第7章 守るという言葉
玄関を開けると、質問が顔に当たった。
いくら受け取ったのか。会社を裏切ったのか。危険だという情報は嘘なのか。
拓真は、答える順番を見つけられなかった。受け取っていないと言えば、ではなぜ競合の倉庫にいたのかと聞かれる。娘の話をすれば、娘の名前が記事になる。
由香が腕を引いた。
「今は、入って」
扉が閉まると、家の中が急に狭くなった。
美波は靴を履いたまま、廊下に立っていた。
「学校、行っていい?」
拓真は、いいよと言いかけた。
何を根拠に大丈夫と言うのか。その問いが、もう日常のどこにでもあった。
午前中、拓真は会社へ電話した。
代表番号の担当者は、社員番号を聞いた。拓真が答えると、少し待つように言われた。保留音は、会社の広告で使われている曲だった。
人事担当者が出た。
「処分の通知は、本日、書面で届きます」
「事情を聞かれていません」
「必要な調査は行っています」
「僕の話を聞かずに?」
「競合企業の関係施設へ立ち入ったことは、確認しています」
拓真は目を閉じた。
確認した事実が、確認していない理由の代わりに使われている。
「中野を捜していました」
「その点も含めて、会社の見解は書面でお伝えします」
「社員証の写真を、なぜ報道機関に渡したんですか」
担当者は、広報へ問い合わせてくださいと答えた。
広報へつなぐよう頼むと、担当者は不在だった。
電話を切ったあと、拓真は自分の社員証を出した。すでに使えないカード。写真の自分は、今より少し若かった。撮影の日、前髪が変だと中野に笑われた。
その写真が、裏切った社員の顔として使われている。
自分の顔なのに、自分のものではなくなった気がした。
午後、住宅ローンを借りた銀行へ電話した。
担当者は異動していた。代わりに出た人へ、仕事を失ったと話した。返済を止めたいのではなく、今後、何を相談できるか知りたかった。
「奥さまの収入は」
拓真は金額を言いかけ、正確には知らないことに気づいた。扶養の範囲で働いている。それだけで、家計の説明になると思っていた。
「確認して、かけ直します」
「では、必要な書類をご案内します」
聞き慣れた書類名が並んだ。源泉徴収票、残高、毎月の支出。社員番号を失ったあとにも、数字で説明しなければならない自分がいた。
電話を切り、由香へ収入を聞く文を書いた。送る前に、なぜ必要かを足した。
返事には金額があった。その下に、銀行の人に何を聞いたの、とあった。
拓真は電話した。由香は、今日なら話せる、と答えた。彼は白い紙を1枚出した。会社で使っていた報告書の裏だった。
返済日までは、まだ日があった。紙を裏返し、今月の支出から1つずつ書き始めた。
藤井慎也の事務所は、駅前の古いビルの3階にあった。
玲奈に紹介された弁護士だった。拓真は椅子へ座る前に、費用を聞いた。藤井は料金表を出し、初回の相談で何を扱うか決めましょうと言った。
「解雇と、写真と、娘のこと。全部です」
「時間の中で、順番をつけます」
拓真は鞄を開けた。紙が絡まり、写真の印刷が床へ落ちた。藤井は拾おうとせず、先に机を空けた。
話を始めると、何度も止められた。
「それを、あなたが見たのはいつですか」
「聞いた日ではなく?」
「見た日です」
拓真は日付を言い、また止められた。
「正しいか間違いかより、まず娘を」
「治療の判断は、ここではできません」
「分かっています」
声が大きくなった。藤井はペンを置いた。
「何を疑われていると、感じていますか」
拓真は答えなかった。
机の向こうに会社の担当者が座っているようだった。日時を聞かれ、根拠を聞かれ、最後に、今の情報では判断できないと言われる。
「僕が、金をもらっていないことです」
「はい」
「信じてもらうには、娘の記録まで出さなければいけませんか」
藤井は紙を1枚出した。
「何を、誰へ見せたくないか、先に書いてください」
拓真は娘の名を書いた。診療記録、学校、由香の勤め先。書くほどに欄が埋まった。
「こんなに隠していたら、説明できない」
