第5章 花の裏側
写真を受け取った翌朝、玲奈はホテルへ向かう前に、別の取材先へ電話した。
メディクロスの元社員が、連絡を取ってよいか確かめてくれた相手だった。試験に参加し、途中で入院した女性。名前は森田沙織。今は37歳で、郊外の団地に住んでいた。
沙織は電話で、記者と会うのは初めてではないと言った。
「前にも、話しました。でも、何も出なかった」
「どちらの媒体ですか」
「名前は言いません。その人が悪いのか、私の話が足りなかったのか、分からないから」
玲奈は、前の記者を批判する言葉を使わなかった。
「今回も、必ず記事になるとは約束できません。ただ、お話を伺ったあと、どう扱うかはお伝えします」
「書かない時も?」
「はい」
沙織は少し黙った。
「それなら、来てください」
団地の階段には、子供用の自転車が置かれていた。
沙織は玄関で、靴をそろえなくていいと言った。片手に力が入りにくく、物を拾うのに時間がかかる。来客が気を遣って何でも手伝おうとすると、かえって自分の動く順番が分からなくなるのだという。
玲奈は言われた通りにした。
居間には低いテーブルと、背の高い椅子があった。沙織は床に座ると立ち上がりにくいので、椅子を使っていた。
「どこに座ればいいですか」
「そっちの座布団で。私は、ここ」
玲奈は録音の許可を取り、手帳を開いた。
沙織は試験に参加した理由を、家計のためだと説明した。夫の仕事が減り、子供の入園費用が必要だった。決まったものを食べ、通院するだけなら、家事と両立できると思った。
「最初は、ちゃんと見てもらっている感じがしました。検査もあるし、食事の記録も細かい。普段の健診より、ずっと丁寧だった」
症状が出始めたのは、試験が進んでからだった。手が震える。急に汗が出る。頭がぼんやりする。担当者に伝えると、食事の間隔を空けないようにと言われた。
「私の食べ方が悪いんだと思いました」
沙織は右手を見た。
「言われた通りにしても、また起きた。それで、もうやめたいと言ったんです」
「やめられましたか」
「やめました。でも、そのあとも具合が悪くなって、入院した。今の手のことが全部そのせいか、私には分かりません。病院の先生も、簡単には言えないと」
玲奈は、因果関係は未確定、と記した。
沙織はその字を見た。
「それ、私の話が信用できないという意味じゃないんですよね」
「違います。分かっていることと、まだ調べることを分けています」
「前の人も、そう言いました」
玲奈はペンを止めた。
沙織は責めていなかった。前にも聞いた言葉が、今度はどこへ続くのか確かめていた。
「私は、今日伺ったことを整理して、確認のためにお送りします。間違いがあれば直します。分からないことは、分からないと残します」
「はい」
沙織は小さくうなずいた。
示談の書類は、引き出しに保管されていた。
澄江のものと、似た形式だった。金額は違う。守秘に関する条項があり、試験との関連を認めるものではないと書かれていた。
「お金をもらったから、黙っているべきだと思っていました」
沙織は紙を押さえた。
「でも、黙っていたら、治療のことも相談しにくい。先生に話していいのか、家族にどこまで言っていいのか。契約を読むたびに、全部だめな気がした」
「弁護士に相談したことは?」
「あります。話していい範囲を教えてもらいました。でも、教えてもらっても、怖いものは怖いんです」
玲奈はうなずいた。
権利があることと、その権利を使える気持ちでいることは違う。
沙織は戸棚から、試験中の日記を出した。体調を記すために渡された用紙の控えと、自分でつけた日記が一緒に綴じてあった。
子供の熱。買い物。夫の帰宅時刻。手が震えた日。
症状は、生活の中に書かれていた。
玲奈は、試験の報告書だけでは見えない時間があることを知った。
「これを複写してもいいですか」
「子供の名前は、隠してください」
「もちろんです」
