↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゼロ・カロリー  作者: ぽむぽむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/10

第5章 花の裏側

写真を受け取った翌朝、玲奈はホテルへ向かう前に、別の取材先へ電話した。

 メディクロスの元社員が、連絡を取ってよいか確かめてくれた相手だった。試験に参加し、途中で入院した女性。名前は森田沙織。今は37歳で、郊外の団地に住んでいた。

 沙織は電話で、記者と会うのは初めてではないと言った。

「前にも、話しました。でも、何も出なかった」

「どちらの媒体ですか」

「名前は言いません。その人が悪いのか、私の話が足りなかったのか、分からないから」

 玲奈は、前の記者を批判する言葉を使わなかった。

「今回も、必ず記事になるとは約束できません。ただ、お話を伺ったあと、どう扱うかはお伝えします」

「書かない時も?」

「はい」

 沙織は少し黙った。

「それなら、来てください」


 団地の階段には、子供用の自転車が置かれていた。

 沙織は玄関で、靴をそろえなくていいと言った。片手に力が入りにくく、物を拾うのに時間がかかる。来客が気を遣って何でも手伝おうとすると、かえって自分の動く順番が分からなくなるのだという。

 玲奈は言われた通りにした。

 居間には低いテーブルと、背の高い椅子があった。沙織は床に座ると立ち上がりにくいので、椅子を使っていた。

「どこに座ればいいですか」

「そっちの座布団で。私は、ここ」

 玲奈は録音の許可を取り、手帳を開いた。

 沙織は試験に参加した理由を、家計のためだと説明した。夫の仕事が減り、子供の入園費用が必要だった。決まったものを食べ、通院するだけなら、家事と両立できると思った。

「最初は、ちゃんと見てもらっている感じがしました。検査もあるし、食事の記録も細かい。普段の健診より、ずっと丁寧だった」

 症状が出始めたのは、試験が進んでからだった。手が震える。急に汗が出る。頭がぼんやりする。担当者に伝えると、食事の間隔を空けないようにと言われた。

「私の食べ方が悪いんだと思いました」

 沙織は右手を見た。

「言われた通りにしても、また起きた。それで、もうやめたいと言ったんです」

「やめられましたか」

「やめました。でも、そのあとも具合が悪くなって、入院した。今の手のことが全部そのせいか、私には分かりません。病院の先生も、簡単には言えないと」

 玲奈は、因果関係は未確定、と記した。

 沙織はその字を見た。

「それ、私の話が信用できないという意味じゃないんですよね」

「違います。分かっていることと、まだ調べることを分けています」

「前の人も、そう言いました」

 玲奈はペンを止めた。

 沙織は責めていなかった。前にも聞いた言葉が、今度はどこへ続くのか確かめていた。

「私は、今日伺ったことを整理して、確認のためにお送りします。間違いがあれば直します。分からないことは、分からないと残します」

「はい」

 沙織は小さくうなずいた。


 示談の書類は、引き出しに保管されていた。

 澄江のものと、似た形式だった。金額は違う。守秘に関する条項があり、試験との関連を認めるものではないと書かれていた。

「お金をもらったから、黙っているべきだと思っていました」

 沙織は紙を押さえた。

「でも、黙っていたら、治療のことも相談しにくい。先生に話していいのか、家族にどこまで言っていいのか。契約を読むたびに、全部だめな気がした」

「弁護士に相談したことは?」

「あります。話していい範囲を教えてもらいました。でも、教えてもらっても、怖いものは怖いんです」

 玲奈はうなずいた。

 権利があることと、その権利を使える気持ちでいることは違う。

 沙織は戸棚から、試験中の日記を出した。体調を記すために渡された用紙の控えと、自分でつけた日記が一緒に綴じてあった。

 子供の熱。買い物。夫の帰宅時刻。手が震えた日。

 症状は、生活の中に書かれていた。

 玲奈は、試験の報告書だけでは見えない時間があることを知った。

「これを複写してもいいですか」

「子供の名前は、隠してください」

「もちろんです」

「あと、私のことを、かわいそうな人にしないでください」

 沙織は窓を見た。

「できなくなったことはあります。でも、できることもある。毎日、病気のことだけ考えているわけじゃない。子供に怒るし、テレビ見て笑うし、夫とけんかもします」

 玲奈は手帳を閉じた。

「どういう記事なら、読んでみたいですか」

 沙織は初めて、少し驚いた顔をした。

「私が?」

「はい」

「私が悪かったのかどうか、分かる記事」

 言葉は短かった。

 玲奈は、それをそのまま書いた。


 帰り際、沙織は飴の袋を差し出した。

 玲奈の手が途中で止まった。

「普通の飴ですよ」

 沙織が笑った。玲奈は謝り、1つ取った。

「味、変わったりしないんですか。あのあと」

「好きなもの?」

「はい」

「記者さんって、それ、よく聞きますね」

 玲奈は包みを開ける指を止めた。

 沙織は袋を棚へ戻した。

「甘いのは好き。手が動かなくなっても、子供には怒る。そういうので、いいですか」

「すみません」

「謝らなくていいから、来週、原稿を送るっていうの、忘れないで」

 階段の踊り場で、玲奈は飴を口へ入れた。包み紙を畳み、手帳に挟んだ。来週の欄に、森田さんへ、と書き直した。


 ヘリオスの受付には、生花が飾られていた。

 ミナトフーズのロビーにある造花より、ずっと控えめで、ずっと高価に見えた。拓真は、会社の違いをそんなところで測ってしまう自分に気づいた。どちらも、人が安心して入ってくるための飾りにすぎないのに。

