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ゼロ・カロリー  作者: ぽむぽむ


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第8章 約束の重さ

拓真は車を出そうとして、鍵を落とした。

 拾おうとした指が震えていた。自分が運転してはいけない状態だと気づくまでに、少し時間がかかった。由香の、1人で無茶しないでという声を思い出し、タクシーを呼んだ。

 後部座席で病院の住所を告げた。運転手は急ぎますかと聞いた。

「安全に、お願いします」

 その言葉を口にした瞬間、拓真は泣きそうになった。

 急いでほしかった。何もかも飛び越えて、娘のところへ着きたかった。それでも、別の誰かを危険にさらして娘の父親でいることはできなかった。


 タクシーが高速道路へ入ると、拓真は由香へ電話した。

 出なかった。

 すぐに、病院で話しているとメッセージが来た。返事を打とうとして、何を書けばいいか分からなかった。大丈夫かと聞けば、大丈夫ではないから電話が来たのだ。今向かっていると書けば、すでに伝えたことだった。

 彼は、着いたら連絡する、とだけ送った。

 窓の外に、工場の灯りが流れた。

 あの灯りの下でも、誰かが製品を作っている。安全を確認し、記録を書き、家へ帰る。自分も、その中の1人だった。今は、そこで作られたものを飲んだ娘のところへ向かっている。