「あと、私のことを、かわいそうな人にしないでください」
沙織は窓を見た。
「できなくなったことはあります。でも、できることもある。毎日、病気のことだけ考えているわけじゃない。子供に怒るし、テレビ見て笑うし、夫とけんかもします」
玲奈は手帳を閉じた。
「どういう記事なら、読んでみたいですか」
沙織は初めて、少し驚いた顔をした。
「私が?」
「はい」
「私が悪かったのかどうか、分かる記事」
言葉は短かった。
玲奈は、それをそのまま書いた。
帰り際、沙織は飴の袋を差し出した。
玲奈の手が途中で止まった。
「普通の飴ですよ」
沙織が笑った。玲奈は謝り、1つ取った。
「味、変わったりしないんですか。あのあと」
「好きなもの?」
「はい」
「記者さんって、それ、よく聞きますね」
玲奈は包みを開ける指を止めた。
沙織は袋を棚へ戻した。
「甘いのは好き。手が動かなくなっても、子供には怒る。そういうので、いいですか」
「すみません」
「謝らなくていいから、来週、原稿を送るっていうの、忘れないで」
階段の踊り場で、玲奈は飴を口へ入れた。包み紙を畳み、手帳に挟んだ。来週の欄に、森田さんへ、と書き直した。
ヘリオスの受付には、生花が飾られていた。
ミナトフーズのロビーにある造花より、ずっと控えめで、ずっと高価に見えた。拓真は、会社の違いをそんなところで測ってしまう自分に気づいた。どちらも、人が安心して入ってくるための飾りにすぎないのに。
クラインは、玲奈の名前を知っていた。
「ミナトを熱心に調べているそうですね」
中野の写真を見せても、表情は変わらなかった。
「事業について意見交換することはあります。個別の相手については、お答えできません」
「試験データを買ったんですか」
「質問の前提が分かりません」
拓真は、机に置いた自分の手を見た。会社で質問をはぐらかされる時と、同じ手になっていた。
「人が亡くなっているかもしれないんです」
「それなら、適切な機関へ情報を届けるべきでしょう」
正しい言葉だった。
正しい言葉を口にする人間が、正しいことをしているとは限らない。その区別をつける方法を、拓真はまだ持っていなかった。
2人が帰ると、クラインは法務担当を呼んだ。
中野と会った写真が出回っている。公表予定の変更を、契約でどこまで抑えられるか。
担当者は、公益に関わる情報の公表を完全に禁じられるとは限らない、と言った。
「分かっています。止めろとは言っていません」
クラインは写真を裏返した。
「違反の可能性を、本人へ通知してください」
「公表を妨げたと見られます」
「通知の表現を考えるのが、あなたの仕事です」
担当者が出たあと、中野へ電話した。
「早瀬という人が来ました」
中野は黙っていた。
「娘さんが体調を崩したそうですね」
「どこで聞いた」
声の変わり方を、クラインは覚えた。
「業界は狭い。だからこそ、情報の扱いには慎重であるべきです」
「そっちから、家族へ連絡したのか」
「していません」
それは事実だった。中野は、だったらいい、と言いかけた。
「ただし」
クラインは続けた。
「私たちが公表の準備を整える前に、断片が出れば、あなたの記録まで工作と見られる。誰が困るか、分かりますね」
通話が切れた。
クラインは新商品の販売計画を開いた。発売予定の線は、ミナトの決算発表の直後から始まっていた。延期するなら、次の取締役会で説明が要る。
彼は日付の欄に黄色い印をつけ、営業へ送った。文章は、競合動向を注視、とした。
中野の居場所は、玲奈が追っていた試験会社の元社員からつながった。
船橋の倉庫。ヘリオス側の関係会社が借りている物件だった。玲奈は無断で入らないよう念を押し、拓真は通用口の前で中野にメッセージを送った。
しばらくして、内側から鍵が開いた。
「来ると思ってた」
中野は痩せていた。剃り残した髭より、目の下のくぼみが目立った。
拓真は胸ぐらをつかみかけ、手を止めた。
