↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゼロ・カロリー  作者: ぽむぽむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/10

第2章 追跡不能

翌朝、美波の手は震えていなかった。

 そのことに、拓真は必要以上に安堵した。何も起きなければ、昨日の不安は大げさだったことにできる。人は危険がない証拠より、危険を考えなくて済む理由を欲しがるのだと、まだ自分のこととしては理解していなかった。

「しばらく、あれは控えようか」

 由香がパンを皿に置く手を止めた。

「あれって?」

「ゼロスイート」

「どうして」

 拓真は歯に悪いから、と言いかけた。パッケージには虫歯の原因になりにくいと書いてある。自分の会社が用意した言葉に、自分の逃げ道を塞がれた。

「甘いものばかりは、よくないだろ」

「あなたが持ってきたのよ」

 責める声ではなかった。それだけに、拓真は何も言えなかった。


 会社では、ゼロスイート関連の保存領域にアクセスできなくなっていた。セキュリティ更新という説明だった。担当者本人から担当製品のデータを遠ざける更新に、誰も疑問を口にしない。

 小松翔が給湯室で声を落とした。

「早瀬さん、何かありました?」

「昔の保存サーバー、まだあるか」

 小松は紙コップを握ったまま、廊下を見た。

「電源は入ってます。でも移行前のデータは、使わない決まりです」

「消してはいないんだな」

「たぶん」

 拓真は礼を言った。

 小松は、何を聞かれたか忘れたほうがいいのだろうという顔をした。29歳の彼には、まだこれからの昇進も異動もある。拓真は自分の不安に他人を引き入れたことを、初めて具体的に恥じた。


 その日の午後、拓真は社内の相談窓口へ電話した。

 番号は社員手帳の最後に印刷されていた。入社以来、使ったことがなかった。毎年の研修では、気づいたことをためらわずに相談してくださいと説明される。説明する人の声は明るく、相談したあとのことは、いつも数行で終わっていた。