「全部の人に、同じ説明をしなくていい。医師へ話すことと、記者へ話すことを分けましょう」
藤井は紙をもう1枚出した。今度は、自分が行ったこと、見たこと、聞いたこと、推測の4つに分けた。
拓真は社内窓口の受付番号を書いた。田所の電話。送られた写真。自分が実際に見た表の数字。
書き終えた時、藤井は最初の紙を彼へ返した。
「こちらは、あなたが持っていてください。必要が変わったら、変わった時に話しましょう」
娘の名のある紙を、拓真は手帳の内側へ挟んだ。
事務所を出る時、藤井は最後に聞いた。
「今、いちばん困っていることは何ですか」
拓真は、会社の発表、と答えかけた。
だが口から出たのは、別のことだった。
「家に、記者が来ています」
藤井はうなずいた。
「では、まず連絡窓口を整理しましょう。仕事の争いを続けるためにも、今日、家で眠れるようにする必要があります」
拓真はその言葉を手帳に書いた。
大きな正しさの前に、今日眠ること。
それを考えてもいいのだと、ようやく思えた。
学校から帰った美波は、机に落書きされたことをすぐには話さなかった。
由香がランドセルから連絡帳を出そうとすると、娘は急に怒った。触らないで、と叫び、あとで自分からノートを持ってきた。
ページの隅に、うらぎりもの、と書かれていた。
「机は、先生が消してくれた」
美波は言った。
「でも、みんな見た」
拓真は膝をついた。
「ごめん」
「パパが書いたんじゃないでしょ」
美波は父を見なかった。
「でも、パパがテレビに出なかったら、書かれなかった?」
答えられなかった。
正しいことをしていると説明しても、今日娘が1人で座った教室は変わらない。
由香は学校と連絡を取り、しばらく静岡の実家で過ごすことを決めた。病院への連絡、授業の資料、薬や検査の記録。荷物は、旅行の時よりずっと多かった。
「逃げるんじゃない」
由香は拓真に言った。
「美波のいる場所を、私が選ぶの」
拓真はうなずいた。
「俺は残る」
「残ることを、強さだと思わないで」
由香は鞄の口を閉めた。
「危なくなったら、あなたも場所を変えて。家を守るために、家にいなくていい」
美波が静岡へ行く前の夜、拓真は娘の部屋に入った。
机の上に、学芸会の帽子が置かれていた。緑の紙の葉が、少し折れていた。
「持っていく?」
美波は首を振った。
「もう、終わったから」
拓真は帽子を棚に置いた。
「パパ、会社、やめたの?」
娘は布団の端を握っていた。
「やめさせられた」
「悪いことしたから?」
拓真は椅子に座った。
していない、と言えばよかった。会社が悪い、と言えば簡単だった。だが、自分は娘に話さなかった。妻にも隠した。中野を捜すため、会社の許可なく外へ出た。すべてを、悪くないという1つの言葉に包むことはできなかった。
「会社が困ることを、調べた」
「困ることは、しちゃだめじゃないの?」
「困る人がいるから、やめたほうがいいこともある。でも、困るからって、隠してはいけないこともある」
美波は眉を寄せた。
「分かんない」
「パパも、うまく言えない」
拓真は娘のノートを見た。
落書きのページは、閉じられていた。
「美波が、嫌なことをされたのに、言ったらクラスが困るから黙っていてと言われたら、どう思う?」
「嫌」
「パパも、嫌だった」
美波はしばらく考えた。
「でも、私、言わなかった」
拓真は娘を見た。
「机のこと、最初、言わなかった。先生が見つけたから、分かったの」
「そうか」
「言ったら、もっと嫌なことされるかもって」
拓真は手を伸ばした。
娘はその手を見てから、自分の手を重ねた。
「言えなかったことは、悪くない」
「パパは、言えたの?」
拓真は首を振った。
「まだ、全部は言えてない」
美波は父の手を握った。
「じゃあ、一緒だね」
その言葉が、拓真にはつらかった。
自分と娘が同じだと言って済ませてはいけない。自分は大人で、仕事をして、判断する立場にいた。娘は教室で、ただ自分の席に座っていただけだ。
