第4章 窓のない部屋
美波の退院が決まった朝、拓真は佐伯に久我の連絡先を渡した。
「仮説の段階だということは、承知しています」
自分の口からその言葉が出るのが、嫌だった。仮説という言葉を、娘から危険を遠ざけるためではなく、自分の発言の責任を軽くするために使っていないか。
佐伯はメモを受け取った。
「では、仮説として確認します。お父さんが結論を出す必要はありません。分かっていることを、全部教えてください」
拓真はようやく、手帳を開いた。
会社の席には、段ボール箱が置かれていた。
私物のマグカップ、予備の眼鏡、机の引き出しに入れていた美波の写真。仕事の道具よりも、自分がここで働いていた証拠のほうが先に箱詰めされていた。
物流センター第3倉庫。在庫管理担当係長。
肩書きも給与も変わらないと田所は言った。
変わらないものを並べれば、変えられたものが見えなくなると思っているのだろうか。
「部長が決めたんですか」
「会社の決定だ」
「部長も、会社です」
田所は辞令から目を上げなかった。
小松が箱の底を支えようとした。拓真は首を振った。手伝われたところを誰かに見られれば、小松にも説明が必要になる。
エレベーターの扉が閉まるまで、誰も名前を呼ばなかった。
倉庫の事務所には窓がなかった。
紙の在庫表と、電卓。ネットワークにつながる端末はない。壁の高い位置に、新しい監視カメラがついていた。
拓真は椅子に座り、レンズを見た。
見るべきものを見られなくされた人間が、見られる側になる。
午後、棚を確認して歩くと、2611の札が並んでいた。包装前の原料ロットを引き継いだ管理番号が、子供向け飲料の出荷指示にも印字されている。ゼロスイート・キッズ。学校向けの納品計画。
異動先は、証拠から遠い場所ではなかった。
証拠が、箱になって積まれている場所だった。
拓真は在庫表に数量を書き写した。数字を書くことだけは、まだ仕事として許されていた。
倉庫で最初に拓真へ話しかけたのは、運送会社の石田だった。
会社の社員ではない。契約している配送会社から毎日来て、入出荷の荷物を確認する。年齢は拓真より少し上に見えたが、名札には名字しかなかった。
「本社から来た人?」
「はい」
「じゃあ、これ、分かる?」
石田が示したのは、返品の荷物だった。
外箱に、回収品と書かれていた。だが伝票の処理区分は、販促資材の戻りになっている。
「中身は、飲料ですか」
「たぶん。試供品の残りだって。開ける権限は、うちにはない」
拓真は伝票を見た。送り元は地方のイベント運営会社。戻り先は本社ではなく、第3倉庫の保管区画だった。
「何か、問題が?」
「区分が違うと、置く場所が違う。飲料なら温度の管理もある。資材扱いでいいのか、誰かに聞いてほしい」
拓真は倉庫主任へ確認した。
主任は本社の指示だから、そのままでいいと言った。
「品質の確認は?」
「返品じゃない。販促の余りだ」
「回収品と書いてあります」
「向こうがそう書いただけだろう」
拓真は石田のところへ戻った。
「そのままでいいそうです」
石田は、そう、と答えた。
それだけだった。
拓真は、自分が本社から来た人間として何をしたのか、急に分からなくなった。聞かれたことを上へ送り、返ってきた言葉をそのまま渡した。品質管理部にいた時、嫌だと思っていたことを、異動した初日に自分がしている。
「待ってください」
石田が顔を上げた。
「保管場所を、記録に残してください。あとで確認できるように」
「いつも残してるよ」
石田は携帯端末を見せた。
「何時に、誰から受けて、どこへ置いたか。なくなったら、俺らの責任になるから」
拓真はうなずいた。
責任を避けるための記録が、責任を確かめるためにも使える。
記録は、書いた人の意図だけで働くわけではなかった。
休憩所で、石田は弁当の蓋を開けた。
拓真は自販機の前で立ち止まった。並んだ飲料の半分以上に、ゼロスイートの印があった。水を買った。
「本社の人って、いつも水なんだな」
「そうですか」
「前に来た人も、水だった」
「中野ですか」
石田は箸を止めた。
「名前は、覚えてない。書類を見に来た人。返品の記録を、やたら聞いてた」
拓真は椅子に座った。
「どんな記録ですか」
「試供品の戻り。地方のイベントから、同じような箱が何回か戻ってきた。飲んだ人から何か言われたのかって、その人は聞いてた」
「何か、言われたんですか」
「俺は運んでるだけだから、知らない」
石田は弁当を食べた。
