第6章 父の仕事
美波の再診が終わったのは、日付が変わったあとだった。
帰宅すると、由香は食卓に拓真の手帳を置いた。開いてあったページの隅が、濡れて波打っていた。
「4人」
「中野の妹も、その中にいた」
「それは今日、分かったのね。その前の、坂口さんは」
拓真は訪問した日を答えた。
由香は冷蔵庫を開け、残っていた牛乳をコップへ注いだ。自分の分だけだった。
「危ないかもしれないって、言った」
拓真は言い、すぐに後悔した。
「そう。言った。だから私は、何のことか聞いた」
由香はコップを置いた。
「知ってて飲ませた人になったのね、私」
「そんなことは、言ってない」
「じゃあ、何を言ったの」
拓真は答えられなかった。
由香は台所へ戻り、流しの前で動かなくなった。水は出していなかった。
「怖がらせたくなかった」
「私は、もう怖かったよ」
肩越しの声だった。
「会社の人が電話してきて、美波が倒れて、あなたの手帳に日付が書いてあって。何が怖いのか、分からないほうが楽だと思った?」
拓真は椅子を引いた。謝ろうとして、由香に手で止められた。
「今は、話して。最初から」
P7を見つけた夜から話した。田所へ電話した時刻を言うと、由香は手帳のページを戻した。彼女が知らなかった時刻が、そこにあった。
話し終える頃、牛乳の表面に薄い膜ができていた。
「私に、できることはある?」
拓真が顔を上げると、由香は続けた。
「あなたを許したからじゃない。美波を守る人が、もう1人必要だから」
「分かってる」
「本当に?」
拓真はうなずくのをやめた。
「美波が飲んだものを、会社の試料と比べたい。捨てずに残してくれた瓶が必要だ。先生に、話してもらえるか」
由香は、できる、と答えた。コップの牛乳を少し飲み、顔をしかめた。もう冷たくなかった。
翌朝、由香は新しいノートを買った。
拓真の手帳を使うつもりはなかった。夫が何を見たかを知ることと、自分が何をするかを決めることは違う。
最初のページに、美波の名前と生年月日を書いた。続けて、食べたもの、飲んだもの、体調、受診した時刻。思い出せないところは空けた。
美波は隣で宿題をしていた。
「ママも勉強?」
「記録」
「私のこと?」
「そう」
「悪いことした日も書く?」
由香はペンを止めた。
「悪いことの記録じゃないよ。具合が悪くなった時、先生にちゃんと話せるように」
美波はノートをのぞき込んだ。
「昨日のジュース、書いた?」
「書いた」
「私が買ったって?」
「うん」
美波は鉛筆を握り直した。
「怒ってない?」
由香は椅子を寄せた。
「怒ってない。飲んだものが分かると、調べられるから。教えてくれてよかった」
「でも、パパがだめって」
「だめって言われた理由が、ちゃんと分からなかったでしょう」
美波はうなずいた。
由香は、子供に説明するための言葉を探した。
危険、代謝物、腸内細菌。夫から聞いた言葉は、そのままでは娘に届かない。だが、怖いから飲まないでとだけ言えば、娘は自分が怖がらせたと思うかもしれない。
「今、あの甘味料が、美波の体に合わないかもしれないと調べてるの。美波が悪いんじゃない。大人が、ちゃんと分かるまで、使わないことにする」
「友達は?」
「友達にも、必要なことは先生から話してもらう」
「私だけ、変なの?」
由香は娘の目を見た。
「違う。人の体は、みんな少しずつ違う。違うから、調べるの」
美波はしばらく黙っていた。
それから、ノートの隅に小さな丸を描いた。
「分かった日は、丸つけて」
由香はうなずいた。
その丸を、いつつけられるかは分からなかった。
それでも、分かったふりをしてつけることだけはしないと決めた。
学校へ電話すると、新井紗季が対応した。
栄養教諭として、給食の食材と、企業から届く食育資料を確認しているという。
由香は夫の会社のことを説明し、今は原因が確定していないと断ったうえで、ゼロスイートを使ったものの提供予定を尋ねた。
新井は資料を確認すると答えた。
「お母さん、まず、美波さんの体調について必要な配慮を共有させてください。商品全体の話と、学校で美波さんをどう守るかは、分けて進めます」
由香は、ありがとうございますと言った。
電話の向こうで紙をめくる音がした。
「キッズの試供品は、まだ配っていません。正式な提供も、これからです。今あるものは、確認が済むまで保管にします」
「うちの子だけでなく、ですか」
「学校で配るものについて、確認が必要だと受け止めています」
由香は電話を握り直した。
誰かが、自分の話を、ただの心配性の母親の言葉ではなく、確認すべき情報として扱ってくれた。
「先生、私、前に勧めたんです。ほかのお母さんたちにも」
言うつもりのなかった言葉が出た。
新井はすぐに慰めなかった。
「では、今分かっていることを、間違いなく伝える方法を考えましょう。誰が悪かったかを先に決めるより、今、何を控えるかを共有するほうが必要です」
由香はノートに書いた。
今、何を控えるか。
自分を責めるためではなく、次にすることを書く。そのために買ったノートだった。
その日の夕方、由香は保護者の連絡グループへ短い文を送った。
美波が体調を崩したこと。医師のもとで原因を調べていること。以前勧めた商品について、今は使用を控えていること。確定していない情報を断言しないよう気をつけた。
送信すると、すぐに返事が来た。
お大事に。
大変だったね。
そのあとに、別の質問が続いた。
商品が原因なの?
