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ゼロ・カロリー  作者: ぽむぽむ


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4/10

第4章 窓のない部屋

美波の退院が決まった朝、拓真は佐伯に久我の連絡先を渡した。

「仮説の段階だということは、承知しています」

 自分の口からその言葉が出るのが、嫌だった。仮説という言葉を、娘から危険を遠ざけるためではなく、自分の発言の責任を軽くするために使っていないか。

 佐伯はメモを受け取った。

「では、仮説として確認します。お父さんが結論を出す必要はありません。分かっていることを、全部教えてください」

 拓真はようやく、手帳を開いた。


 会社の席には、段ボール箱が置かれていた。

 私物のマグカップ、予備の眼鏡、机の引き出しに入れていた美波の写真。仕事の道具よりも、自分がここで働いていた証拠のほうが先に箱詰めされていた。

 物流センター第3倉庫。在庫管理担当係長。

 肩書きも給与も変わらないと田所は言った。

 変わらないものを並べれば、変えられたものが見えなくなると思っているのだろうか。

「部長が決めたんですか」

「会社の決定だ」

「部長も、会社です」

 田所は辞令から目を上げなかった。

 小松が箱の底を支えようとした。拓真は首を振った。手伝われたところを誰かに見られれば、小松にも説明が必要になる。

 エレベーターの扉が閉まるまで、誰も名前を呼ばなかった。


 倉庫の事務所には窓がなかった。

 紙の在庫表と、電卓。ネットワークにつながる端末はない。壁の高い位置に、新しい監視カメラがついていた。

 拓真は椅子に座り、レンズを見た。

 見るべきものを見られなくされた人間が、見られる側になる。

 午後、棚を確認して歩くと、2611の札が並んでいた。包装前の原料ロットを引き継いだ管理番号が、子供向け飲料の出荷指示にも印字されている。ゼロスイート・キッズ。学校向けの納品計画。

 異動先は、証拠から遠い場所ではなかった。

 証拠が、箱になって積まれている場所だった。

 拓真は在庫表に数量を書き写した。数字を書くことだけは、まだ仕事として許されていた。


 倉庫で最初に拓真へ話しかけたのは、運送会社の石田だった。

 会社の社員ではない。契約している配送会社から毎日来て、入出荷の荷物を確認する。年齢は拓真より少し上に見えたが、名札には名字しかなかった。

「本社から来た人?」

「はい」

「じゃあ、これ、分かる?」

 石田が示したのは、返品の荷物だった。

 外箱に、回収品と書かれていた。だが伝票の処理区分は、販促資材の戻りになっている。

「中身は、飲料ですか」

「たぶん。試供品の残りだって。開ける権限は、うちにはない」

 拓真は伝票を見た。送り元は地方のイベント運営会社。戻り先は本社ではなく、第3倉庫の保管区画だった。

「何か、問題が?」

「区分が違うと、置く場所が違う。飲料なら温度の管理もある。資材扱いでいいのか、誰かに聞いてほしい」

 拓真は倉庫主任へ確認した。

 主任は本社の指示だから、そのままでいいと言った。

「品質の確認は?」

「返品じゃない。販促の余りだ」

「回収品と書いてあります」

「向こうがそう書いただけだろう」

 拓真は石田のところへ戻った。

「そのままでいいそうです」

 石田は、そう、と答えた。

 それだけだった。

 拓真は、自分が本社から来た人間として何をしたのか、急に分からなくなった。聞かれたことを上へ送り、返ってきた言葉をそのまま渡した。品質管理部にいた時、嫌だと思っていたことを、異動した初日に自分がしている。

