第3章 名前のない成分
土曜の体育館は、子供の靴と、保護者のスリッパの音で満ちていた。
拓真は開演の12分前に着いた。由香が後ろの席で手を上げた。隣に置いた鞄をどかし、彼が座ると、来られたのねと言った。
「約束したから」
由香は、そうね、と答えた。
舞台の幕が開いた。紙で作った木が並び、動物の帽子をかぶった子供たちが出てきた。美波は右端に立っていた。茶色い服に、緑の葉をつけた帽子。遠くから見ると、ほかの木と区別がつかなかったが、拓真には娘の立ち方が分かった。
少しだけ左足に体重をかける。退屈すると指を動かす。せりふが近づくと、顎を引く。
ここは、みんなの森です。
娘の声が体育館を渡った。
拓真は電話を出さなかった。撮影は由香に任せ、自分の目で見ようと思った。
美波は次の場面で、倒れた木を起こす役だった。ほかの子と一緒に紙の幹を支え、ゆっくり持ち上げた。その時、帽子がずれた。彼女は片手で直し、何事もなかったように続けた。
拓真は笑った。
娘が、失敗を自分で直している。
その小さなことが、妙にうれしかった。
終演後、教室へ戻る途中で、美波は父を見つけた。
「見た?」
「見た。帽子、落ちなかったな」
「そこじゃなくて」
「せりふも、聞こえた」
美波は満足そうにうなずいた。
由香が、写真を撮ろうと言った。3人で廊下の窓の前に立った。近くにいた保護者が電話を受け取り、少し寄ってくださいと言った。
拓真は美波の肩に手を置いた。
その肩が、思っていたより細かった。
帰り道、学校の掲示板にゼロスイート・キッズの案内があった。
食育支援プログラム。協賛企業の名前。試飲の予定。
由香が気づいて、あなたの会社ねと言った。
拓真は足を止めた。
美波は、みんな知ってるよと答えた。
「給食の先生が、砂糖のことを勉強するんだって」
掲示の隅に、小さく問い合わせ先が書いてあった。栄養教諭、新井紗季。
拓真は名前を覚えた。
この時点では、何を言えばいいのか分からなかった。商品に問題があると断言できる資料はない。学校へ伝えれば、会社に連絡が行くだろう。娘が会社の社員の子だと、先生は知っている。
「どうしたの」
由香が聞いた。
「いや、仕事のことを思い出した」
「今日は、やめて」
拓真はうなずいた。
由香の言葉は、家族の時間を守るためのものだった。
拓真はそれを、話さない理由に使った。
午後、美波は疲れたと言って昼寝をした。
由香が洗濯物を畳む横で、拓真は玲奈に連絡した。久我恭子に会いたい、と書いた。返事はすぐに来た。週明け、大学で会えるという。
電話を伏せると、由香が彼を見ていた。
「会社?」
拓真は少し間を置いた。
「仕事に、関係する人」
「そう」
由香は美波のシャツを畳んだ。
「今日、来てくれてよかった」
拓真は返事をした。
その言葉が、これから自分が何を失うかの予告に聞こえた。
久我恭子の研究室には、会社の分析室のような均一な清潔さがなかった。
洗って伏せたガラス器具の隣に、学生のレポートが積まれている。窓際の鉢は水が足りず、葉の先が茶色くなっていた。拓真はその雑然とした部屋に、会社で見つけられなかった人間の暮らしを感じた。
「ミナトの人が、私に何を聞くの」
久我は名刺を見なかった。
元開発研究員。現在は大学の非常勤講師。会社の人事記録では、研究資料の不正持ち出しによる解雇となっていた。
「持ち出しではなく、相談でした」
久我は拓真の言葉を訂正した。
「でも、誰に相談するかを会社が決めるなら、会社の外へ助けを求めた時点で持ち出しになる」
玲奈が群Bの断片を見せると、久我は椅子に座った。
久我が初めてゼロスイートの試作品を口にした時、甘さより、後味の短さに驚いた。
砂糖に近い、という説明では足りなかった。口の中に残る重さが少なく、飲料にした時、香りを邪魔しにくい。研究者たちは小さな紙コップを持ち、互いの顔を見た。
成功したかもしれない。
誰も、すぐには言わなかった。
言えば、期待が形になってしまう。まだ、確かめることは多かった。
久我は実験ノートに、官能上の評価は良好、と書いた。
うれしい、とは書かなかった。
研究ノートに感情を書く必要はないと思っていた。
その日の帰り、母に電話した。
「少し、進んだ」