会社は何て言ってる?
うちも飲んでるけど大丈夫?
由香は1つずつ、分かることだけ答えた。
分からないと書くたび、相手を不安にさせている気がした。だが、大丈夫と書いて安心させることは、もうできなかった。
しばらくして、個別のメッセージが届いた。
あまり大きな話にしないほうがいいんじゃない。ご主人の会社だし。
由香は画面を閉じた。
大きくしたのは、自分なのだろうか。
小さく見えていたものが、ようやく見えるようになっただけではないのか。
美波が、丸ついた、と聞いた。
由香は首を振った。
「まだ。でも、先生に話せた」
美波はノートに、別の小さな印をつけた。
「これは、話せた丸」
由香は娘の頭に手を置いた。
分かった日だけでなく、話せた日にも印があっていい。
そういうことを、娘から教わった。
連絡グループの文を送った翌日、由香は学校へ行った。
新井と担任が、空いている教室で待っていた。窓際に、学芸会で使った木の幹が立てかけてある。美波が支えたものと同じ形だった。
担任は、美波が授業中に疲れることがあったと言った。保健室へ行くかと聞くと、大丈夫と答えていたという。
「おうちへ連絡すればよかったですね」
由香は、そうですねと言いかけた。そう言えば、その日を見逃した人を1人増やせる気がした。
「私も、疲れたって言ってるのを聞きました」
新井が、体調を知らせる方法を決めましょうと言った。美波が言いにくい時、合図だけでも伝えられるように。由香は鞄からノートを出した。
「友達には、何て言えば」
担任は、本人がどう話したいかを聞くところから始めたいと答えた。
「娘は、私だけ変なのかって、聞くんです」
言うつもりのなかった言葉だった。窓の外で体育の笛が鳴った。
「私も、何て答えればいいか。違うって言いましたけど」
新井はすぐに答えを用意しなかった。由香が持ってきたノートの、娘の描いた丸を見た。
「このノート、学校でも使えますか。美波さんが、いいと言えば」
由香はうなずきかけ、自分だけで決められないことに気づいた。
「帰って、聞きます」
教室を出る時、担任が紙の木を動かした。薄い段ボールの裏に、子供たちの名前が書かれていた。美波の字もあった。由香はその字を見つけたことを、帰ったら娘に話そうと思った。
佐伯は久我と連絡を取り、大学の協力で検体の確認を進めた。
研究上の検査であり、それだけで原因が確定するわけではない。説明は何度も繰り返された。由香はそのたびにうなずいた。
「ほかにも、似た症状の子がいます」
佐伯は、個人が分からない形にした経過表を見せた。
「ここ半年で3人。今までは、別々の症例として見ていました」
拓真は4つの行を見た。
娘の行だけを太く見てしまう自分がいた。ほかの3人にも、病院へ駆けつけた親がいる。そのことを、頭では分かっていたのに、目はどうしても美波の記録に戻った。
「先生。これを、ほかの病院にも伝えられませんか」
「必要な情報共有は進めます。ただ、患者さんの同意と、情報の確かさを分けて扱います。急ぐことと、雑にすることは別です」
拓真は、その言葉を書き留めた。
玲奈は母の施設へ行った。
職員は面会の確認を見直したと説明した。散歩の付き添いも増やすという。母は、悪いことをしたみたいね、と言った。
「そういう意味じゃないよ」
「分かってる。でも、外へ行くたびに理由を聞かれるの」
玲奈は買ってきた菓子の箱を開けた。母が自分で選べるよう、蓋を外して置いた。
「お父さんから、連絡あった?」
「あなたがそう聞く時は、あまりいい話じゃない」
母は饅頭を取った。半分に割り、片方を玲奈の前へ置いた。
「仕事で、確かめていることがある。父さんの、審査の時のこと」
「何か、間違えたの」
「まだ、会ってない」
「先に、私に聞くの?」
玲奈は菓子に手を出さなかった。
母は父のことを何でも知っているわけではない。だが、ここへ来れば、父を悪人とも善人とも決めずに話せる気がした。
「記事にするかもしれない」
「そう」
「父さんのことを」
「聞こえたわよ」
母は少し苛立っていた。玲奈は顔を上げた。
「私に、書いていいと言ってほしいのね」