 仕事をしている時と、家族でいる時を、別の自分だと思っていた。

 別ではなかった。

 同じ手で承認し、同じ手で娘を抱いていた。

 運転手が、休憩を入れますかと聞いた。

 拓真は首を振りかけ、相手の勤務のことを思った。

「必要なら、お願いします」

「大丈夫です。念のため聞きました」

 その大丈夫は、今の自分には判断できない。拓真はうなずいた。

 車内の時計を見た。

 1分が長かった。

 常盤が求めた3か月を、その長さで考えようとした。

 できなかった。


 由香の母は、救急車の中で、パックを渡すことばかり考えていた。

 娘が袋に入れたものを、膝の上で持っていた。救急隊員に聞かれ、何時頃に飲んだか答えた。自分が勧めたことも話した。

 由香は隣で、娘の名前を呼んでいた。

 母は、謝ろうとしてやめた。

 今、謝れば、由香は返事をしなくてはいけない。母を責めていないと言うか、責めるか。どちらにしても、娘を見る時間を奪う。

 病院へ着いてから、母は廊下の端に座った。

 自分の手に、ストローの袋が残っていた。美波の代わりに破った袋だった。小さなゴミを、ずっと握っていた。

 捨てようとして、捨てられなかった。

 何かの役に立つかもしれないと思った。役に立たなくても、自分がしたことを捨てるような気がした。

 看護師が声をかけた。

「ご家族ですか」

 母は、祖母ですと答えた。

 その言葉が、いつもより遠かった。

 孫に甘いものを渡す時には、近い言葉だった。孫が処置室へ運ばれる時には、何もできない場所を示す言葉になった。

 由香が戻ってきた。

 母は立ち上がった。

「ごめん」

 言わないつもりだった言葉が出た。

 由香は母の手を見た。

「その袋も、こっちに入れて」

 母はうなずいた。

 娘は、謝罪の返事ではなく、今することをくれた。

 母は袋を渡した。

 その小さな仕事に、すがった。


 ICUの前で、由香はパックの入った袋を持っていた。

 美波は重い低血糖を起こし、呼吸の補助を受けたという。担当の大野医師は、治療を続けているが、血糖値が再び下がるため慎重な管理が必要だと説明した。

 拓真は佐伯の連絡先と、久我の資料を渡した。

「これが原因だと決めつけてほしいんじゃありません。確認してほしいんです」

 大野は資料を受け取った。

「分かりました。今の治療を続けながら、連絡を取ります」

 由香は壁にもたれた。

「母が、ごめんって」

 拓真は答えなかった。

「何度も言うの。私が飲ませたって。私も、何でちゃんと見なかったんだろうって」

「由香」

「分かってる。誰かを責めてる時間じゃない。でも、責める相手が近くにいると、そっちを見ちゃう」

 拓真は袋を受け取った。

「俺たちが、これを売った」

 由香は夫を見た。

「今は、あなたも責めるほうに入らないで。美波のそばにいて」


 佐伯と大野が情報を照合する間、拓真は廊下で待った。

 過去の重症例の診療経過があれば、検討の助けになるという。試験中に何が起き、どんな処置が行われたか。研究班が持っていたはずの記録。

 中野。

 拓真は電話をかけた。

 何度目かで、つながった。

「美波がICUにいる」

 中野は何も言わなかった。

「2611の試供品を飲んだ。試験の重症者の診療記録を持ってるだろ。医師が必要としてる」

「ある」

 拓真は壁に額をつけた。

「送ってくれ」

 沈黙が続いた。

「条件がある」

 拓真は顔を上げた。

「公表は決算発表まで待て。あと12日だ」

「中野」

「今、資料が出れば、俺の準備が崩れる。治療記録から全体をたどられる」

「医者に渡すだけだ」

「その約束を、俺がどう信じる」

 拓真は電話を握り直した。

 美波の命に値段をつけられたのではなかった。値段の代わりに、沈黙の期間を求められていた。

「お前が、美咲さんのことでされたのと、同じだぞ」

 中野の呼吸が聞こえた。

「分かってる」

 その声が、本当に分かっている人間の声だったことが、いちばんつらかった。

 拓真はICUの扉を見た。

「分かった」

 言葉は、思ったより簡単に出た。

 常盤が最初に妥協した時も、こうだったのだろうか。守りたいものが目の前にあり、ほかの誰かの危険は、まだ見えない場所にある。

「12日、待つ」

 電話を切ると、拓真はしばらく動けなかった。


 中野は電話を切ってから、ファイルを開いた。

 診療経過の束には美咲のものもあった。検査値の隣に、意識清明、とある。清明だった時刻には、まだ話せたのだ。

 彼はそのページを飛ばしかけ、戻した。

 医師に必要な資料を、自分が選別してはいけない。そう思って添付しながら、公表する時刻だけは自分で選ぼうとしていた。

 クラインへ電話した。

「重症例の経過を、医師に送る」

「誰の依頼ですか」

「早瀬だ。娘が」

「契約上の情報に該当します。まずこちらへ」

「間に合わない」

「会社としては、手順を」

 中野は通話を切った。

 手順。いつか妹へ送られた説明にも、同じ文字があった。

 添付画面へ戻った。個人情報の取り扱いを依頼する文を添え、原本と照合できる番号を残した。送信を押す前に、早瀬へ条件を撤回する文を書いた。

 12日のことは。

 そこで指が止まった。

 今までの10か月。休職。会社へ戻れないこと。クラインから受け取った金。原本を渡せば、取り戻せない。

 彼は文を消し、資料だけ送った。

 送信済みの表示が出た。電話を伏せると、裏返した美咲の写真に触れた。写真まで伏せる必要はなかった。分かっていたが、表へ戻せなかった。


 玲奈から連絡が来た。

 美波の状態を聞いたという短い文のあと、森田沙織の記録について、照合への協力を求めていた。

 中野は返さなかった。

 沙織の行を開いた。中止理由、本人希望。その下に、体調に関する別紙の参照番号がある。提出用の資料では、別紙そのものが抜けていた。

 玲奈へ、そのページだけを送ろうとした。

 切り取れば、誰の資料か示せない。元の表を送れば、ほかの人の名前まで見える。名前を伏せて複写するには、原本の扱いを相手と決めなければならない。

 自分で全部を握っている限り、その作業も自分だけの仕事だった。

 玲奈から続けて届いた。

 会う場所は、こちらから指定しません。方法を相談したいです。

 中野は椅子にもたれた。

 相手が奪いに来れば、拒めた。妹のためだと言えば、それで済んだ。

 相談という文字を見ているうちに、画面が暗くなった。彼は触って明るくし、また消えるまで見ていた。


 届いた記録は、そのまま治療の指示にはならなかった。

 大野と佐伯は、症例の条件、当時の検査結果、使用された処置と経過を確認した。久我にも照会し、他の専門医の意見を求めた。成人の試験記録を10歳の子供に当てはめることはできないと、大野は説明した。

「参考になる情報です。ただ、美波さんの状態を見ながら判断します」

 拓真はうなずいた。

 紙を手に入れれば助かるという単純な話ではなかった。紙を読める人がいて、疑い、確かめ、責任を引き受ける人が必要だった。

 夜の病院には、昼と違う時間が流れていた。

 売店は閉まり、面会者は帰り、廊下の照明が少し落とされた。それでも、扉の向こうでは人が動いていた。誰かの夜勤が、誰かの家族の朝をつないでいる。

 拓真は由香に、少し休むよう言った。

 由香は首を振った。

「眠れない」

「横になるだけでも」

「あなたは?」

 拓真は答えなかった。

 由香は椅子を指した。

「一緒に座って」

 彼は隣に座った。

 しばらく、何も話さなかった。

 夫婦になってから、黙っていても平気な時間は増えた。テレビを見ながら、食事をしながら、別々のことを考えながら。だが、今の沈黙は違った。話さないのではなく、同じものを見ているために言葉が少なくなっていた。