それでも、娘が同じ場所にいると言ってくれたことを、拒むことはできなかった。
「うん」
拓真は答えた。
「でも、パパのほうが、もう少しすることがある」
翌朝、由香の母が迎えに来た。
拓真に会うと、頭を下げた。
「しばらく、預かるね」
「お願いします」
「あなたも、ちゃんと食べて」
責められると思っていた。
娘と孫を危険にさらし、家から離れさせることになった。何を言われても仕方がないと、言葉を用意していた。
だが義母は、拓真の弁当箱を見て、これ、持っていくと言った。
「返す時、何か入れてくるから」
拓真はうなずいた。
義母は会社の事情を詳しく知らない。だが、娘が選んだ夫が、今、1人で家に残ることは分かっていた。
その理解の仕方が、拓真にはありがたく、申し訳なかった。
車に乗る前、美波は玄関の花の絵を外そうとした。
「持っていくのか」
「ううん。落ちそうだから、貼り直す」
娘はテープを押さえた。
「帰ってきた時、ないと嫌だから」
拓真はその手を見た。
家を出る娘が、帰る場所の印を直している。
自分はそれを、守れるだろうか。
車が見えなくなるまで、玄関に立っていた。
玲奈は退職届を出した。
西岡は電話で、個人で記事を出す危険を説明した。玲奈は黙って聞いた。言われていることの大半は正しかった。だからこそ、正しい忠告だけでは何も変わらない場所まで来てしまったのだと分かった。
「父が、証言します」
西岡はしばらく黙った。
「そうか」
「会社の回答も取ります。公開前に、専門家と弁護士にも確認を頼みます」
「金はあるのか」
「貯金があります」
「減るぞ」
「分かっています」
西岡は息を吐いた。
「今朝の会社発表、うちは十分な確認をせず載せた。お前は、同じことをするな」
電話が切れた。
玲奈は画面の下書きを読み直した。
怒りを強い言葉に変えるのは簡単だった。分からないところを分からないまま残し、それでも読者に危険の大きさを伝えるほうが、ずっと難しかった。
玲奈が机を片づけていると、西岡が来た。
資料の引き継ぎ一覧を渡すと、彼は録音の欄に指を置いた。
「森田さんの連絡先。続けて君が扱うことは、本人に確認したか」
「しました」
「会社側の保存分は、アクセスを絞る」
玲奈はうなずき、箱の蓋を閉めた。折り畳めば片手で持てるほどの荷物だった。
「記事が出なかった説明は、俺からもする」
「今さらですか」
「今さらだ」
西岡は腕を組んだ。
「この雑誌を残せば、次の記事が出せると思った」
「今回の人は、次まで待てないかもしれない」
「知ってる」
「知ってて、ですか」
西岡は頷かなかった。知っていると答えたことを、訂正もしなかった。
会議室から誰かが彼を呼んだ。西岡は片手を上げ、玲奈の机の脇に残った。
「会社の金で集めた資料を、全部、個人のものにはできない」
「だから今、一覧を作りました」
「分かってる。最後まで言わせてくれ」
彼は書類の1行を指した。外部検証の依頼。支払いは承認済みとある。
「この分は、会社で払う。検証の結果は、隠さない。君が辞めたからといって、依頼を取り消す理由はない」
玲奈はその行を見た。ありがとうございますと言えば、今日までのことが済んだようになる気がした。
「取材先へ、そう伝えます」
西岡はうなずいた。
玲奈は箱を持ち上げた。エレベーターへ向かう途中、西岡が戻っていく足音を聞いた。会議室の扉は、しばらく閉まらなかった。
駅へ向かう道で、玲奈は父へ電話した。
退職したと告げると、修一は長く黙った。
「生活は、どうする」
「考えてる」
「金が必要なら」
「今は、頼まない」
修一は、そうか、と答えた。
玲奈は、自分が父の金を拒むことで、父より正しい人間になろうとしていないか考えた。母の施設の費用は、今も父が多くを負担している。その金の出所を、都合のいいところだけ切り離すことはできない。
「お父さん。財団を辞めるなら、母のことも一緒に考えよう」
修一は驚いたようだった。
「お前が、そこまで考える必要は」