「違う」
「じゃあ、何」
廊下を配膳車が通った。母は饅頭を食べ終え、指についた粉を払った。
「私は、あの人から聞きたい。娘が記事を書く前に、夫が何をしたか、夫から聞きたい。それだけ」
玲奈は小さくうなずいた。
「写真のことは、私が」
「今日は、その話はやめて」
母は窓を見た。
「ここにいる間くらい、散歩の話をしたい。花壇の花、替わったの。見ていって」
玲奈は残された半分の饅頭を食べた。母は庭へ行く準備を職員に頼んだ。自分ではなく、母のほうが先に、今日することを決めていた。
帰り際、玲奈は庭へ出た。
写真が撮られた場所を探した。植え込みの角、通路の曲がり目。誰でも立てる場所だった。
そこに立つと、母の部屋の窓が見えた。
玲奈は電話を出し、撮影しようとしてやめた。
同じ角度から撮り返しても、何かが戻るわけではない。
代わりに、日時と場所を手帳に記した。
怖かったことを、怖かったという感想だけで終わらせない。そのために、自分の仕事があった。
駅へ向かう途中、父の番号を開いた。
指は、通話の印の上で止まった。
先に役員名簿を確認しようと思った。
それが慎重さなのか、父の声を聞くのが怖いだけなのか、自分でも分からなかった。
玲奈の父の名前を見つけたのは、財団の役員名簿だった。
神崎修一。
元審査担当部署の課長。ミナト側が資金を出す財団の理事長。
拓真は玲奈の部屋で、名簿を机に置いた。
「お父さんですか」
玲奈はうなずいた。
部屋の隅に、古いアルバムが開かれていた。幼い玲奈が父と並んでいる。写真の父は、今の拓真より若かった。
「最初から知っていたんですね」
「はい」
「僕には、家族のことまで話させて」
「言えば、信用されないと思いました」
「今は、信用できると思いますか」
玲奈は顔を上げた。
「父を守るためではありません」
「では、何のためですか」
「父が、何をしたのか知るためです」
声が揺れた。
「私は、父が悪い人だと分かって取材しているわけじゃない。いい人だと証明したくて始めたのかもしれない。そこを、まだ自分でも分けられなかった」
拓真は椅子に座った。
家族を守るために調べる人間と、家族を調べる人間。同じ資料を見ていても、失うものは違った。
「会わせてください」
玲奈は、アルバムを閉じた。
修一は、その朝、財団の会議で新しい事業計画を聞いていた。
子供の健康を支える食生活。産学連携。情報発信。資料には明るい写真と、簡潔な見出しが並んでいた。
彼は質問をし、担当者の説明を聞き、最後に承認の印を押した。
印を押すことには慣れていた。
押したあとで、どれほどの人が動くかも知っていた。だからこそ、1つずつ確かめるのが仕事だと若い職員に教えてきた。
自分がその教えを破った時のことは、なるべく具体的に思い出さないようにしていた。
脱落者が多いという指摘は、部下から上がった。
修一は照会案を作らせた。会社から回答が来た。個人的事情によるものが多く、製品との関連は認められない。追加の一覧は整理中。
整理中という言葉を、彼は受け入れた。
その間に、鷲尾の事務所から電話があった。
進捗はどうか。いつ結論が出るのか。国民の期待が大きい。国際競争もある。
露骨な命令ではなかった。
電話の相手は、判断を変えろとは言わなかった。ただ、時間をかけることが、国の利益を損なうかのように話した。
修一は、その言葉を上司へ伝えた。
上司は、必要な確認は済んでいるのかと聞いた。
修一は、主要な確認は済んでいますと答えた。
主要な。
その2文字で、残っている疑問を端へ寄せた。
誰かに強制されたからではない。
自分で選んだ言葉だった。
退官後、財団の理事長の話が来た。
提示された給与を見た時、修一は年額か月額かを確かめた。相手は笑わず、年額ですと答えた。現役の時より高かった。
妻の通院が増え始めていた。病院に近いマンションを探し、金額を見て諦めたばかりだった。
就任を決めたあと、修一はそのマンションへ妻を連れていった。窓から公園が見えた。
「広いわね」
「病院も近い」
「そうね」