 クラインは、玲奈の名前を知っていた。

「ミナトを熱心に調べているそうですね」

 中野の写真を見せても、表情は変わらなかった。

「事業について意見交換することはあります。個別の相手については、お答えできません」

「試験データを買ったんですか」

「質問の前提が分かりません」

 拓真は、机に置いた自分の手を見た。会社で質問をはぐらかされる時と、同じ手になっていた。

「人が亡くなっているかもしれないんです」

「それなら、適切な機関へ情報を届けるべきでしょう」

 正しい言葉だった。

 正しい言葉を口にする人間が、正しいことをしているとは限らない。その区別をつける方法を、拓真はまだ持っていなかった。


 2人が帰ると、クラインは法務担当を呼んだ。

 中野と会った写真が出回っている。公表予定の変更を、契約でどこまで抑えられるか。

 担当者は、公益に関わる情報の公表を完全に禁じられるとは限らない、と言った。

「分かっています。止めろとは言っていません」

 クラインは写真を裏返した。

「違反の可能性を、本人へ通知してください」

「公表を妨げたと見られます」

「通知の表現を考えるのが、あなたの仕事です」

 担当者が出たあと、中野へ電話した。

「早瀬という人が来ました」

 中野は黙っていた。

「娘さんが体調を崩したそうですね」

「どこで聞いた」

 声の変わり方を、クラインは覚えた。

「業界は狭い。だからこそ、情報の扱いには慎重であるべきです」

「そっちから、家族へ連絡したのか」

「していません」

 それは事実だった。中野は、だったらいい、と言いかけた。

「ただし」

 クラインは続けた。

「私たちが公表の準備を整える前に、断片が出れば、あなたの記録まで工作と見られる。誰が困るか、分かりますね」

 通話が切れた。

 クラインは新商品の販売計画を開いた。発売予定の線は、ミナトの決算発表の直後から始まっていた。延期するなら、次の取締役会で説明が要る。

 彼は日付の欄に黄色い印をつけ、営業へ送った。文章は、競合動向を注視、とした。


 中野の居場所は、玲奈が追っていた試験会社の元社員からつながった。

 船橋の倉庫。ヘリオス側の関係会社が借りている物件だった。玲奈は無断で入らないよう念を押し、拓真は通用口の前で中野にメッセージを送った。

 しばらくして、内側から鍵が開いた。

「来ると思ってた」

 中野は痩せていた。剃り残した髭より、目の下のくぼみが目立った。

 拓真は胸ぐらをつかみかけ、手を止めた。

「生きてるなら、返事くらいしろよ」

「返事をしたら、来ただろう」

「来たよ」

 中野は、ほんの少し笑った。

 その笑い方を知っていた。入社したばかりの頃、2人で上司に叱られた帰り、駅の立ち食いそばで中野が見せた顔だった。拓真はその記憶が残っていることに、腹が立った。

 倉庫の奥に机と簡易ベッドがあった。書類は湿気を避けるため、樹脂の箱に入れられていた。

「美波が倒れた」

 中野の手が止まった。

「低血糖だった。42」

「今は」

「退院した。でも、原因はまだ確定してない」

 中野は椅子を引いた。

「見せるものがある」


 中野は電気ケトルをつけた。

 水が沸く音が、倉庫の高い天井へ吸い込まれた。拓真は机の横の簡易ベッドを見た。毛布が畳まれ、枕元に本が1冊あった。表紙は裏返されていた。