「生きてるなら、返事くらいしろよ」
「返事をしたら、来ただろう」
「来たよ」
中野は、ほんの少し笑った。
その笑い方を知っていた。入社したばかりの頃、2人で上司に叱られた帰り、駅の立ち食いそばで中野が見せた顔だった。拓真はその記憶が残っていることに、腹が立った。
倉庫の奥に机と簡易ベッドがあった。書類は湿気を避けるため、樹脂の箱に入れられていた。
「美波が倒れた」
中野の手が止まった。
「低血糖だった。42」
「今は」
「退院した。でも、原因はまだ確定してない」
中野は椅子を引いた。
「見せるものがある」
中野は電気ケトルをつけた。
水が沸く音が、倉庫の高い天井へ吸い込まれた。拓真は机の横の簡易ベッドを見た。毛布が畳まれ、枕元に本が1冊あった。表紙は裏返されていた。
「ここに、ずっといるのか」
「ずっとじゃない」
「ホテルは?」
「打ち合わせだけだ」
「家を引き払ったのは、会社の指示か」
中野は紙コップを出した。
「半分は。休職の手続きと、身辺の整理をしろと言われた。俺も、都合がよかった」
「都合?」
「会社にいるまま、これ以上集めるのは無理だった。持っているものを確保して、外へ出る必要があった」
拓真は椅子に座った。
「俺に、ひと言もなく?」
「言ったら、お前は止めた」
「止めたかもしれない。でも、聞いた」
中野は湯を注いだ。
「お前は、聞いてから、上に相談する。そういう人間だ」
拓真は口を閉じた。
否定できなかった。実際、自分は田所に報告し、社内窓口へ電話した。会社の中で正しく処理されることを、最後まで期待していた。
「それが、悪いのか」
「悪くない。だから、言えなかった」
中野は紙コップを渡した。
中身は湯だった。
「お前まで、俺と同じになってほしくなかった」
「俺のために黙ったのか」
中野は目を逸らした。
「そう言えば、少しはましに聞こえるだろ」
拓真は湯を飲まなかった。
相手のためという言葉を、自分も何度も使った。だが、それを受け取る側に立つと、守られたというより、選ぶ権利を取り上げられた気がした。
「中野。俺が何をするかは、俺に決めさせてくれ」
中野は長く黙った。
それから、机の引き出しを開けた。
写真が1枚入っていた。
若い女性が、兄に向かって何かを言っている。撮影された瞬間に口を開けたらしく、笑っているのか怒っているのか、写真だけでは分からなかった。
「美咲だ」
中野は言った。
「これから見せるものに、こいつの名前がある」
一覧表には、42人の番号と経過が並んでいた。
重い低血糖の記録がある人が31人。死亡4人。後遺症の記載9人。最終報告の表では、29人が解析対象から除外されていた。脱落の数と、有害事象の数は一致しない。追跡できていた人まで、提出用の集計から外されている。
「29人全員が死んだわけじゃない。でも、29人を外すことで、死んだ4人も見えなくなった」
中野は画面を動かした。
B-17。中野美咲。試験参加時26歳。
拓真は、花の紙を鞄から出した。
「これ、お前の部屋の前に落ちてた」
中野は紙を受け取った。
「小さい頃の絵だ。引っ越す時、箱から落ちたんだろうな」
「妹さんか」
「ああ」
美咲が試験に参加すると聞いた時、中野は、うちの会社のものだから大丈夫だと言った。
電話の向こうで、妹は笑った。
「お兄ちゃんが作ったわけじゃないでしょう」
「作ってはいない。でも、調べてる」
「じゃあ、変なものだったら、止めてね」
中野は、もちろんと答えた。
軽い約束だった。
自分が品質管理部にいることを、妹に少し誇りたかった。妹が自分の勤める会社の商品を試す。それは家族が自分の仕事を信じてくれていることのように思えた。
美咲は書店で働いていた。
舞台の照明を学ぶため、夜間の学校へ通おうとしていた。中野は、26歳から新しい仕事を始めることを、少し心配していた。心配という言葉の中には、今の仕事を続ければいいのにという気持ちもあった。