母は、よかったねと言った。
「まだ、先は長いけど」
「それでも、今日はよかったんでしょう」
久我は駅のホームで笑った。
「うん」
その返事は、ノートには残らなかった。
久我の記憶は、開発中の実験室へ戻った。異常の最初の兆候は、再現しにくいものだった。
同じ条件のはずなのに、試料によって小さな違いが出る。久我は測定の誤差を疑い、器具を洗い、試料を作り直した。違いは消える時もあれば、残る時もあった。
後輩は、これ以上追う必要があるかと聞いた。
久我は、分からないと答えた。
分からないから追うのか。分からないままでは、いつまでも終わらないのか。
研究には、両方の問いがあった。
彼女は、条件を1つずつ変えた。
特定の腸内細菌との関係を疑い始めた時、社内では量産化の検討が進んでいた。会議の資料には、コストと供給量の数字が増えた。久我の実験は、追加確認という小さな項目になった。
追加。
最初から必要だったことが、途中で見つかると、余分なことのように呼ばれる。
久我はその呼び方を、訂正しなかった。
訂正するより、実験を進めたほうがよいと思った。
言葉を譲っても、データが出れば伝わる。
そう考えていた。
結果が揃い始めると、今度は、対象が限定的だと言われた。
全体の傾向ではない。特定の条件でだけ起きる。実際の摂取環境と同じとは言えない。
どれも、検討すべき指摘だった。
久我は反論ではなく、追加の実験計画を出した。
費用がかかった。時間もかかった。
会議で、発売に間に合うのかと聞かれた。
久我は、間に合わせるための試験ではありませんと答えた。
部屋の空気が変わった。
誰かが、言い方の問題だと言った。
久我は、その場で謝った。
謝ったのは言い方だった。
だが議事録には、説明を修正、とだけ残った。
何を修正したかが、消えた。
常盤はその頃、まだ彼女の話を聞いていた。
2人で遅くまで資料を見た夜がある。常盤は、発売を急ぐ気持ちは分かるが、ここは確かめようと言った。
久我は、その言葉を信じた。
だが、次の会議で常盤は、追加検討は継続しつつ、現時点で重大な問題は確認されていないと説明した。
久我は会議のあと、彼を呼び止めた。
「重大ではないと、どうして言えたんですか」
「確認されていない、と言った」
「確認するための試験を、まだしていません」
常盤は疲れた顔をしていた。
「全部が終わるまで、何も進めないわけにはいかない」
「何を、全部にするかは、誰が決めるんですか」
常盤は答えなかった。
久我はその時、研究の問題だけではなくなったと分かった。
何が分かったかではない。
どこまで分かれば進めてよいことにするか。
その線を、研究室の外で引かれていた。
会社を追われた時、母は、体を壊す前でよかったと言った。
久我は、母が自分の仕事の意味を理解していないと思い、少し腹を立てた。
だが、あとで考えると、母は研究の意味ではなく、娘の暮らしを見ていた。
夜中に電話をしても声が硬い。帰省しても眠っている。食事をしていても、携帯電話ばかり見る。
母が心配したのは、そこだった。
久我は会社を辞め、大学へ移った。
研究を続けられることに救われた。だが、会社で起きたことを外へ話すには、契約と、証拠と、自分の責任を考えなければならなかった。
自分は、止められなかった。
その事実が、話す資格を奪うように感じた。
早瀬が研究室へ来た時、久我は、ようやく同じ間違いを繰り返さない機会が来たと思った。
だが、機会という言葉を使うことにもためらいがあった。
誰かの家族が苦しんでいることを、自分のやり直しにしてはいけない。
だから、彼女はできることを具体的に話した。
検体を確認する。記録を照合する。分からないことを残す。
それ以上の意味を、自分でつけないようにした。
記憶から戻ると、久我は白い紙にZS-7と書いた。
「ここから先は、私が開発中に確認したことと、まだ仮説のことを分けて聞いてください」
拓真は手帳を開いた。
久我は、ある腸内細菌を持つ被験者で、ZS-7の摂取後に代謝物が生じたことを説明した。研究班はその細菌をルミノコッカス・Z、代謝物をM-4と呼んでいた。いずれも研究上の呼称で、商品表示には現れない。