「知らないって言うと、逃げてるみたいだけど。本当に、俺らには中身の説明が来ないんだ」
拓真は、自分も同じ言い方をしていたことを思い出した。
「分かります」
「分かる?」
石田は笑った。
「本社の人に、そう言われるとは思わなかった」
拓真は水の蓋を開けた。
「僕も、知らないことが多いです」
「じゃあ、ここへ来たのは、知るため?」
拓真は答えを探した。
飛ばされたからだ、と言えば済んだ。だが、それだけでは、ここで何をするかまで会社に決められる。
「そういうことに、したいです」
石田は箸を置いた。
「なら、箱の字だけじゃなくて、伝票のほうも見たほうがいい。箱は、使い回すから」
夕方、拓真は返品区画の棚番号を在庫表に書き込んだ。
箱の数、到着日、処理区分。自分に許された仕事の範囲で、記録を整えた。試供品の戻りは、単なる余りかもしれない。中野が気にしたからといって、異常の証拠にはならない。
だが、あとで何かが分かった時、照合するものは必要だった。
拓真はその日初めて、倉庫で自分ができる仕事を見つけた。
監視カメラのレンズが、机の上を向いていた。
彼は在庫表を隠さなかった。
仕事として書いているものを、仕事として残したかった。
週の終わり、石田から伝票の束を渡された。
1枚だけ、戻り品の数量が合わない。箱は12、伝票は11だった。
「数え直しましたか」
「3回」
拓真も数えた。12あった。うち1箱には、手書きで不良とある。
主任は、その箱だけ別便だから一緒にするなと言った。
「別便の伝票は」
「本社が持ってる」
拓真は受け取った時刻を在庫表へ書いた。主任の印を求めると、面倒な人が来たなと笑われた。拓真も笑った。紙を引っ込めそうになった。
石田は黙って横にいた。
主任は印を押した。数の合わない1箱を、拓真は棚の右端へ移した。
中身を調べる許可はなかった。封も開けなかった。外箱の番号と戻り日だけを、列を分けて書いた。
数日後、本社から11箱分の処理が済んだという連絡が来た。残りは処理不要とある。資材の重複計上によるもの、と説明されていた。
拓真は主任を呼んだ。
「捨てますか」
「本社がそう言うなら」
「廃棄の指示は、ありません」
主任は在庫表を見た。自分の印のある行だった。
「じゃあ、置いとけ」
棚の右端に、1箱が残った。拓真は帰る前に、そこだけもう1度見た。中に何があるかは、まだ分からなかった。
その夜、拓真は家の戸棚からゼロスイートを取り出した。
由香は夕食の皿を洗っていた。水を止め、袋に入れられていく瓶を見た。
「勝手に捨てないで」
「美波が倒れた原因かもしれない」
「かもしれない、ばかりじゃない」
拓真は袋を床に置いた。
「試験で亡くなった人がいる」
由香の顔が変わった。
「それは、これのせいなの?」
「会社が、関係を隠している可能性がある」
「可能性じゃなくて、あなたはどう思ってるの」
拓真は答えを選ぼうとした。仕事ではいつも、確かめられた範囲で言うことを求められた。その習慣が、今は妻に対してだけ都合のいい沈黙になっていた。
「危ないと思ってる」
「じゃあ、そう言ってよ」
由香は椅子を引いた。
「今日、会社の人から電話があった。あなたが疲れているから、家族で支えてくださいって。私、何て答えたと思う?」
拓真は黙っていた。
「ご心配ありがとうございます、って言ったの」
由香の声がかすれた。
「夫のことを、夫の会社から教わったの。倉庫に異動になったことも」
美波が隣の部屋でテレビの音を上げた。
2人は同時に口を閉じた。その一致だけが、まだ夫婦だった。
「美波には使わせない。私も、いったんやめる」
由香は瓶を袋から1本取り出した。
「これは、捨てない。先生が、残してって言ったでしょう」
拓真はうなずいた。
自分は危険を消したつもりで、調べるためのものまで捨てようとしていた。
翌日の昼、由香はスーパーの休憩室で、同僚の話を聞いていた。
ゼロスイートを使い始めてから、子供がジュースを欲しがっても怒らなくなったという。自分の食事のことも気にしなくて済む。値段は高いが、安心を買っていると思えば安い。
由香は弁当の蓋を閉めた。
「少し、使うのを休んでみたら」
同僚は顔を上げた。
「どうして?」
「何となく。新しいものだから」
「でも、由香さんが勧めたんじゃない」
その通りだった。
発売したばかりの頃、由香は社員向けの案内を持ってきた。割引で買えると話し、味も変わらないと言った。夫が品質を調べる仕事をしていることも、少し誇らしく説明した。