「本屋、嫌なのか」
「嫌じゃない」
「なら、続ければいい」
「嫌じゃない仕事を、ずっとするために、好きなことを諦めるの?」
中野は返事に困った。
自分は、仕事が好きかどうかを、長く考えていなかった。会社に入り、担当を覚え、後輩ができ、責任が増えた。嫌ではない。それで十分だと思っていた。
美咲は、舞台を見る時、役者より上を見てしまうと言った。
光が変わると、同じ場所が別の場所になる。何も言わなくても、朝になったり、誰かがいなくなったりする。それを作る仕事がしたい。
「裏方だぞ」
「知ってる」
「大変だぞ」
「お兄ちゃん、やったことあるの?」
中野は笑った。
なかった。
妹は、兄が知っていることと、知っているつもりのことを、簡単に分けた。
最初にふらついたと連絡が来た時、中野は仕事中だった。
分析装置の点検が長引き、昼食を取っていなかった。妹も食事を抜いたのだろうと思った。
「ちゃんと食べろよ」
「食べてる」
「じゃあ、担当の先生に言え」
「言った」
「何て」
「様子を見ようって」
中野は、それなら大丈夫だろうと答えた。
医師が見ている。試験会社が管理している。自分の会社が依頼している。
安心する理由は、いくつもあった。
そのどれも、自分が妹の状態を確かめたことにはならなかった。
週末、妹の部屋へ行く約束をした。
だが、急な会議が入った。中野は、来週にしようと連絡した。
美咲は、いいよと返した。
怒っていないと思った。
妹は、兄が忙しいことを知っていた。忙しい兄に、自分のための時間を要求しないようにしていたのかもしれない。その可能性を、中野はあとになって何度も考えた。
来週は、来なかった。
浴室で倒れたと聞いて病院へ駆けつけた時、美咲はすでに亡くなっていた。
中野は、試験に参加していることを伝えた。担当者の連絡先も示した。会社へ電話し、製品の資料を求めた。
対応は速かった。
速かったことが、彼を安心させた。
会社は、必要なことをしている。
その時の中野は、そう思った。
あとになって記録を見ると、速く送られたのは一般的な製品資料だった。試験中に起きていた症状の一覧は、届いていなかった。
医師が何を知り、何を知らずに判断したかを、中野はその時、考えなかった。
照会に応じた会社の担当者は、丁寧に頭を下げた。
関連は確認されていない。
中野は、その言葉を信じたかった。
自分が大丈夫だと言ったものが、妹を傷つけたかもしれない。そう考えることに耐えられなかった。
会社が悪くないなら、自分も、あの電話で間違ったことを言わなかったことになる。
会社を信じることは、自分を守ることでもあった。
葬儀のあと、美咲の部屋を片づけた。
机の上に、学校の資料があった。照明の機材の写真。授業料の案内。見学会の予約票。
見学会の日は、妹が死んだ3日後だった。
中野は学校へ電話した。
予約を取り消したいと伝えた。理由を聞かれ、本人が亡くなったと答えた。
相手は驚き、丁寧に悔やみを述べた。
中野は礼を言って切った。
妹が行くはずだった場所を、1つずつ消していく。
死後の手続きは、そういう仕事だった。
銀行。携帯電話。賃貸契約。会員登録。
どこでも、本人の名前と、生年月日と、亡くなった日を聞かれた。
中野は、何度も同じ数字を言った。
言えるようになることが、嫌だった。
妹の電話には、送信されなかった文が残っていた。
お兄ちゃん、やっぱり変かも。
そのあとに、途中まで打った言葉があった。手が、と書いてあった。
中野は画面を見た。
送られていれば、自分は何をしただろう。
すぐに電話しただろうか。仕事中だからあとでと返しただろうか。担当医に聞けと言っただろうか。
答えは、いくらでも都合よく作れた。
だが、実際に妹が送った最初の電話に、自分は、ちゃんと食べろと言った。
中野は電話を閉じた。
その文を、誰にも見せなかった。
妹の苦しみを示すものとして使うには、自分の返事が、あまりに貧しかった。