「群Bは、その菌が検出された42人です。試験全体の中で約1割。でも、そこから一般の人の保有率を正確に出すことはできない。年齢も食生活も偏っていたから」
拓真は、数字を丸で囲むのをやめた。
「M-4は、何をするんですか」
「インスリン分泌に関わる作用が疑われました。少なくとも、群Bの一部で低血糖が起きた。私がいた段階では、因果関係を否定できない。それが結論です」
「会社には?」
「継続調査と、発売延期を求めました。注意表示の案も作った。でも、表示を考えた時点で、発売することを受け入れかけていた。私にも、その責任はある」
久我はペンを置いた。
拓真は、もっと分かりやすい被害者の言葉を期待していた自分に気づいた。会社を追われた研究者が、会社だけを悪く言えば、話は簡単になる。だが久我は、自分がどこで妥協したかまで話そうとしていた。
「常盤さんは、最初は調査に賛成した。でも最後は、開発を守ると言った。研究を守ることと、研究に関わる人を守ることを、取り違えたんだと思う」
拓真はP7の記録を見せた。
久我は、波形を長く見つめた。
「この位置だけで、成分名は決められない」
「何か、心当たりは」
「発酵条件を変えた時に、M-4の前駆体に近い副生成物が出たことがある。標準物質との照合が必要です。もし同じものなら、群Bだけの問題では済まない可能性がある」
玲奈が息を吸った。
「誰でも危険になる?」
「可能性です。記事にするなら、その言葉を落とさないで」
久我は拓真を見た。
「ただし、可能性のまま出荷していいという意味ではありません」
久我は、2人が帰ろうとした時、古い封筒を出した。
「私が会社を辞める前に出した照会です。受け取ったという記録はあります。でも、返事は来なかった」
封筒には、大学の研究者へ送ろうとした資料の控えが入っていた。文章は慎重だった。特定の代謝物の検出、症状との時間的な関係、追加検討の必要性。危険という言葉は、見当たらなかった。
「もっと強く書けばよかったと、思いますか」
拓真が聞くと、久我は首を振った。
「強く書いたら、読まれたでしょうか」
「分かりません」
「私にも分からない。ただ、弱く書けば通ると思ったのは確かです。相手が受け入れやすい言葉を選んだ。そうしているうちに、私が何を恐れているのか、文章から消えた」
久我は机の引き出しを開けた。
そこに、退職の時に返却された私物の箱があった。古い社員証のケース、名札、会社の記念品。捨てられずに残しているものは、拓真の家にもあった。
「研究が成功したら、誰がいちばん喜ぶと思っていましたか」
玲奈が聞いた。
久我はしばらく考えた。
「母です。甘いものが好きで、でも食事を制限していた。私は、母が喜ぶものを作っているつもりでした」
「お母さんは、このことを?」
「辞めたことだけ。研究がうまくいかなかったと話しました」
久我は箱を閉じた。
「失敗したと言うほうが、説明しやすかった。成功したことにされている研究から、自分だけが外されたと話すより」
拓真は封筒を受け取った。
「これを、どう扱えばいいですか」
「複製を渡します。元は私が持ちます。日付も、送った相手も、確認できるようにしてください」
久我は複写機の前に立った。
「それから、私の名前を出す時は、先に知らせて。出すなという意味ではありません。自分の言葉が、どこで誰に届くか、知っておきたい」
玲奈はうなずいた。
拓真は、会社では資料の所有者を気にしていた。誰の承認で、どの部署の管理か。ここでは、その資料に自分の名前を残す人の覚悟を、初めて考えた。
帰りの階段で、玲奈は言った。
「久我さんの資料だけでは、まだ会社の隠蔽は証明できません」
「分かっています」
「研究上の懸念があったことは示せる。でも、最終試験で何が起き、誰がどの情報を外したかは、別です」
拓真は階段の踊り場で立ち止まった。
「あなたは、何があれば信じるんですか」
玲奈は彼を見た。
「信じることと、記事にすることは別です」
「僕は、信じていないように聞こえます」
「信じたいから、確認するんです」
拓真は言い返せなかった。
自分は、娘の震える手を見た。だから危険だと思った。だが、それを見ていない人に同じ重さで受け取ってもらうには、自分の気持ち以外のものが必要だった。