 電話に出た担当者は、所属と名前を聞いた。

「匿名でも可能と書いてありますが」

「もちろんです。ただ、事実関係の確認が必要な場合は、担当部署へ照会することがあります」

「照会先が、相談の対象だったら?」

「内容によって、適切に対応します」

 適切に。

 拓真はその言葉の中に、自分が入れる場所を探した。

「製品の分析データが、測定した時と違うものに置き換わっています」

 担当者の声が少し変わった。

「製品名を教えていただけますか」

「その前に、記録が消されないようにしてもらえますか」

「具体的な対象が分からなければ、保全の依頼はできません」

 それも正しかった。

 拓真は製品名とロットを伝えた。担当者は受付番号を告げた。確認のために所属長へ連絡する場合があると、もう1度説明した。

「所属長には、すでに報告しています」

「では、その報告内容も含めて確認します」

 電話を切ったあと、拓真は受付番号を手帳に書いた。

 何かをしたという安心が、少しだけ生まれた。これで自分だけの問題ではなくなった。正式な窓口に伝えたのだから、あとは誰かが調べる。

 その考えが、田所の言う「上の判断」とどこで違うのか、拓真にはまだ分からなかった。

 夕方、田所から内線があった。

「社内窓口へ連絡したそうだね」

 拓真は受話器を握った。

「はい」

「私への報告に不満があったのか」

「不満ではなく、確認が必要だと思いました」

「相談窓口は、指揮命令系統を飛ばすためのものではない」

 拓真は壁のポスターを見た。

 声を上げる勇気が、会社を守る。

 明るい色の文字だった。

「では、何のためですか」

 田所は答えなかった。

「今後は、私を通しなさい」

 通話が終わった。

 拓真は受付番号の横に、田所から連絡、と書いた。窓口が動かなかったのではない。動いた結果、自分の話が、自分が相談した相手のところへ戻ってきた。

 番号を残しておこうと思った。

 誰かが適切に対応したことにする時、その中で何が起きたかを、せめて自分は覚えていたかった。


 旧サーバーへ行く前に、拓真は情報管理の担当者へ保存状況を尋ねた。

 担当者は、今の業務システムにある資料と、移行前の保管資料は別だと説明した。検索で出ないからといって、消えたとは限らない。

「移行の時、全部確認したんですか」

「件数と、移行できた形式は確認しました。中身の意味までは、担当部署の仕事です」

 拓真はうなずいた。

 資料の管理をしている人が、資料の内容まで理解しているとは限らない。だが、内容を知る人は、保存の仕組みを知らない。

 その間に、見えなくなるものがある。

「古い資料を、見たいんです」

「閲覧権限は、部署の承認が必要です」

 拓真は黙った。

 担当者は彼の顔を見た。

「何を探しているかは、聞きません。ただ、勝手に持ち出すのはやめてください。後で、何が元の状態だったか分からなくなる」

「分かっています」

「本当に。困るのは、あなたもです」

 拓真は礼を言った。

 相手は会社を守るためだけに言っているのではなかった。記録が、記録として使えなくなることを恐れていた。

 その仕事の感覚は、拓真にも分かった。

 彼は正式に閲覧できる範囲を確認し、資料の所在だけでも分かる一覧を求めた。担当者は、一覧のうち公開範囲に入るものを示した。

 古い試験の名称があった。

 だが、群Bという項目はなかった。

 ファイル名に書かれていないことは、検索では見つからない。

 拓真は、タイトルではなく、試験の実施時期と依頼先を手がかりに探すことにした。

 地味な作業だった。

 目当てのものがある保証もなかった。

 それでも、誰かが残した順番を、1つずつたどることはできた。


 夕方、小松が資料の箱を運んできた。

「移行前の目録です。紙で残っていました」

 箱には廃棄予定という赤い札が貼られていた。小松は札を裏返して机に置いた。

「捨てる前に確認しろって、ずっと言われていたんです。やってなくて」

「いつまで」

「今月末です」

 一覧には、担当者の印が並んでいた。資料名、保存期限、廃棄の承認。試験会社の名前を見つけ、拓真は指を止めた。

 製品の開発年と合わない。さらに2年前だった。

「この名称、途中で変わったのか」

「さあ。旧コードも、出しますか」

 小松が別の束をほどいた。紐の跡が指の腹に残った。

 ZS-7になる前の試作番号が見つかった。元の名称で探すと、保存先は現在の製品フォルダではなく、共同研究の領域になっていた。

「まだ、あると思います」

 小松は言い、拓真の顔を見て言い直した。

「確かめます」

 拓真は旧コードを手帳へ書いた。数字の7だけ、力が入った。

 小松が箱を持ち上げた時、底が裂けかけた。2人で膝をついて受け止めた。紙の端が床をこすり、数枚が机の下へ入った。

「もう、箱ごと捨てたほうが楽ですよね」

 小松は笑おうとした。拓真は机の下へ手を伸ばし、埃のついた1枚を引き出した。

 廃棄確認票だった。確認者の欄は空いていた。


 旧サーバー室のファンは、喘ぐような音を立てていた。

 拓真の古い認証情報は生きていた。退職者の名前が残る一覧に、自分の入社当時の部署名があった。会社は忘れるべきことを保存し、保存すべきことを消す。

 ZS-7長期摂取試験。

 フォルダの大半は空だった。試験計画書と、途中までの索引が残っていた。最終アクセス者は中野。拓真がP7を見つけた夜の、少し前だった。

 索引の最後に、1行あった。

 被験者群B:追跡不能。

 400人を対象にした試験。群A、群B。Bの定義欄は黒く塗られていた。人数欄には42。脱落者一覧の断片には、名前の代わりに記号が並んでいる。

 追跡不能という言葉を、拓真は何度も読み返した。

 人がいなくなったのか。

 記録がなくなったのか。

 それとも、追いかけるのをやめたのか。

 付録の一部に、消し忘れたらしい住所があった。坂口健太。埼玉県川口市。

 画面を撮影した。シャッター音を消し忘れ、狭い部屋に乾いた音が響いた。

 廊下の足音に、拓真は椅子から立ち上がった。隠れる場所を探す自分が、もうただの確認作業をしている社員ではないことに気づいた。


 索引には、追跡不能の行にも請求番号があった。

 拓真はその番号を、契約の一覧で探した。試験は終了している。追加の支払いが2回あり、名目は事後対応費となっていた。

 金額は閲覧できなかった。経理へ照会する欄を開くと、理由の入力を求められた。

 製品の安全性に関わる確認。

 そこまで書いて、指を止めた。照会は田所へ戻る。先に見られてしまうかもしれない。

 拓真は理由を消し、保存記録の所在確認と書いた。送信しようとした時、画面の下に、緊急性、という項目があるのに気づいた。通常を選ぶと回答まで5営業日、緊急を選ぶと承認者へ通知される。