「ここに、ずっといるのか」

「ずっとじゃない」

「ホテルは?」

「打ち合わせだけだ」

「家を引き払ったのは、会社の指示か」

 中野は紙コップを出した。

「半分は。休職の手続きと、身辺の整理をしろと言われた。俺も、都合がよかった」

「都合?」

「会社にいるまま、これ以上集めるのは無理だった。持っているものを確保して、外へ出る必要があった」

 拓真は椅子に座った。

「俺に、ひと言もなく?」

「言ったら、お前は止めた」

「止めたかもしれない。でも、聞いた」

 中野は湯を注いだ。

「お前は、聞いてから、上に相談する。そういう人間だ」

 拓真は口を閉じた。

 否定できなかった。実際、自分は田所に報告し、社内窓口へ電話した。会社の中で正しく処理されることを、最後まで期待していた。

「それが、悪いのか」

「悪くない。だから、言えなかった」

 中野は紙コップを渡した。

 中身は湯だった。

「お前まで、俺と同じになってほしくなかった」

「俺のために黙ったのか」

 中野は目を逸らした。

「そう言えば、少しはましに聞こえるだろ」

 拓真は湯を飲まなかった。

 相手のためという言葉を、自分も何度も使った。だが、それを受け取る側に立つと、守られたというより、選ぶ権利を取り上げられた気がした。

「中野。俺が何をするかは、俺に決めさせてくれ」

 中野は長く黙った。

 それから、机の引き出しを開けた。

 写真が1枚入っていた。

 若い女性が、兄に向かって何かを言っている。撮影された瞬間に口を開けたらしく、笑っているのか怒っているのか、写真だけでは分からなかった。

「美咲だ」

 中野は言った。

「これから見せるものに、こいつの名前がある」


 一覧表には、42人の番号と経過が並んでいた。

 重い低血糖の記録がある人が31人。死亡4人。後遺症の記載9人。最終報告の表では、29人が解析対象から除外されていた。脱落の数と、有害事象の数は一致しない。追跡できていた人まで、提出用の集計から外されている。

「29人全員が死んだわけじゃない。でも、29人を外すことで、死んだ4人も見えなくなった」

 中野は画面を動かした。

 B-17。中野美咲。試験参加時26歳。

 拓真は、花の紙を鞄から出した。

「これ、お前の部屋の前に落ちてた」

 中野は紙を受け取った。

「小さい頃の絵だ。引っ越す時、箱から落ちたんだろうな」

「妹さんか」

「ああ」

 美咲が試験に参加すると聞いた時、中野は、うちの会社のものだから大丈夫だと言った。

 電話の向こうで、妹は笑った。

「お兄ちゃんが作ったわけじゃないでしょう」

「作ってはいない。でも、調べてる」

「じゃあ、変なものだったら、止めてね」

 中野は、もちろんと答えた。

 軽い約束だった。

 自分が品質管理部にいることを、妹に少し誇りたかった。妹が自分の勤める会社の商品を試す。それは家族が自分の仕事を信じてくれていることのように思えた。

 美咲は書店で働いていた。

 舞台の照明を学ぶため、夜間の学校へ通おうとしていた。中野は、26歳から新しい仕事を始めることを、少し心配していた。心配という言葉の中には、今の仕事を続ければいいのにという気持ちもあった。