「ご主人、何か言ってるの?」
由香は首を振りかけた。
嘘をつくのは簡単だった。まだ分からないことだから、話さなくていい。夫がしてきたことと同じだった。
「気になることがあるって。でも、まだ調べてる」
同僚は箸を置いた。
「それ、言っていい話?」
「分からない」
「じゃあ、あまり言わないほうがいいんじゃない。ご主人、困るでしょう」
由香は弁当箱を鞄に入れた。
心配してくれているのだと分かった。だから、腹を立てる相手がいなかった。
午後、売り場でゼロスイートの瓶を補充した。
仕事だった。担当の棚に商品を並べる。前の商品を手前へ出し、値札を直す。手は慣れた通りに動いた。
小さな子供を連れた客が、瓶を手に取った。
「これ、甘さは同じですか」
由香は、はい、と言いかけた。
「私は、使っていました」
「おいしい?」
「味は、甘いです」
客は笑った。
「そうよね、甘味料だもの」
瓶が買い物かごに入った。
由香は、呼び止められなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。商品を売る店の従業員が、根拠を示さず買わないほうがいいと言えば、店にも迷惑がかかる。夫の会社にも、自分の仕事にも。
帰宅してから、由香は手を洗った。
何度洗っても、瓶の冷たさが残っている気がした。
夫だけを責めれば済む場所に、自分はいなかった。
玲奈の記事は、編集長の西岡に止められた。
机の上に置かれた原稿の1枚目だけ、角が折れていた。西岡はそこを指で伸ばした。
「1行目。死亡と製品の関係を、どこまで言える」
「試験に参加していたことは確認しています」
「質問に答えてくれ」
玲奈は原稿を引き寄せた。見出しの下に、奪われた命、とあった。自分で書いた文字だった。
「直します」
「直せば載るとは言っていない」
西岡は後ろの棚から、前号の請求書を出した。広告代理店の名前。ミナトの名前は、そこにはなかった。
「直接の広告を切られるだけじゃない。来月の枠を、代理店ごと移される可能性がある」
「それを私に聞かせて、どうしろと」
「考えてほしい」
「会社も、同じ言い方をします」
西岡が顔を上げた。
言い過ぎたとは思わなかった。だが、その顔を見て、彼がこれまで取ってきた責任まで今のひと言で捨てた気がした。
「掲載の条件を、書いてください。原本、再検証、反論。何を揃えれば、会議にかけますか」
西岡は返事をせず、赤ペンを取った。彼が挙げた項目を、玲奈は手帳へ写した。
最後に、訴訟対応の費用、と書かれた。
その項目だけは、取材で手に入らなかった。
帰宅した玲奈の郵便受けには、母の写真が入っていた。
施設の庭で、車椅子に座っている。玲奈が先週持っていった膝掛けを使っていた。写真を裏返しても、何も書かれていなかった。
施設へ電話した。母は変わりないという。玲奈は面会の確認を厳しくしてほしいと頼んだ。
「何かありましたか」
「いえ」
その返事を聞いたあと、職員の声が少し柔らかくなった。
玲奈は慌てて言い直した。
「あります。写真が届きました。私が怖いだけなのかもしれません。でも、記録しておいてください」
膝掛けの端がめくれ、母の靴が片方だけ写っていた。その靴を選んだのも玲奈だった。
小松は、その週の面談で異動希望を聞かれた。
田所ではなく、人事の担当者が来た。品質管理部の体制を見直している。若い社員には幅広い経験を積んでもらいたい。地方工場の生産管理はどうか。
小松は、希望していませんと答えた。
「将来のためだよ」
担当者は笑った。
小松はその笑顔を見ながら、自分が何をしたことになっているのか考えた。早瀬に話しかけた。中野の席を気にした。会議で、元データは残っていますかと聞いた。
どれも、仕事の話だった。
「僕の業務に、問題がありましたか」
「そういう話ではない」
「では、今の部署で続けたいです」
担当者は資料を閉じた。
「よく考えておいて」
面談のあと、小松は母へ電話した。
母は地方で小さな店を手伝っていた。息子が大きな会社へ入ったことを、親戚に何度も話した。電話に出ると、忙しいの、と聞いた。
「少し」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
異動の話をしようとして、やめた。
母はきっと、会社の言うことを聞いておけば安心だと言うだろう。それは、母が自分の人生で身につけた知恵だった。大きな組織に守られることを、望んでいた。