「待ってください」

 石田が顔を上げた。

「保管場所を、記録に残してください。あとで確認できるように」

「いつも残してるよ」

 石田は携帯端末を見せた。

「何時に、誰から受けて、どこへ置いたか。なくなったら、俺らの責任になるから」

 拓真はうなずいた。

 責任を避けるための記録が、責任を確かめるためにも使える。

 記録は、書いた人の意図だけで働くわけではなかった。


 休憩所で、石田は弁当の蓋を開けた。

 拓真は自販機の前で立ち止まった。並んだ飲料の半分以上に、ゼロスイートの印があった。水を買った。

「本社の人って、いつも水なんだな」

「そうですか」

「前に来た人も、水だった」

「中野ですか」

 石田は箸を止めた。

「名前は、覚えてない。書類を見に来た人。返品の記録を、やたら聞いてた」

 拓真は椅子に座った。

「どんな記録ですか」

「試供品の戻り。地方のイベントから、同じような箱が何回か戻ってきた。飲んだ人から何か言われたのかって、その人は聞いてた」

「何か、言われたんですか」

「俺は運んでるだけだから、知らない」

 石田は弁当を食べた。

「知らないって言うと、逃げてるみたいだけど。本当に、俺らには中身の説明が来ないんだ」

 拓真は、自分も同じ言い方をしていたことを思い出した。

「分かります」

「分かる?」

 石田は笑った。

「本社の人に、そう言われるとは思わなかった」

 拓真は水の蓋を開けた。

「僕も、知らないことが多いです」

「じゃあ、ここへ来たのは、知るため?」

 拓真は答えを探した。

 飛ばされたからだ、と言えば済んだ。だが、それだけでは、ここで何をするかまで会社に決められる。

「そういうことに、したいです」

 石田は箸を置いた。

「なら、箱の字だけじゃなくて、伝票のほうも見たほうがいい。箱は、使い回すから」


 夕方、拓真は返品区画の棚番号を在庫表に書き込んだ。

 箱の数、到着日、処理区分。自分に許された仕事の範囲で、記録を整えた。試供品の戻りは、単なる余りかもしれない。中野が気にしたからといって、異常の証拠にはならない。

 だが、あとで何かが分かった時、照合するものは必要だった。

 拓真はその日初めて、倉庫で自分ができる仕事を見つけた。

 監視カメラのレンズが、机の上を向いていた。

 彼は在庫表を隠さなかった。

 仕事として書いているものを、仕事として残したかった。


 週の終わり、石田から伝票の束を渡された。

 1枚だけ、戻り品の数量が合わない。箱は12、伝票は11だった。

「数え直しましたか」

「3回」

 拓真も数えた。12あった。うち1箱には、手書きで不良とある。

 主任は、その箱だけ別便だから一緒にするなと言った。

「別便の伝票は」

「本社が持ってる」

 拓真は受け取った時刻を在庫表へ書いた。主任の印を求めると、面倒な人が来たなと笑われた。拓真も笑った。紙を引っ込めそうになった。

 石田は黙って横にいた。

 主任は印を押した。数の合わない1箱を、拓真は棚の右端へ移した。

 中身を調べる許可はなかった。封も開けなかった。外箱の番号と戻り日だけを、列を分けて書いた。

 数日後、本社から11箱分の処理が済んだという連絡が来た。残りは処理不要とある。資材の重複計上によるもの、と説明されていた。

 拓真は主任を呼んだ。

「捨てますか」

「本社がそう言うなら」

「廃棄の指示は、ありません」

 主任は在庫表を見た。自分の印のある行だった。

「じゃあ、置いとけ」

 棚の右端に、1箱が残った。拓真は帰る前に、そこだけもう1度見た。中に何があるかは、まだ分からなかった。


 その夜、拓真は家の戸棚からゼロスイートを取り出した。

 由香は夕食の皿を洗っていた。水を止め、袋に入れられていく瓶を見た。

「勝手に捨てないで」

「美波が倒れた原因かもしれない」

「かもしれない、ばかりじゃない」

 拓真は袋を床に置いた。

「試験で亡くなった人がいる」

 由香の顔が変わった。

「それは、これのせいなの?」

「会社が、関係を隠している可能性がある」

「可能性じゃなくて、あなたはどう思ってるの」

 拓真は答えを選ぼうとした。仕事ではいつも、確かめられた範囲で言うことを求められた。その習慣が、今は妻に対してだけ都合のいい沈黙になっていた。

「危ないと思ってる」

「じゃあ、そう言ってよ」

 由香は椅子を引いた。

「今日、会社の人から電話があった。あなたが疲れているから、家族で支えてくださいって。私、何て答えたと思う?」

 拓真は黙っていた。

「ご心配ありがとうございます、って言ったの」

 由香の声がかすれた。

「夫のことを、夫の会社から教わったの。倉庫に異動になったことも」

 美波が隣の部屋でテレビの音を上げた。

 2人は同時に口を閉じた。その一致だけが、まだ夫婦だった。

「美波には使わせない。私も、いったんやめる」

 由香は瓶を袋から1本取り出した。

「これは、捨てない。先生が、残してって言ったでしょう」