「中野さんに、何を約束したの」

 由香が聞いた。

 拓真は顔を上げた。

「分かるよ。電話のあと、顔が変わった」

 拓真は、12日待つと約束したことを話した。

 由香は目を閉じた。

「私でも、そう言ったと思う」

 拓真は彼女を見た。

「でも、それでいいかは、別だね」

 由香は続けた。

「美波が助かったら、私たちは、助かった家族になる。ほかの人は、まだ知らないまま飲むかもしれない」

「分かってる」

「分かってるって、今は言わないで」

 由香は声を荒らげなかった。

「私も、まだ考えられない。美波が目を覚ますことしか、考えたくない。でも、その気持ちを正しいことにしないでおこう」

 拓真はうなずいた。

 由香は夫の手に触れた。

「あなた1人で決めたことに、しないで。家族のためにしたと言うなら、家族にも、その重さを教えて」

 拓真は手を握り返した。

 守るとは、重さを隠すことではなかった。

 2人で持っても、軽くならないものはある。

 それでも、どちらかが落としそうになった時、気づける。


 明け方、由香の母が温かいお茶を持ってきた。

 紙コップは2つだった。自分の分はない。由香がもう1つ買おうとすると、母は、あとで飲むと言った。

「今、飲もう」

 由香は立ち上がった。

「お母さんも、ここにいて」

 母は椅子に座った。

 3人で紙コップを持った。

 誰も、美波が大丈夫だとは言わなかった。

 大丈夫だと言わなくても、隣にいられることを、拓真は初めて知った気がした。


 美波の状態は、翌日にかけて落ち着いた。

 目を開けた時、最初に見たのは由香だった。

「ママ」

 由香は返事をしようとして、声が出なかった。

 拓真がベッドの柵に手を置いた。

「ここにいるよ」

 美波は2人を見た。

「ジュース、飲んじゃった」

 拓真は首を振った。

「美波が謝ることじゃない」

「おばあちゃん、怒らないで」

 由香は娘の髪を撫でた。

「怒らない。大丈夫」

 拓真は、娘が目を覚まして最初に心配したのが、自分の体ではなく祖母のことだったのを、忘れないと思った。

 大人が守れなかった子供に、大人同士の関係まで守らせていた。


 玲奈から、記事の準備が整ったと連絡があった。

 中野の原本はない。だが、澄江と沙織の記録、修一の証言、独立した照会で確認できた事実は出せるという。

「待ってほしい」

 拓真は言った。

「何を」

「公表を」

 電話の向こうで、紙を置く音がした。

 12日の約束を話した。美波の治療に資料が必要だったことも。玲奈は途中で遮らなかった。

「記事を出すかどうかは、私が決めます」

「分かってる。頼んでる」

「取材を受けた人にも、頼んでいることになります」

 拓真は目を閉じた。

「娘が助かったんです」

 自分の声を聞き、言ってはいけないことを言ったと分かった。

 玲奈は、よかったです、と答えた。

 そのあと、しばらく何も言わなかった。

「公開前の確認は続けます。会社への回答期限も、まだ来ていません。ただ、あなたが約束した12日は、引き受けられません」

 拓真は、分かりましたと言った。通話を切る前に玲奈が何か言いかけたが、聞き返せなかった。

 美波の病室へ戻ると、由香がパンを食べていた。彼の分もあった。拓真は袋を開けた。食べても味がしなかった。


 翌日、玲奈は澄江へ電話した。

 公開前の確認が長引いていることを伝えると、澄江は、またですかと言った。

「前にも、会社から、確認中って言われました」

「同じではありません」

 反射的に答えた声が、硬かった。玲奈は言い直した。

「同じに聞こえますね」

 電話の向こうで、蛇口を閉める音がした。

「いつ、分かるんですか」

「会社への質問の期限は、明日です。そのあと、分かったことをお伝えします。記事をいつ出すかも、明日、決めます」

「決まらなくても、電話をくれますか」

「はい」

 澄江は、なら、待ちますと答えた。

 電話を切ってから、玲奈は拓真へ文を送った。公開の判断を彼へ預けるつもりはない。ただ、どこまでを待つかを、今度は日付にして伝えた。

 返事はすぐには来なかった。

 玲奈は原稿の見出しを開いた。死亡4人という数字の下に、美咲の名前はまだなかった。遺族の同意も、原本もない。そこを埋められる人物が、資料を握っている。

 拓真から、了解しました、と返った。

 彼を責める文は、いくらでも書けた。玲奈は書かず、明日の予定を手帳へ入れた。澄江へ、電話。囲んだ四角の角が、紙に食い込んだ。


 美波が落ち着いたあと、拓真は病院の近くの宿で1晩だけ眠った。