「本屋、嫌なのか」

「嫌じゃない」

「なら、続ければいい」

「嫌じゃない仕事を、ずっとするために、好きなことを諦めるの?」

 中野は返事に困った。

 自分は、仕事が好きかどうかを、長く考えていなかった。会社に入り、担当を覚え、後輩ができ、責任が増えた。嫌ではない。それで十分だと思っていた。

 美咲は、舞台を見る時、役者より上を見てしまうと言った。

 光が変わると、同じ場所が別の場所になる。何も言わなくても、朝になったり、誰かがいなくなったりする。それを作る仕事がしたい。

「裏方だぞ」

「知ってる」

「大変だぞ」

「お兄ちゃん、やったことあるの?」

 中野は笑った。

 なかった。

 妹は、兄が知っていることと、知っているつもりのことを、簡単に分けた。


 最初にふらついたと連絡が来た時、中野は仕事中だった。

 分析装置の点検が長引き、昼食を取っていなかった。妹も食事を抜いたのだろうと思った。

「ちゃんと食べろよ」

「食べてる」

「じゃあ、担当の先生に言え」

「言った」

「何て」

「様子を見ようって」

 中野は、それなら大丈夫だろうと答えた。

 医師が見ている。試験会社が管理している。自分の会社が依頼している。

 安心する理由は、いくつもあった。

 そのどれも、自分が妹の状態を確かめたことにはならなかった。

 週末、妹の部屋へ行く約束をした。

 だが、急な会議が入った。中野は、来週にしようと連絡した。

 美咲は、いいよと返した。

 怒っていないと思った。

 妹は、兄が忙しいことを知っていた。忙しい兄に、自分のための時間を要求しないようにしていたのかもしれない。その可能性を、中野はあとになって何度も考えた。

 来週は、来なかった。


 浴室で倒れたと聞いて病院へ駆けつけた時、美咲はすでに亡くなっていた。

 中野は、試験に参加していることを伝えた。担当者の連絡先も示した。会社へ電話し、製品の資料を求めた。

 対応は速かった。

 速かったことが、彼を安心させた。

 会社は、必要なことをしている。

 その時の中野は、そう思った。

 あとになって記録を見ると、速く送られたのは一般的な製品資料だった。試験中に起きていた症状の一覧は、届いていなかった。

 医師が何を知り、何を知らずに判断したかを、中野はその時、考えなかった。

 照会に応じた会社の担当者は、丁寧に頭を下げた。

 関連は確認されていない。

 中野は、その言葉を信じたかった。

 自分が大丈夫だと言ったものが、妹を傷つけたかもしれない。そう考えることに耐えられなかった。

 会社が悪くないなら、自分も、あの電話で間違ったことを言わなかったことになる。

 会社を信じることは、自分を守ることでもあった。


 葬儀のあと、美咲の部屋を片づけた。

 机の上に、学校の資料があった。照明の機材の写真。授業料の案内。見学会の予約票。

 見学会の日は、妹が死んだ3日後だった。

 中野は学校へ電話した。

 予約を取り消したいと伝えた。理由を聞かれ、本人が亡くなったと答えた。

 相手は驚き、丁寧に悔やみを述べた。

 中野は礼を言って切った。

 妹が行くはずだった場所を、1つずつ消していく。

 死後の手続きは、そういう仕事だった。

 銀行。携帯電話。賃貸契約。会員登録。

 どこでも、本人の名前と、生年月日と、亡くなった日を聞かれた。

 中野は、何度も同じ数字を言った。

 言えるようになることが、嫌だった。


 妹の電話には、送信されなかった文が残っていた。

 お兄ちゃん、やっぱり変かも。

 そのあとに、途中まで打った言葉があった。手が、と書いてあった。

 中野は画面を見た。

 送られていれば、自分は何をしただろう。

 すぐに電話しただろうか。仕事中だからあとでと返しただろうか。担当医に聞けと言っただろうか。

 答えは、いくらでも都合よく作れた。

 だが、実際に妹が送った最初の電話に、自分は、ちゃんと食べろと言った。

 中野は電話を閉じた。

 その文を、誰にも見せなかった。

 妹の苦しみを示すものとして使うには、自分の返事が、あまりに貧しかった。