玲奈は手すりに触れた。
「私も、あなたに話していないことがあります」
拓真が顔を上げると、彼女は視線を逸らした。
「まだ、確認できていないことです」
その言葉は、取材の慎重さにも、逃げにも聞こえた。
拓真は追及しなかった。
互いに話さないものを持ったまま、同じ方向へ歩いていた。
工場の宮下は、菌株の切り替えを隠さなかった。
「生産効率が3割上がるってな。半年前からだ」
「品質への変更通知は?」
「本社直轄だった。こっちが決めたんじゃない」
宮下は自分の手を見た。爪の間に、洗っても落ちない黒い汚れが残っている。
「俺らは、決められた通りに作る。勝手に変えたら問題になるからな」
その通りだった。
勝手に変えない人間たちが、上から決められた変更を実行する。全員が自分の仕事を守り、その結果、誰も製品全体を守らない。
中野も同じ質問をしに来たという。
拓真は工場を出てから、車の中で中野に電話した。呼び出し音のあと、留守番電話に切り替わった。
「何を知ってるんだ」
録音された自分の声は、怒っているように聞こえた。だが、本当は怖かった。
宮下は工場の裏手で、拓真を呼び止めた。
「本社の変更届は、俺から出したことにしないでくれ」
拓真はうなずいた。
「記録は、正式に照会します」
「正式に、か」
宮下は煙草の箱を出しかけ、またしまった。
「正式に聞かれたら、正式に知らないと答えることになるかもしれない」
「どういう意味ですか」
「俺のところにあるのは、製造条件の変更指示だ。品質への影響評価は、本社が持ってる。こっちは評価済みだと聞いて、切り替えた。それ以上のことは、分からない」
宮下は搬入口を見た。
トラックが入り、作業員が手を上げた。いつもの動きだった。
「俺の親父も、ここで働いてた。工場が止まったら、この町は困る」
「だから、調べないんですか」
「そうじゃない」
宮下は声を強くした。
「調べるなら、止めるだけで終わらせないでくれって言ってる。止めたあと、何をどう直すか。俺らが、何を知らされていなかったか。そこまで、見てくれ」
拓真は宮下を見た。
工場の人間を、命令に従った人たちとひとまとめに考えかけていた。だが、彼らには自分たちの仕事があり、誇りがあり、生活があった。
「分かりました」
「分かったって、簡単に言うなよ」
宮下は少しだけ笑った。
「俺も、よく言うんだ。分かったって。それで分かった気になる」
拓真は名刺の裏に、個人の連絡先を書いた。
「必要なことがあったら、ここへ」
宮下は受け取った。
「中野さんも、同じことを言った」
拓真は顔を上げた。
「連絡したんですか」
「1度。返事はなかった」
宮下は名刺を胸ポケットに入れた。
「今度は、返事をしてくれ」
宮下は、工程変更の指示が届いた日のことを思い出していた。
その日は、設備の定期点検と重なっていた。人手が足りず、担当者は昼休みをずらして働いた。本社からの変更通知は、夕方、まとめて確認した。
菌株の切り替え。
収率の改善。
品質への影響は評価済み。
宮下は、評価済みの欄に印があることを確認した。添付資料の名称もあった。だが、添付そのものは、工場側の画面から開けなかった。
彼は本社へ電話した。
担当者は、権限の設定だと思う、必要なら後で送ると答えた。
宮下は、切り替えは進めてよいかと聞いた。
よいという返事だった。
それを記録し、作業を進めた。
翌週、添付資料をもう1度頼むつもりだった。
だが、設備の不具合が起きた。納期の調整が入った。別の原料の受け入れで問題が出た。
資料のことは、後へ送られた。
評価済みという文字だけが、工場の判断を支えた。
早瀬が来たあと、宮下は当時のメールを探した。
必要なら後で送る。
その文は、残っていた。
必要だと、もう1度言わなかったのは自分だった。
彼は担当者へ電話した。
相手は異動していた。新しい担当者は、引き継ぎ資料を確認すると答えた。
「いつまでに?」
宮下は聞いた。
「確認でき次第」
「では、明日、確認の状況を教えてください。資料が見つからなくても、見つからないと連絡してください」
電話を切ると、隣の作業員が彼を見た。
「本社に、そんなに言っていいんですか」