 目が覚めると、昼前だった。電話に着信が何件も残っていた。玲奈、藤井、知らない番号。会社からの書類が届いたと、近所の人からも連絡があった。

 眠ったことに、罪悪感があった。

 娘が病院にいる。妻が付き添っている。自分が眠っている間にも、会社は動いている。

 藤井へ折り返すと、最初に眠れたかと聞かれた。

「少し」

「それはよかった」

「よかったのか、分かりません」

「判断を続けるためには、必要です」

 拓真は窓を開けた。

 宿の裏で、誰かが洗濯物を干していた。普通の昼だった。

 藤井は、会社から私物の引き取りの連絡が来ていると伝えた。立ち会いの条件を確認し、持ち出すものの一覧を作るよう勧めた。業務資料を勝手に持ち帰らないこと、受け渡しの記録を残すこと。

「行きたくありません」

 拓真は言った。

「行かない方法も、考えられます」

 藤井は答えた。

「ただ、あなたが確認したいことがあるなら、何をするために行くか、決めておきましょう」

 拓真は自分の机に置いていた写真を思い出した。

 美波がまだ小さい頃の写真だった。今の娘とは顔が違う。会社に置いたまま、更新していなかった。

「写真を、取りに行きます」

 彼は言った。

 その時は、本当にそれだけのつもりだった。


 病院へ戻ると、美波がテレビを見ていた。

 拓真は東京へ戻ることを説明した。

「仕事?」

「前の会社に、忘れ物を取りに行く」

「パパ、忘れ物するんだ」

「するよ」

 美波は少し笑った。

「私の写真?」

 拓真は驚いた。

「どうして分かった」

「前に、机に置いてるって言ったから」

 娘は覚えていた。

 自分が何気なく話したことを、覚えていた。

「持って帰ってくる」

「新しいのにしたら」

 美波は言った。

「私、もう、あんなに小さくないよ」

 拓真はうなずいた。

 由香が荷物を渡した。

「着いたら、連絡して」

「する」

「何か決める時も」

 拓真は彼女を見た。

「話す」

 由香はうなずいた。

 それは、許可を求める約束ではなかった。

 家族の知らないところで、家族のための決断をしないという約束だった。


 私物の引き取りは、人事担当者の立ち会いで行われた。

 倉庫にはトラックが並び、いつもより多くの人が動いていた。積み込みの指示書に、ゼロスイート・キッズの名前があった。

 正式発売が前倒しされた。

 学校向けの納品も、まとめて出る。

 拓真は許可された通路から、掲示された出荷予定を見た。全国約4000校。小児病棟、保育施設。すべてが同じ日に飲まれるわけではない。それでも、最初の大きな提供日は来週の月曜だった。

 今日は木曜。

 あと4日。

 拓真は倉庫を出て、中野に電話した。つながらなかった。

 12日待てば、決算発表に間に合う。

 4日後には、給食が始まる。

 2つの数字は、同じ紙の上に書けなかった。

 美波の手を握った時、自分は何を約束したのか。

 助けてくれた中野への恩を守ることか。

 娘が謝らなくていい世界を、少しでも作ることか。

 拓真は玲奈に電話した。

「約束を、破ります」

 声は震えなかった。

 怖くなくなったのではなかった。

 怖いまま決めるほかに、方法がなかった。


 倉庫の門を出てから、拓真は石田へ電話した。

 積み込みの音で聞こえにくかった。会社へ戻れと言うための電話だと思ったのか、石田は声を低くした。

「何か、忘れた?」

「あの、12箱の戻り品。まだありますか」

「1箱は、ある。片づけろって言われてるけど」

「いつまで」

「明日の午後。販促の戻りに場所を取られると困るって」

 拓真は門の柱へ手を置いた。人事の担当者がこちらを見ていた。

「持ち出さないでください。廃棄もしないで、まず保管を続けられるか、正式に確認します」

「俺に決められることじゃないぞ」

「分かっています」

 同じ返事を、何度言っただろう。

 通話を切り、藤井へつないだ。原料ロットに対応する製品の戻り品が1箱ある。保存試料とは別に、流通した製品を調べられるかもしれない。

 藤井は、今の拓真が会社を代表して依頼できないことを確かめたうえで、保全を求める文書を出すと言った。

「実物の確保を、約束はできません」

「お願いします」

 拓真は門から離れた。

 背後でトラックが動き出した。車体には、子供が笑う絵が描かれていた。つい数か月前、社内報で見て、いい広告だと思った絵だった。



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