妻が古い机を持っていきたいと言ったので、業者に寸法を測ってもらった。玄関の幅が足りず、脚を外すことになった。新しいものを買えばいいと言うと、妻は、まだ使えるでしょうと答えた。
修一は翌週、自分の書斎用に別の机を買った。脚を外すことを考える必要のない、組立式のものだった。請求書は財団へ回した。
古い机は今、妻の施設の部屋にある。引き出しの角は、玲奈が小学生の時につけた傷のままだった。
秘書から、娘が来ると聞いた。
同伴者はミナトフーズの早瀬という社員だという。
修一は、机の上の資料を閉じた。
娘が何を調べているか、薄々は分かっていた。経済誌で食品業界を担当している。会社の広報からも、取材の問い合わせがあったと聞いていた。
娘が自分のところまで来ないことを、どこかで期待していた。
来なければ、知らずに済む。
知っているはずのことを、知らないままにできる。
修一は窓の前に立った。
扉が開く音がした。
振り返るまでに、少し時間がかかった。
修一の部屋には、立派な机があった。
玲奈は子供の頃の父の机を覚えていた。自宅の小さな書斎にあり、角が欠け、引き出しが少し引っかかった。母が買い替えを勧めても、まだ使えると言っていた。
今の机は、傷が1つもなかった。
「母さんには会っているのか」
「毎週」
「そうか」
「お父さんは?」
修一は答えなかった。
拓真が群Bの記録を説明すると、修一は眉を寄せた。
「その資料は、提出されていない」
「死亡の記録も?」
「見ていない」
玲奈は父の顔を見た。嘘かどうかを見抜こうとした。だが、娘として知っている顔の多さが、かえって判断を曇らせた。
修一は、途中脱落が多すぎるという部下の指摘を受けたことを認めた。追加照会の案を作ったが、会社側の説明を受け入れた。その前後に、鷲尾謙吾の事務所から審査を急ぐ連絡があり、上司からも結論を求められた。
「照会を続けることは、できたんですね」
玲奈が聞いた。
修一はうなずいた。
「できた」
「しなかった」
「しなかった」
父が同じ言葉を繰り返すたび、玲奈の中で何かが崩れた。圧力に屈したのなら、父も被害者なのだと考えたかった。だが父自身が、その逃げ道を選ばなかった。
「財団の話が来た時、関係があると思わなかった?」
「思わないようにした」
修一は机に手を置いた。
「分からなかったのではない。確かめなかったんだ」
拓真は、自分の手帳を握った。
同じ言葉を、自分も言わなくてはいけない日が来ると思った。
修一は、拓真が示した数字を紙に書いた。
42、31、4、9。
「私が見た提出資料では、重い問題はないという結論だった」
「その結論に、疑問はなかったんですか」
拓真が聞いた。
「ありました。だから照会案を作らせた」
「止まった理由は」
「会社から、整理中だという回答が来た」
修一は紙の端を折った。折り目を戻し、指で伸ばした。
「その回答を、どこまで待つと決めていましたか」
拓真の問いに、修一は答えられなかった。
期限を切った記憶がない。会社へは切らず、部下へは今週中と指示した。資料を読んだ記憶より、部下が持ってきた書類を差し戻した記憶のほうが鮮明だった。
「私は、すべてを自分で確かめる立場ではなかった」
玲奈の椅子が動いた。
「その言い方、父さんが嫌っていたでしょう」
修一は娘を見た。
「子供の頃の話で、今の仕事を」
「仕事を教えたのは父さんだよ」
声が大きくなった。廊下の秘書に聞こえたかもしれなかった。玲奈は唇を噛んだ。
修一は紙を裏返した。
「疑問を残したまま進めないようにする立場だった。そこを、しなかった」
玲奈は黙っていた。拓真が、記録は残っていますかと聞いた。
「公文書として、確認を求められる。私の手元のものも探す。ただ、今ここで、持っているとは言えない」
「当時の部下に、私から連絡していいですか」
玲奈は手帳へ目を落としたまま聞いた。
「私から話を」
「しないで」
修一は口を閉じた。
「父さんが電話したら、言えなくなることがある」
修一はうなずいた。折った紙を、もう1度表へ返した。4つの数字があった。娘はそれを撮っていいかと聞いた。修一は紙から手を離した。