 妹の死から1年余り経った12月、中野は保存記録の整理を命じられた。

 片づけるだけの仕事だった。期限を過ぎた試験を一覧にし、継続保存の要否を担当部署へ尋ねる。元の文書まで読む必要はない。

 試験の参加者名簿は、別の資料の末尾についていた。

 中野美咲。

 同姓同名だと思おうとした。生年月日を見た。住所も、知っていた。

 終了理由は本人希望だった。

 妹は希望して終わったのか。

 何を。

 中野は、その行を定規で押さえた。隣の席で拓真が電話をしていた。美波の迎えに間に合わないという話だった。いつもと同じ午後に、妹の名前だけが戻ってきた。

 試験会社へ照会すると、依頼元を通してほしいと言われた。依頼元の担当部署へ聞くと、保存資料は整理中だった。

 中野は実家へ電話した。

 母が出た。試験のことを聞くと、電話の向こうで何かが落ちた。母は父を呼んだ。しばらくして、父が話した。

 示談したこと。会社には知らせないよう頼んだこと。お前の仕事をなくしたくなかったこと。

「いつまで、言わないつもりだった」

 父は答えなかった。

 中野は受話器を置いた。報告書の終了理由が、まだ目の前にあった。本人希望。妹の字ではなかった。

 その日から、一覧の作成に時間がかかるようになった。遅いと叱られ、中野は謝った。廃棄を確認する欄は、空けたままにした。


 群Bの一覧を初めて見た時、中野は、怒るより先に数えた。

 妹の行を探し、ほかの行を見た。

 4人。

 自分の妹だけではなかった。

 その事実に、救われたような気持ちが一瞬生まれた。

 自分だけが不運だったのではない。

 そう思った自分を、すぐに憎んだ。

 ほかにも死んだ人がいることを、安心する理由にした。

 中野はその夜、何度も手を洗った。

 手を洗っても、考えたことは消えなかった。


 クラインと会ったのは、それからだった。

 彼は中野の話を最後まで聞いた。会社が何をしたかだけでなく、妹が何をしたかったかも聞いた。

 中野は、照明の学校の話をした。

 初めて、人に話した。

 クラインは、ひどいことだと言った。

 その言葉が、欲しかった。

 資料を評価する前に、妹の死をひどいことだと言ってくれる人が、必要だった。

 だから、次に示された契約書を、冷静に読んでいるつもりで、冷静には読めなかった。

 金額より、公表するという約束を見た。

 会社を追い詰めるという説明を聞いた。

 その先に、妹が少しだけ戻ってくるような気がした。

 戻らないと分かっていた。

 分かっていることと、望まないことは違った。


 中野は花の紙を裏返した。ミサキという字を、親指でなぞった。

 拓真の手帳には、42、31、4、9という数字が並んでいた。

「去年の12月から、集めたのか」

「ああ」

「俺も、隣にいた」

 中野は紙を畳んだ。

「いたな」

「何で、言わなかった」

「さっき言っただろ。お前は上へ相談する」

 拓真は机の脚を見た。錆の出たところに、荷造り用のテープが巻かれていた。

「金のためか」

「金も、だ」

 中野は隠さなかった。

「俺が休職して、何で暮らすと思う。会社の給料か。貯金か。美咲の金には触りたくなかった」

「代わりに、競合からもらうのか」

「そうだ。汚いと思うか」

 拓真は返事をしなかった。

 中野は決算発表の日付を示した。あと半月足らず。クライン側はその日に合わせて公表を準備しているという。

「その間も、売られる」

「今、俺が出したら、持ち出しだ、捏造だで終わる。相手には金がある。国外へ出す経路もある」

「誰が読んだ。原本を。クライン以外に」

 中野は画面を閉じかけた。

「契約で、外部の専門家に」

「名前は」

「俺が信用できると思ったから、渡したんだ」

 拓真は中野を見た。

「美咲さんも、そうだったんだろ」

 中野の椅子が鳴った。

「その名前を使うな」

 拓真は口を閉じた。中野は立ち、簡易ベッドの脇まで行った。

「お前は、まだ娘が生きてるから、そう言える」

 視線は合わなかった。

 ケトルの保温が切れた。何かを言わなければと思うたびに、美咲の名をもう1度使いそうになった。拓真は口を閉じたまま、手帳の数字を指で隠した。