「何かあった?」
母が聞いた。
小松は驚いた。
「どうして」
「用事がないのに電話する時は、何かあるでしょう」
小松は、少しだけ笑った。
「仕事で、迷ってる」
「辞めたいの?」
「辞めたくない」
「じゃあ、辞めなくて済むように考えなさい」
小松はうなずいた。
母は続けた。
「でも、辞めたくないからって、何でもしていいわけじゃないよ」
電話の向こうで、店の戸が開く音がした。
母は、またねと言って切った。
小松はしばらく電話を見ていた。
母が何を言うか、自分は勝手に決めていた。
早瀬が妻に話さなかった理由も、同じようなことだったのかもしれない。
プリンターの履歴を見つけたのは、その日の夜だった。
印刷不具合の問い合わせを受け、保留ジョブを確認した。中野の名前が残っていた。ファイルの中身は取得できなかったが、ジョブ名と送信時刻は表示された。
小松は、まず管理担当者に履歴の保存を依頼した。
「何のため?」
「端末初期化のあと、印刷データの扱いを確認したいので」
嘘ではなかった。
だが、全部ではなかった。
履歴を出力し、私物のUSBにファイル名だけを書いた。データそのものではない。それでも、早瀬に渡せば、会社の外へ情報を出すことになる。
小松はUSBを机に置いた。
画面の隅で、社内研修の受講通知が点滅した。
情報管理と、誠実な行動。
2つの項目が同じ研修に並んでいた。
どちらを守れば、どちらかを破ることになるのか。
小松は受講通知を閉じた。
答えが書いてあるとは思えなかった。
小松が倉庫へ来たのは、棚卸し応援の名目だった。
監視カメラの下で、彼は在庫表の束を渡した。間に、USBメモリが挟まっていた。
「中野さんの端末は初期化されました。でも、共有プリンターのジョブ履歴が残っていました。中身じゃなく、ファイル名だけです」
ZS7_B群_最終報告_原本。
ヘリオス_提示条件。
拓真は文字を読んだ。
「競合のヘリオスか」
「はい」
「なぜ中野が」
「分かりません」
小松は、分からないと口にすることを恐れていなかった。拓真はその声に救われた。
「これ以上、関わらないほうがいい」
「早瀬さんは、どうして関わってるんですか」
小松はすぐに、すみませんと言った。
拓真は首を振った。
「娘がいるから、だけじゃない。そう言いたい。でも、今はまだ、うまく言えない」
「僕には、子供はいません」
小松は在庫表を整えた。
「いないと、気にしちゃいけない話じゃないですよね」
拓真は返す言葉を失った。
喫茶店で、玲奈は母の写真を見せた。
拓真は自分の病室の写真を出した。
2枚を並べると、どちらも、ただの日常の写真に見えた。庭にいる人。窓の向こうにいる人。写真だけを見れば、脅しだと断定する言葉はない。
「警察には?」
「相談しました。記録は残してもらいました。施設にも伝えています」
玲奈は電話をしまった。
「今すぐ何かが変わるわけではありません。でも、何もしていないことにはしない」
拓真はうなずいた。
自分は写真を受け取ってから、会社へ行き、家へ帰り、怖いと思いながら何も届けていなかった。誰かに話せば、娘の病状まで説明しなくてはいけない。それが嫌だった。
「僕も、相談します」
「1人で抱えないでください」
玲奈はそう言ってから、少し口を閉じた。
自分にも同じ言葉を向けられることを、恐れているようだった。
「神崎さん」
「はい」
「あなたも、話せるところは話してください。僕には全部話せと言わなくていい。でも、何か隠しているなら、隠していることだけは言ってほしい」
玲奈はカップの取っ手を握った。
「家族に、関係することがあります」
拓真は待った。
「今は、それ以上言えません」
「分かりました」
彼は答えた。
分かったのは、事情ではない。
相手がまだ話せない場所にいるということだった。
それを尊重することと、いつまでも聞かないことは違う。拓真は、その境目を探しながら、冷めたコーヒーを飲んだ。
玲奈と会った喫茶店を出ると、画像が届いた。
ホテルのラウンジで、中野が男と向かい合っている。撮影日は昨日。男はヘリオス日本法人代表、アレックス・クラインだった。
彼は生きている。だが、あなたの味方ではない。
玲奈が画面をのぞき込んだ。
「誰からですか」
「分からない」
拓真は、中野の顔を拡大した。
笑ってはいなかった。
それだけで安心しようとする自分が、情けなかった。