妹の死から1年余り経った12月、中野は保存記録の整理を命じられた。
片づけるだけの仕事だった。期限を過ぎた試験を一覧にし、継続保存の要否を担当部署へ尋ねる。元の文書まで読む必要はない。
試験の参加者名簿は、別の資料の末尾についていた。
中野美咲。
同姓同名だと思おうとした。生年月日を見た。住所も、知っていた。
終了理由は本人希望だった。
妹は希望して終わったのか。
何を。
中野は、その行を定規で押さえた。隣の席で拓真が電話をしていた。美波の迎えに間に合わないという話だった。いつもと同じ午後に、妹の名前だけが戻ってきた。
試験会社へ照会すると、依頼元を通してほしいと言われた。依頼元の担当部署へ聞くと、保存資料は整理中だった。
中野は実家へ電話した。
母が出た。試験のことを聞くと、電話の向こうで何かが落ちた。母は父を呼んだ。しばらくして、父が話した。
示談したこと。会社には知らせないよう頼んだこと。お前の仕事をなくしたくなかったこと。
「いつまで、言わないつもりだった」
父は答えなかった。
中野は受話器を置いた。報告書の終了理由が、まだ目の前にあった。本人希望。妹の字ではなかった。
その日から、一覧の作成に時間がかかるようになった。遅いと叱られ、中野は謝った。廃棄を確認する欄は、空けたままにした。
群Bの一覧を初めて見た時、中野は、怒るより先に数えた。
妹の行を探し、ほかの行を見た。
4人。
自分の妹だけではなかった。
その事実に、救われたような気持ちが一瞬生まれた。
自分だけが不運だったのではない。
そう思った自分を、すぐに憎んだ。
ほかにも死んだ人がいることを、安心する理由にした。
中野はその夜、何度も手を洗った。
手を洗っても、考えたことは消えなかった。
クラインと会ったのは、それからだった。
彼は中野の話を最後まで聞いた。会社が何をしたかだけでなく、妹が何をしたかったかも聞いた。
中野は、照明の学校の話をした。
初めて、人に話した。
クラインは、ひどいことだと言った。
その言葉が、欲しかった。
資料を評価する前に、妹の死をひどいことだと言ってくれる人が、必要だった。
だから、次に示された契約書を、冷静に読んでいるつもりで、冷静には読めなかった。
金額より、公表するという約束を見た。
会社を追い詰めるという説明を聞いた。
その先に、妹が少しだけ戻ってくるような気がした。
戻らないと分かっていた。
分かっていることと、望まないことは違った。
中野は花の紙を裏返した。ミサキという字を、親指でなぞった。
拓真の手帳には、42、31、4、9という数字が並んでいた。
「去年の12月から、集めたのか」
「ああ」
「俺も、隣にいた」
中野は紙を畳んだ。
「いたな」
「何で、言わなかった」
「さっき言っただろ。お前は上へ相談する」
拓真は机の脚を見た。錆の出たところに、荷造り用のテープが巻かれていた。
「金のためか」
「金も、だ」
中野は隠さなかった。
「俺が休職して、何で暮らすと思う。会社の給料か。貯金か。美咲の金には触りたくなかった」
「代わりに、競合からもらうのか」
「そうだ。汚いと思うか」
拓真は返事をしなかった。
中野は決算発表の日付を示した。あと半月足らず。クライン側はその日に合わせて公表を準備しているという。
「その間も、売られる」
「今、俺が出したら、持ち出しだ、捏造だで終わる。相手には金がある。国外へ出す経路もある」
「誰が読んだ。原本を。クライン以外に」
中野は画面を閉じかけた。
「契約で、外部の専門家に」
「名前は」
「俺が信用できると思ったから、渡したんだ」
拓真は中野を見た。
「美咲さんも、そうだったんだろ」
中野の椅子が鳴った。
「その名前を使うな」
拓真は口を閉じた。中野は立ち、簡易ベッドの脇まで行った。
「お前は、まだ娘が生きてるから、そう言える」
視線は合わなかった。