帰り際、修一は証言のために記録を探すと言った。
玲奈は父を抱きしめなかった。許すとも、許さないとも言わなかった。
ビルの外で、拓真が謝った。
「ひどい言い方をしました」
「私も、隠しました」
玲奈は空を見上げた。
「父を記事にすることと、父を捨てることは、同じじゃないと思いたい」
「同じじゃありません」
拓真は言った。
自分が会社を告発することと、同僚を捨てることも、同じではないはずだった。
そうでなければ、進めなかった。
玲奈は、修一の元部下に会った。
相手は今も行政の仕事をしていた。取材を受けることに慎重で、最初は父を通してほしいと言った。
玲奈は、父の了承を得るための取材ではないと説明した。
「神崎さんの娘さんでしょう」
「はい。だから、父の話だけで書かないために来ました」
相手はしばらく考え、短い時間ならと答えた。
会ったのは、庁舎の外の喫茶店だった。相手は名刺を出さず、録音もしないでほしいと言った。玲奈は、発言をそのまま記事に使う時は改めて確認すると伝えた。
当時、脱落者の多さを最初に指摘したのは、その人だった。
「数字が、合わなかったんです」
「参加人数と、解析人数ですか」
「それもあります。ただ、数字が違うこと自体は、理由が説明されればおかしくない。問題は、理由の一覧が来なかったことです」
玲奈は手帳に書いた。
「催促は?」
「しました。照会案も作りました」
「そのあと、どうなりましたか」
相手はカップを置いた。
「神崎さんが、主要な確認は済んでいると言った」
玲奈は顔を上げた。
父が自分で話した言葉と一致した。
だが、一致したからといって、すべてが確定するわけではない。相手が父と事前に話した可能性もある。
「最近、父と連絡しましたか」
「いいえ」
「私が取材することを、誰かから聞いていましたか」
「あなたのメールだけです」
玲奈はうなずいた。
相手は少し苦笑した。
「娘さんでも、そこまで聞くんですね」
「娘だから、聞きます」
言ってから、玲奈は訂正した。
「娘でなくても、聞くべきことでした」
相手は窓を見た。
「私は、照会が止まった時、もう1度言うべきでした」
「なぜ、言わなかったんですか」
「神崎さんが判断したなら、理由があると思った。自分より、全体を知っている人だから」
玲奈はペンを止めた。
父が信頼されていたことが、父の判断を通した。
悪い人間だから誰も逆らえなかったのではない。きちんとした人だと思われていたから、疑問が止まった。
そのほうが、ずっと怖かった。
相手は、当時の照会案の文書番号を覚えていた。
私物の手帳に、会議の予定と一緒に書いてあったという。資料そのものを持ち出してはいない。番号だけなら伝えられる。
玲奈は受け取り、正式な記録を確認するための手がかりにした。
「父は、いい上司でしたか」
聞きかけて、口を閉じた。
それは、今の取材に必要な問いではなかった。娘として知りたいことと、記事のために確かめることが混ざりかけた。
相手は、聞かれなかった問いに答えなかった。
その沈黙を、玲奈はありがたいと思った。
店を出る前、相手は言った。
「私のことも、確認しなかった人として書くなら、先に知らせてください。逃げるためではなく、家族に話すためです」
玲奈はうなずいた。
父だけが、過去の判断を家族に説明するわけではない。
1つの決裁の下に、いくつもの食卓があった。
美波の検体から、研究班が対象としていた菌に一致する所見が得られたと連絡があった。他の3例でも同様の結果だった。佐伯は因果関係の検討を続けると説明した。
拓真は由香の肩に手を置いた。
由香は、その手を外さなかった。
翌朝、テレビに拓真の顔が映った。
ミナトフーズは、機密情報の不正な社外提供を理由に、社員1人を懲戒解雇したと発表していた。画面には、会社が提供した社員証の写真が使われていた。
会社側は競合との接触を主張し、法的措置を検討しているという。
美波がランドセルを背負って入ってきた。
「パパ、テレビに出てる」
拓真はリモコンを探した。
玄関のチャイムが鳴った。
画面を消すより早く、外の世界が家の中へ入ってきた。