「家族だから、考える。でも、それで記事を変えることはしない」
電話の向こうで、父が息を吐いた。
「分かった」
玲奈は、その言葉を今度は信じようと思った。
信じることは、確かめないことではない。
次に会った時、具体的に話す。その約束をした。
家族のいない家に、常盤が来た。
インターホンの画面で顔を見ても、拓真はすぐには開けなかった。藤井へ短い連絡を送り、録音をつけてから扉を開けた。
「録音します」
「構わない」
常盤は古い自家用車で来ていた。玄関に置いた鞄の底が、擦れて白くなっていた。
拓真は台所の椅子を1脚引いた。常盤が座ってから、自分も向かいへ座った。
「ホテルの写真を送ったのは、私だ。君なら中野を見つけると思った」
「病室も?」
常盤はうなずいた。
「誰に撮らせたんですか」
「会社の調査を請けた者だ」
「由香の母親のところまで、調べたんですか」
「調査の範囲は、私が指示した。報告にはある」
拓真は椅子から立った。常盤は動かなかった。
「そこに座って、家族の話をするんですね」
空いた2脚の椅子が見えた。美波の席には、座面を高くするクッションがあった。
常盤は初めてそこへ目を向けた。
「写真のことを、撤回はできない。私がしたと、記録してくれ」
「頼まれなくても、します」
拓真は立ったまま、湯を沸かした。いつもの癖だった。湯呑みを2つ出し、1つを棚へ戻した。結局、残したほうにも湯を注がなかった。
ZS-7は、常盤が長く育てた研究だった。
甘いものを諦めている人に選択肢を作りたい。その動機は本当だったと彼は言った。久我の懸念も理解していた。注意表示を提案した。追加調査の予算も求めた。だが売上計画と投資家への説明が先に決まり、計画を守るために、確認の期限が後ろへ送られた。
「1度だけ待てばいいと思った。次の試験まで。次の会議まで。そのたびに、待つ理由が増えた」
拓真は黙って聞いた。
「菌株変更後の副生成物も、調査が必要だと分かっていた。今は製法を戻す準備をしている。3か月あれば」
「3か月」
「その間に回収の準備も、補償の枠組みも作る。会社を残せば、被害者に払える金も残る」
「その間に飲む人は?」
常盤は、何も入っていない湯呑みを見た。
「今すべてが表に出れば、工場も取引先も持たないかもしれない。8000人の社員がいる」
拓真は、倉庫で働く人の顔を思い浮かべた。品質管理部で目を逸らした同僚たちも、家に帰れば誰かの父であり、母であり、子供だった。
「誰も傷つかない方法はない」
常盤が言った。
「君は、どちらを守る」
拓真は長く黙った。
答えが出ないのではなかった。自分の答えによって傷つく人の顔を、まだ引き受けられなかった。
「今は、答えられません」
常盤は立ち上がった。
「社長は、私ほど待たない」
扉が閉まってから、拓真は湯呑みを棚へ戻した。湯は沸いたままだった。
常盤が帰ったあと、拓真は玄関の鍵を2度確かめた。
録音を止めると、電話が急に軽くなった。美波の絵は、テープを貼り直したところだけ光っていた。
8000人。
冷蔵庫に貼った返済予定表を見た。残債の数字は、昨日と同じだった。昨日までは、それを払う給料があった。
会社に戻れるなら、と考えた。
倉庫でもよかった。異動に従い、余計なことを聞かず、決められた時刻に家へ帰る。美波の具合が悪くなれば、会社の制度で休む。
そこまで考えてから、台所の戸棚を見た。ゼロスイートの瓶は、由香が検体として残した1本だけになっていた。
電話を取った。石田の番号を開く。勤務時間外だった。翌朝にしようと思い、そうやって延ばした連絡を数えかけた。
短い文を送った。戻り品の記録について、弁護士から保全の連絡が行くかもしれない。勝手に持ち出さないで、元の場所に残してほしい。
すぐに返事が来た。
消す理由はないよ。
続けて、11箱の処理が終わった分も、12箱受けた記録は残っている、とあった。
拓真は、その文をもう1度読んだ。
あの1箱は、まだある。