 拓真はうなずいた。

 自分は危険を消したつもりで、調べるためのものまで捨てようとしていた。


 翌日の昼、由香はスーパーの休憩室で、同僚の話を聞いていた。

 ゼロスイートを使い始めてから、子供がジュースを欲しがっても怒らなくなったという。自分の食事のことも気にしなくて済む。値段は高いが、安心を買っていると思えば安い。

 由香は弁当の蓋を閉めた。

「少し、使うのを休んでみたら」

 同僚は顔を上げた。

「どうして?」

「何となく。新しいものだから」

「でも、由香さんが勧めたんじゃない」

 その通りだった。

 発売したばかりの頃、由香は社員向けの案内を持ってきた。割引で買えると話し、味も変わらないと言った。夫が品質を調べる仕事をしていることも、少し誇らしく説明した。

「ご主人、何か言ってるの?」

 由香は首を振りかけた。

 嘘をつくのは簡単だった。まだ分からないことだから、話さなくていい。夫がしてきたことと同じだった。

「気になることがあるって。でも、まだ調べてる」

 同僚は箸を置いた。

「それ、言っていい話?」

「分からない」

「じゃあ、あまり言わないほうがいいんじゃない。ご主人、困るでしょう」

 由香は弁当箱を鞄に入れた。

 心配してくれているのだと分かった。だから、腹を立てる相手がいなかった。

 午後、売り場でゼロスイートの瓶を補充した。

 仕事だった。担当の棚に商品を並べる。前の商品を手前へ出し、値札を直す。手は慣れた通りに動いた。

 小さな子供を連れた客が、瓶を手に取った。

「これ、甘さは同じですか」

 由香は、はい、と言いかけた。

「私は、使っていました」

「おいしい?」

「味は、甘いです」

 客は笑った。

「そうよね、甘味料だもの」

 瓶が買い物かごに入った。

 由香は、呼び止められなかった。

 何を言えばいいのか分からなかった。商品を売る店の従業員が、根拠を示さず買わないほうがいいと言えば、店にも迷惑がかかる。夫の会社にも、自分の仕事にも。

 帰宅してから、由香は手を洗った。

 何度洗っても、瓶の冷たさが残っている気がした。

 夫だけを責めれば済む場所に、自分はいなかった。


 玲奈の記事は、編集長の西岡に止められた。

 机の上に置かれた原稿の1枚目だけ、角が折れていた。西岡はそこを指で伸ばした。

「1行目。死亡と製品の関係を、どこまで言える」

「試験に参加していたことは確認しています」

「質問に答えてくれ」

 玲奈は原稿を引き寄せた。見出しの下に、奪われた命、とあった。自分で書いた文字だった。

「直します」

「直せば載るとは言っていない」

 西岡は後ろの棚から、前号の請求書を出した。広告代理店の名前。ミナトの名前は、そこにはなかった。

「直接の広告を切られるだけじゃない。来月の枠を、代理店ごと移される可能性がある」

「それを私に聞かせて、どうしろと」

「考えてほしい」

「会社も、同じ言い方をします」

 西岡が顔を上げた。

 言い過ぎたとは思わなかった。だが、その顔を見て、彼がこれまで取ってきた責任まで今のひと言で捨てた気がした。

「掲載の条件を、書いてください。原本、再検証、反論。何を揃えれば、会議にかけますか」

 西岡は返事をせず、赤ペンを取った。彼が挙げた項目を、玲奈は手帳へ写した。

 最後に、訴訟対応の費用、と書かれた。

 その項目だけは、取材で手に入らなかった。


 帰宅した玲奈の郵便受けには、母の写真が入っていた。

 施設の庭で、車椅子に座っている。玲奈が先週持っていった膝掛けを使っていた。写真を裏返しても、何も書かれていなかった。

 施設へ電話した。母は変わりないという。玲奈は面会の確認を厳しくしてほしいと頼んだ。

「何かありましたか」

「いえ」

 その返事を聞いたあと、職員の声が少し柔らかくなった。

 玲奈は慌てて言い直した。

「あります。写真が届きました。私が怖いだけなのかもしれません。でも、記録しておいてください」

 膝掛けの端がめくれ、母の靴が片方だけ写っていた。その靴を選んだのも玲奈だった。


 小松は、その週の面談で異動希望を聞かれた。

 田所ではなく、人事の担当者が来た。品質管理部の体制を見直している。若い社員には幅広い経験を積んでもらいたい。地方工場の生産管理はどうか。

 小松は、希望していませんと答えた。

「将来のためだよ」

 担当者は笑った。

 小松はその笑顔を見ながら、自分が何をしたことになっているのか考えた。早瀬に話しかけた。中野の席を気にした。会議で、元データは残っていますかと聞いた。

 どれも、仕事の話だった。

「僕の業務に、問題がありましたか」

「そういう話ではない」

「では、今の部署で続けたいです」

 担当者は資料を閉じた。

「よく考えておいて」

 面談のあと、小松は母へ電話した。

 母は地方で小さな店を手伝っていた。息子が大きな会社へ入ったことを、親戚に何度も話した。電話に出ると、忙しいの、と聞いた。