 拓真は一覧の数字を、手帳に書き写した。

 中野は止めなかった。

「原本を、複製させてくれ」

 その頼みには、首を振った。

「それは、できない」

「なぜだ」

「今は、俺が持っていることに意味がある」

「誰にとって」

 中野は答えなかった。

 拓真は、表の別の行を指した。

「この人は、今どうしてる」

 B-09。森田沙織。

「生きてる。退院後の経過は、会社の資料では途中で切れてる」

「神崎さんが、会った人だ」

 中野は顔を上げた。

「何て言ってた」

「自分が悪かったのか、知りたいって」

 中野は画面を見た。

「悪いわけ、ないだろ」

「お前は、そう言える資料を持ってる」

「だから、出すと言ってる」

「時期を売ってるんだろ」

 中野は机を叩いた。

 紙コップが倒れ、湯が机の端へ流れた。2人は反射的に書類を持ち上げた。拓真がタオルを探し、中野が電源コードを遠ざけた。

 数秒間、いつもの同僚に戻った。

 分析室で溶媒をこぼした時も、2人はこうして動いた。何を言わなくても、相手がどちらへ手を伸ばすか分かった。

 机が拭かれると、沈黙が戻った。

「美咲の時、俺は何もできなかった」

 中野は濡れたタオルを握った。

「今なら、できる。あいつらがいちばん困る時に、いちばん困る形で出せる。そう思わなきゃ、毎朝、目を開けられなかった」

 拓真は椅子に座り直した。

「分かるとは、言えない」

「言わなくていい」

「でも、お前が眠れなかったことは、分かった」

 中野は顔を上げなかった。

「俺は、お前の妹を知らない。ちゃんと聞こうとしなかった。そこは、謝る」

「謝るな」

「謝る。でも、待つとは言えない」

 中野はタオルを置いた。

「お前は、ずるいな」

「そうかもしれない」

「自分が悪かったところを認めてから、正しいことを言う。こっちは、怒る場所がなくなる」

 拓真は首を振った。

「怒っていい。俺に怒ってもいいから、資料を出してくれ」

 中野は何か言いかけた。

 その時、倉庫の外で車の音がした。


 外に車が止まった。

 中野は窓の隙間を見て、書類を箱に戻した。

「後をつけられたな」

 拓真は、玲奈とつないでいた電話を握った。彼女の声が、小さく危険を告げていた。

「裏へ出ろ」

「一緒に来い」

「俺には、まだやることがある」

 中野は花の紙を胸ポケットに入れた。

 通用口の向こうに消える直前、振り返った。

「美波ちゃんには、飲ませるな」

 その言葉を、拓真は一生忘れないだろうと思った。

 自分の娘だけに向けられた親切が、倉庫に積まれた何万もの商品をそのままにしている。


 入ってきたのは田所と、会社の警備担当者たちだった。

「ここで何をしている」

「中野を捜していました」

「会ったのか」

 拓真は答えなかった。

 中野が置いていった報告書の表紙を、拓真は手に持っていた。それを取り上げられた。机の上に残った紙だけでは、何も説明できない。中野はそのことを分かって、原本を持って出たのだろう。

「部長は、死亡が4人だと知っていたんですか」

 田所は表紙を折りたたんだ。

「部長にも、お子さんがいますよね」

 田所の手が止まった。

 それから彼は、紙を鞄に入れた。

 その沈黙が、知らなかったという意味なのか、知っていたという意味なのか、拓真には分からなかった。


 帰宅すると、由香が子供部屋から出てきた。

 手には、拓真の手帳があった。

「読んだ」

 拓真は靴を脱ぐことも忘れていた。

「美波は?」

「今、病院に電話してる。冷や汗があって、具合が悪いって言うから」

 由香の手が震えていた。

 テーブルには空のジュースパックがあった。学校の帰り、友達と買ったという。

 家から消せば済む話ではなかった。

 由香は電話の向こうの指示を聞きながら、拓真を見た。

 責める目ではなかった。

 もう、責めている時間さえ惜しいという目だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。