宮下は、少し考えた。
「言っていいかどうかより、聞かないと、こっちが作れない」
「今まで、作ってましたよ」
若い作業員は、悪気なく言った。
宮下はうなずいた。
「そうだな。今まで、作ってた」
その言葉を、自分の中へ戻した。
今、厳しく確認することで、昔の自分をなかったことにはできない。
彼は作業員へ、変更通知を確認する手順を見直したいと話した。印があるかだけでなく、評価の内容を誰が確認したかを残す。見られない添付があれば、そのままにしない。
作業員は、仕事が増えると言った。
宮下は、増えると答えた。
増えないと言って始めれば、現場が無理をするだけだった。
「だから、ほかの仕事を減らせるかも、一緒に考える」
彼は言った。
確認の仕事を増やしながら、人も時間も変えなければ、また印だけになる。
それは、現場にいる自分が言わなければならないことだった。
その夜、宮下は工場に残った。
妻へ電話し、晩飯はいらないと伝えた。何かあったの、と聞かれた。
「点検が長引いてる」
「また?」
点検の予定は昼に終わっていた。宮下は受話器を持ったまま、開けなかった添付資料の一覧を見た。
「仕事のことで、少し」
「何」
言えば、辞めることになるのかと聞かれる気がした。自分にも分からないことを、先に心配させたくなかった。
「いや。明日は、普通に帰る」
妻は、弁当箱だけ出しておいてねと言って切った。
机の下に、朝からの弁当箱があった。洗い物を1つ増やすことは、平気で頼める。
宮下は流しで箱を洗い、乾かしている間に、本社へ2通目の照会を送った。送信済みの画面を閉じても、帰る支度には取りかからなかった。
玲奈からの連絡は、帰りの駐車場で受けた。
メディクロスの資本関係は、複数の会社を経由してミナトフーズ側につながっていた。群Bの42人のうち、途中で29人が脱落扱いになっているという元社員の証言も得られた。
「29人全員の転帰は、まだ分かりません」
「坂口さんは、その1人なんですね」
「ええ。ほかの名前も追っています」
別の着信が割り込んだ。
由香だった。
「美波が、学校で倒れた」
拓真は、電話を持っていないほうの手で車の鍵を探した。鍵はすでに手の中にあった。それでも見つからないと思い、何度もポケットを探った。
病院の廊下で、由香は美波の上履きを抱えていた。
なぜ上履きなのか分からなかった。学校から誰かが持ってきて、それを受け取ったまま、ほかに置く場所を見つけられなかったのだろう。片方のつま先に、青いペンで描いた星があった。
佐伯真理医師は、意識は戻ったと告げた。
拓真は壁に手をついた。
「搬送時の血糖値が42でした」
数字は、単位と一緒に検査用紙に印刷されていた。品質管理の仕事で見慣れた、黒い数字だった。だがその横に娘の名前があるだけで、読むための目が別のものになった。
「原因を調べる必要があります。食事や、最近飲んでいたものを教えてください」
由香が朝食を説明した。
拓真は途中で口を挟んだ。
「ゼロスイートを、毎日使っています」
佐伯は顔を上げた。
「摂取量や商品名が分かるものは、残してください。現時点で、それが原因とは言えません。ただ、情報は必要です」
拓真はうなずいた。
会社では、原因と証明できないから出荷する。
病院では、原因と証明できなくても記録を残す。
同じ不確かさが、反対の方向へ人を動かしていた。
由香は処置室の前で、学校からの電話を受けた。
担任は、給食後の体育の時間だったと説明した。美波がしゃがみ込み、声をかけた時には返事が鈍くなっていた。養護教諭が来て、救急車を呼んだ。
「朝、変わった様子はありませんでしたか」
由香は記憶をたどった。
靴下が片方見つからず、少し怒っていた。忘れ物を取りに戻った。玄関で、今日は早く帰ると言った。
どれも、いつもあることだった。
「分かりません。普通でした」
電話を切ると、由香は手の中の上履きを見た。
小さな星の落書き。新学期に買った時は、真っ白だった。自分が知らないうちに、娘はこんなところに印をつけていた。
美波の体調の変化も、同じように知らないうちに増えていたのだろうか。
疲れたと言った日。朝食を残した日。宿題の字が雑だった日。