「少し」

「ちゃんと食べてる?」

「食べてる」

 異動の話をしようとして、やめた。

 母はきっと、会社の言うことを聞いておけば安心だと言うだろう。それは、母が自分の人生で身につけた知恵だった。大きな組織に守られることを、望んでいた。

「何かあった?」

 母が聞いた。

 小松は驚いた。

「どうして」

「用事がないのに電話する時は、何かあるでしょう」

 小松は、少しだけ笑った。

「仕事で、迷ってる」

「辞めたいの?」

「辞めたくない」

「じゃあ、辞めなくて済むように考えなさい」

 小松はうなずいた。

 母は続けた。

「でも、辞めたくないからって、何でもしていいわけじゃないよ」

 電話の向こうで、店の戸が開く音がした。

 母は、またねと言って切った。

 小松はしばらく電話を見ていた。

 母が何を言うか、自分は勝手に決めていた。

 早瀬が妻に話さなかった理由も、同じようなことだったのかもしれない。


 プリンターの履歴を見つけたのは、その日の夜だった。

 印刷不具合の問い合わせを受け、保留ジョブを確認した。中野の名前が残っていた。ファイルの中身は取得できなかったが、ジョブ名と送信時刻は表示された。

 小松は、まず管理担当者に履歴の保存を依頼した。

「何のため?」

「端末初期化のあと、印刷データの扱いを確認したいので」

 嘘ではなかった。

 だが、全部ではなかった。

 履歴を出力し、私物のUSBにファイル名だけを書いた。データそのものではない。それでも、早瀬に渡せば、会社の外へ情報を出すことになる。

 小松はUSBを机に置いた。

 画面の隅で、社内研修の受講通知が点滅した。

 情報管理と、誠実な行動。

 2つの項目が同じ研修に並んでいた。

 どちらを守れば、どちらかを破ることになるのか。

 小松は受講通知を閉じた。

 答えが書いてあるとは思えなかった。


 小松が倉庫へ来たのは、棚卸し応援の名目だった。

 監視カメラの下で、彼は在庫表の束を渡した。間に、USBメモリが挟まっていた。

「中野さんの端末は初期化されました。でも、共有プリンターのジョブ履歴が残っていました。中身じゃなく、ファイル名だけです」

 ZS7_B群_最終報告_原本。

 ヘリオス_提示条件。

 拓真は文字を読んだ。

「競合のヘリオスか」

「はい」

「なぜ中野が」

「分かりません」

 小松は、分からないと口にすることを恐れていなかった。拓真はその声に救われた。

「これ以上、関わらないほうがいい」

「早瀬さんは、どうして関わってるんですか」

 小松はすぐに、すみませんと言った。

 拓真は首を振った。

「娘がいるから、だけじゃない。そう言いたい。でも、今はまだ、うまく言えない」

「僕には、子供はいません」

 小松は在庫表を整えた。

「いないと、気にしちゃいけない話じゃないですよね」

 拓真は返す言葉を失った。


 喫茶店で、玲奈は母の写真を見せた。

 拓真は自分の病室の写真を出した。

 2枚を並べると、どちらも、ただの日常の写真に見えた。庭にいる人。窓の向こうにいる人。写真だけを見れば、脅しだと断定する言葉はない。

「警察には?」

「相談しました。記録は残してもらいました。施設にも伝えています」

 玲奈は電話をしまった。

「今すぐ何かが変わるわけではありません。でも、何もしていないことにはしない」

 拓真はうなずいた。

 自分は写真を受け取ってから、会社へ行き、家へ帰り、怖いと思いながら何も届けていなかった。誰かに話せば、娘の病状まで説明しなくてはいけない。それが嫌だった。

「僕も、相談します」

「1人で抱えないでください」

 玲奈はそう言ってから、少し口を閉じた。

 自分にも同じ言葉を向けられることを、恐れているようだった。

「神崎さん」

「はい」

「あなたも、話せるところは話してください。僕には全部話せと言わなくていい。でも、何か隠しているなら、隠していることだけは言ってほしい」

 玲奈はカップの取っ手を握った。

「家族に、関係することがあります」

 拓真は待った。

「今は、それ以上言えません」

「分かりました」

 彼は答えた。

 分かったのは、事情ではない。

 相手がまだ話せない場所にいるということだった。

 それを尊重することと、いつまでも聞かないことは違う。拓真は、その境目を探しながら、冷めたコーヒーを飲んだ。


 玲奈と会った喫茶店を出ると、画像が届いた。

 ホテルのラウンジで、中野が男と向かい合っている。撮影日は昨日。男はヘリオス日本法人代表、アレックス・クラインだった。

 彼は生きている。だが、あなたの味方ではない。

 玲奈が画面をのぞき込んだ。

「誰からですか」

「分からない」

 拓真は、中野の顔を拡大した。

 笑ってはいなかった。

 それだけで安心しようとする自分が、情けなかった。



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