ケトルの保温が切れた。何かを言わなければと思うたびに、美咲の名をもう1度使いそうになった。拓真は口を閉じたまま、手帳の数字を指で隠した。
拓真は一覧の数字を、手帳に書き写した。
中野は止めなかった。
「原本を、複製させてくれ」
その頼みには、首を振った。
「それは、できない」
「なぜだ」
「今は、俺が持っていることに意味がある」
「誰にとって」
中野は答えなかった。
拓真は、表の別の行を指した。
「この人は、今どうしてる」
B-09。森田沙織。
「生きてる。退院後の経過は、会社の資料では途中で切れてる」
「神崎さんが、会った人だ」
中野は顔を上げた。
「何て言ってた」
「自分が悪かったのか、知りたいって」
中野は画面を見た。
「悪いわけ、ないだろ」
「お前は、そう言える資料を持ってる」
「だから、出すと言ってる」
「時期を売ってるんだろ」
中野は机を叩いた。
紙コップが倒れ、湯が机の端へ流れた。2人は反射的に書類を持ち上げた。拓真がタオルを探し、中野が電源コードを遠ざけた。
数秒間、いつもの同僚に戻った。
分析室で溶媒をこぼした時も、2人はこうして動いた。何を言わなくても、相手がどちらへ手を伸ばすか分かった。
机が拭かれると、沈黙が戻った。
「美咲の時、俺は何もできなかった」
中野は濡れたタオルを握った。
「今なら、できる。あいつらがいちばん困る時に、いちばん困る形で出せる。そう思わなきゃ、毎朝、目を開けられなかった」
拓真は椅子に座り直した。
「分かるとは、言えない」
「言わなくていい」
「でも、お前が眠れなかったことは、分かった」
中野は顔を上げなかった。
「俺は、お前の妹を知らない。ちゃんと聞こうとしなかった。そこは、謝る」
「謝るな」
「謝る。でも、待つとは言えない」
中野はタオルを置いた。
「お前は、ずるいな」
「そうかもしれない」
「自分が悪かったところを認めてから、正しいことを言う。こっちは、怒る場所がなくなる」
拓真は首を振った。
「怒っていい。俺に怒ってもいいから、資料を出してくれ」
中野は何か言いかけた。
その時、倉庫の外で車の音がした。
外に車が止まった。
中野は窓の隙間を見て、書類を箱に戻した。
「後をつけられたな」
拓真は、玲奈とつないでいた電話を握った。彼女の声が、小さく危険を告げていた。
「裏へ出ろ」
「一緒に来い」
「俺には、まだやることがある」
中野は花の紙を胸ポケットに入れた。
通用口の向こうに消える直前、振り返った。
「美波ちゃんには、飲ませるな」
その言葉を、拓真は一生忘れないだろうと思った。
自分の娘だけに向けられた親切が、倉庫に積まれた何万もの商品をそのままにしている。
入ってきたのは田所と、会社の警備担当者たちだった。
「ここで何をしている」
「中野を捜していました」
「会ったのか」
拓真は答えなかった。
中野が置いていった報告書の表紙を、拓真は手に持っていた。それを取り上げられた。机の上に残った紙だけでは、何も説明できない。中野はそのことを分かって、原本を持って出たのだろう。
「部長は、死亡が4人だと知っていたんですか」
田所は表紙を折りたたんだ。
「部長にも、お子さんがいますよね」
田所の手が止まった。
それから彼は、紙を鞄に入れた。
その沈黙が、知らなかったという意味なのか、知っていたという意味なのか、拓真には分からなかった。
帰宅すると、由香が子供部屋から出てきた。
手には、拓真の手帳があった。
「読んだ」
拓真は靴を脱ぐことも忘れていた。
「美波は?」
「今、病院に電話してる。冷や汗があって、具合が悪いって言うから」
由香の手が震えていた。
テーブルには空のジュースパックがあった。学校の帰り、友達と買ったという。
家から消せば済む話ではなかった。
由香は電話の向こうの指示を聞きながら、拓真を見た。
責める目ではなかった。
もう、責めている時間さえ惜しいという目だった。