由香は、怠けていると思ったことを思い出した。
ちゃんとしなさい。
何度言っただろう。
その言葉が、廊下の椅子の上に積もっていく気がした。
拓真が来た時、由香は彼の顔を見て安心した。これで1人ではなくなると思った。
だが夫は、検査結果を聞くと、驚くより先に何かを理解したような顔をした。
由香はその顔を見逃さなかった。
自分の知らないところで、すでに何かが始まっていた。
娘が倒れたという出来事の中で、夫と妻は同じ場所に立っていなかった。
佐伯は、両親に話を聞く時、途中で看護師へ席を外してもらった。
「責めるために聞くのではありません。思い出せる範囲で、最近の変化を教えてください」
由香は、疲れたと言っていたことを話した。
「いつ頃からですか」
「はっきりとは。私、あまり気にしていなくて」
「今、思い出せたことが大事です」
佐伯はそう言って、日付の分からない欄を空白にした。
空白にされると、由香は余計に答えを埋めたくなった。先月だったか、夏休みのあとだったか。何か言わなければ、母親なのに知らない人になってしまう。
「無理に日を決めなくて大丈夫です」
佐伯は由香を見た。
「分からないまま、残しましょう」
由香はうなずいた。
拓真が隣で手帳を開いた。そこには、すでにいくつかの日付があった。
由香はその字を見た。
夫は記録していた。
自分には、言わずに。
病室で美波が眠っていた。
由香は自販機のジュースを持って戻ってきた。ゼロスイート入りのリンゴ飲料だった。
「目が覚めたら、好きなのを飲みたいかと思って」
拓真は缶を受け取った。
「これは、やめよう」
「どうして」
「関係があるかもしれない」
由香は缶ではなく、拓真を見た。
「あなた、何を知ってるの」
拓真は、久我の名前を出しかけてやめた。会社の話を、娘の病室でどこまでしていいのか分からなかった。由香を怖がらせたくないという思いと、自分がどこまで巻き込まれているか知られたくない思いが、同じ言葉の裏に隠れた。
「まだ、調べてる」
「メディクロスも?」
拓真は答えられなかった。
「ポケットの紙、見た。誰かが亡くなったの?」
病室の機械が規則的な音を立てた。
その音が続く限り、娘はここにいる。拓真はそのことだけを考えようとした。
だが由香が求めているのは、娘がここに来る前に、夫がどこにいたのかという答えだった。
夜、由香は売店で歯ブラシを買った。
泊まるつもりで来たわけではなかった。化粧品も着替えもない。財布の中に、美波の習い事の月謝袋が入っていた。今日、渡すはずだったものだ。
レジで小銭を出す時、指がうまく動かなかった。
店員は何も言わず待ってくれた。
それだけで、泣きそうになった。
病室へ戻る途中、由香は窓に映る自分を見た。パート先の制服の上に、上着を羽織ったままだった。娘が倒れたと聞き、仕事を抜けた。店長はすぐ行ってと言ってくれた。代わりの人を探す電話は、自分がしなくてもよかった。
家族のことになると、誰かが代わってくれる仕事と、誰にも代わってもらえない仕事がある。
美波の母親でいることは、後者だった。
だが父親でいることも、本当はそうではないのか。
由香は、病室の前で足を止めた。
拓真はベッドの横で、娘の手を握っていた。
その姿を見て、責める言葉が少しだけ引っ込んだ。夫も怖いのだと分かった。だが、怖いことと、話さなくていいことは同じではない。
由香は歯ブラシの袋を机に置いた。
「明日、着替えを取りに帰る」
「ああ」
「その時、あなたの手帳も、見せて」
拓真は顔を上げた。
「全部、説明する」
「今、できないの?」
拓真は眠っている美波を見た。
由香は、その視線の意味を分かったつもりにならないことにした。
「娘の前だから言えないのか、私に言いたくないのか、どっち?」
拓真は答えなかった。
由香は椅子に座った。
眠る娘の両側に、両親が座っていた。
近いのに、話は届かなかった。
駐車場に出ると、知らない送信元から画像が届いた。
美波の病室の窓だった。
添えられた文は短かった。
お嬢さんのお大事に。常盤。
拓真は画像を拡大した。窓の隅に、由香の後ろ姿が小さく写っていた。
相手は会社の机の向こうにいるのではない。
もう、家族のいる場所まで来ていた。