藤井へ経緯を送った。電話を机へ置くと、急に空腹を覚えた。何かを食べようとして、由香に頼むつもりで口を開いた。家には、誰もいなかった。
由香は実家で、古い写真の箱を開けた。
母が、美波の小さい頃の写真を見たいと言ったからだった。箱の中には、拓真と結婚する前のものもあった。
初めて一緒に旅行した時の写真。
駅のホームで、拓真が時刻表を見ている。乗る電車は決まっているのに、念のため次の便も調べていた。
由香は、その慎重さが好きだった。
何かが予定通りにいかなくても、次を考えてくれる。分からないことを、分からないままにしない。自分が少し大雑把でも、2人ならうまくいくと思った。
結婚してから、その慎重さが、決められなさに見えることが増えた。
家を買う時。娘の習い事を決める時。休日の予定を立てる時。
もう少し調べてから。
由香は何度も、いつまで調べるのと聞いた。
今、夫は調べている。
会社を失っても、家族と離れても。
慎重だから動けない人だと思っていた夫が、慎重であるために、止まれなくなっている。
由香は写真を箱へ戻した。
夫を見直したという単純な気持ちではなかった。黙っていたことへの怒りは消えていない。娘を守れなかったという痛みもある。
だが、夫の性格の中で好きだった部分と、今、困っている部分は、別々のものではなかった。
同じ人を、違う状況で見ている。
そのことを、忘れないようにしたかった。
母が部屋へ来た。
「帰るの、いつにする」
由香は美波の体調を見てからと答えた。
「拓真さんとは、話してるの」
「必要なことは」
「必要じゃないことも、話したら」
由香は写真の箱を閉めた。
「お母さんに、あの人の味方をしてほしくない」
「味方なんてしてないわよ」
母の声が硬くなった。
「あなたが夜中に何度も起きて、電話を見てるから、そう言ったの」
由香は黙った。
母は写真の箱を受け取り、押入れへしまった。届かない棚に、背伸びして押し込んだ。由香は手伝おうとしたが、母はもう入れていた。
「お父さんの時も、そうだったの」
「何が」
「必要なことだけ、話してたの」
母は押入れを閉めた。
「忘れた。今は、あなたの話でしょう」
由香は電話を開いた。拓真との画面には、検査と学校の話だけが並んでいた。
朝のパン、ある?
そう送ると、すぐに、冷凍してある、と返った。
母は見ていなかった。台所で、美波に何を食べたいか聞いていた。
静岡では、由香の母が美波のために布団を干していた。
美波は縁側で宿題をした。学校にいないことは、最初は休みに似ていた。だが友達からの連絡が来ないまま日が暮れると、休みとは違うことが分かった。
祖母は買い物の帰りに、試供品の飲料をもらってきた。
ゼロスイート・キッズ。表には大きく、砂糖不使用。裏には小さく、甘味料ZS-7。
由香は母に商品名を伝えていた。母は瓶の甘味料を使わないようにしていた。だが、別の名前の子供向け飲料まで同じものだとは気づかなかった。
美波は、パックを見た。
「甘いの、だめって」
「砂糖が入ってないから、これは違うんじゃない?」
祖母は責任を放棄したのではなかった。孫に喜んでほしかった。心配ばかりしている娘にも、少し休んでほしかった。
その願いが、印刷された言葉を信じる理由になった。
美波はストローを刺した。
しばらくして、台所の由香は、母の声を聞いた。
普段より高い、名前を呼ぶ声だった。
縁側に美波が倒れていた。由香は救急へ連絡し、電話の指示に従った。飲み物を口に入れようとする母の手を止めた。
「今は、何も飲ませないで」
自分の声が驚くほどはっきりしていた。
パックの底に2611とあった。
由香はそれを袋に入れた。捨てない。残す。娘の体を抱きしめたい手で、証拠になるものを拾わなくてはいけなかった。
拓真の電話が鳴った。
「美波が、また倒れた」
由香の声の後ろに、救急隊員の声がした。
「呼吸が、弱くて」
拓真は立ち上がった。
常盤が座っていた椅子が、床をこすった。
3か月。
その言葉が、家の中のどこにも収まらなかった。




