明日、話す」

 何かが倒れた。拓真は椅子から立った。

「常盤さん」

 息の音がした。別の声が、危ないから下がって、と言った。

「記録を」

 そこまで聞こえ、通話が切れた。

 拓真はかけ直した。呼び出し音は鳴らなかった。位置情報の点は動かない。玲奈に画面を見せ、藤井へ連絡した。



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