 どちらを選んでも、何かを失うように思えた。

 通常のまま送った。

 受付済みの表示が出た。画面を閉じる前に、緊急性の欄をもう1度見た。自分が選んだ通常という文字が、そこに残った。

 翌日、回答が来た。支払いの内容については、依頼部署への確認を要します。依頼部署は、常盤の開発本部だった。

 拓真は受付番号を手帳へ書き、回答を印刷した。行き止まりの紙が1枚増えた。それでも、電話で断られたことと違い、誰がどの部署へ戻したかは残った。

 印刷を受け取りに行くと、小松が隣で待っていた。紙を見られないように伏せた自分の手を、拓真は覚えていた。


 翌朝、田所はアクセス記録を机に置いた。

「説明しなさい」

「自社製品の試験記録を確認しました」

「許可を取ったか」

「許可が必要な理由を教えてください」

 田所の口元が動いた。その時、内線が鳴った。

 専務室で常盤隆は、コーヒーにスティックを2本入れた。

「君の入社は2008年だったね」

 会社が採用を絞った年。採用通知を受けた時、拓真は母に電話をした。父が亡くなってから、母があれほど明るい声を出したのは初めてだった。

「面接の評価に、誠実とある」

 常盤はカップを差し出した。

「開発本部に席を用意した。課長代理だ。君のような人が必要なんだ」

 拓真は、思わずカップを受け取った。

 課長代理。由香に言えば、喜ぶだろう。美波にも説明しやすい。自分がこれまで我慢してきたことに、初めて値段がついたような気がした。

「群Bは、どうなったんですか」

 常盤の指が、ソーサーの縁に触れた。

「必要な資料は提出されている」

「追跡不能とありました」

「早瀬くん。君には、守るものがあるね」

 常盤は娘の年齢と、住宅ローンの残り年数を正確に言った。

 拓真はカップを置いた。飲んでいないコーヒーの表面に、小さな輪が広がった。

「脅しているんですか」

「君が失うものを、君以上に心配しているんだよ」

 常盤は笑わなかった。

 そのほうが、怖かった。


 専務室を出たあと、人事の担当者から書類が届いた。

 異動の意思確認ではなかった。将来の配置についての意向調査とある。通勤可能な地域、介護の有無、配偶者の就業状況、子供の学齢。

 常盤が娘の年齢を知っていたことを、拓真は思い出した。

 去年、自分で書いた欄だった。

 入力済みの画面には、美波の年齢が1つ古いまま残っていた。拓真は更新しようとして、指を止めた。この欄を空ければ、守れるのだろうか。だが、空欄なら配慮が要らないことにされるかもしれない。

 担当者へ電話した。

「この情報は、誰が見ますか」

「配置を検討する者です」

「誰ですか」

「必要な範囲で共有します」

 拓真は必要な範囲、と手帳に書いた。

「更新しないと、どうなりますか」

「現在の情報で検討されます。ご家庭の事情が変わったなら、更新をお願いします」

 礼を言って切った。

 画面の隅には、家族の安心が、仕事の力になる、という社内報の案内があった。去年、彼は美波の写真を投稿しようとした。由香が、会社にまで出さなくていいでしょうと言ったので、やめた。

 その時は、何をそんなに警戒するのかと思った。

 拓真は年齢を直さず、保存もしないで画面を閉じた。未回答という赤い文字が残った。


 玲奈が最初にメディクロスの元社員と会ったのは、雨の降る平日の昼だった。

 相手は駅から遠いファミリーレストランを指定した。名前を記事に出さないこと、勤務先を探らないこと、家族に連絡しないこと。条件は多かったが、玲奈はすべてを軽く引き受けることはしなかった。

「お約束できることと、できないことを、先に説明します」

 相手は不快そうに眉を寄せた。

「守ってくれないんですか」

「守るために、できない約束はしたくありません」

 玲奈は録音機を出さず、手帳だけを置いた。

 元社員は、試験の進行を管理する仕事をしていた。診療の判断はしていない。だが、参加者からの電話を受け、担当医へ連絡し、来院日を調整した。

「具合が悪いという電話は、ありました」

「何件くらいですか」

「覚えていません」

「記録は?」

「会社にあります」

 元社員は水を飲んだ。

「記録に残す欄が、変わったんです」

 玲奈は顔を上げた。

「どう変わったんですか」

「最初は、症状を書く欄がありました。途中から、継続できるかどうかの欄が先になった。続けられない人は、理由を選ぶ。仕事の都合、転居、本人希望、その他」

「体調不良は?」

「その他です」

 玲奈はその順番を書き留めた。

 症状が消えたのではない。症状を分類する箱が変わった。体調を崩した人は、試験を続けられない人になり、試験を続けられない人は、解析に使わない人になる。

「誰の指示ですか」

「会議で決まりました」

「誰が提案しましたか」

 相手は首を振った。

「覚えていません。本当に。誰かが、集計しやすい形にしましょうと言った。それだけです」

 玲奈は、覚えていないという答えを消さなかった。

 覚えていないことを、嘘だと決めつけることもできない。仕事の中で変わる小さな書式を、人はすべて覚えてはいない。だが、その書式の向こうで消えた人は、消えたままだった。

「どうして、今、話してくださるんですか」

 元社員は窓を見た。

「子供が、生まれました」

 玲奈はペンを止めた。

「そうですか」

「そう言うと、いい話みたいになるでしょう。違うんです。子供が生まれるまで、思い出さないようにできた。その程度だったんです、私には」

 雨粒が窓を流れた。

 玲奈は、相手が自分を悪く言うことで、先に許しを求めているのかもしれないと思った。それでも、許すことも裁くことも、自分の仕事ではなかった。

「覚えていることを、順番に聞かせてください」

 元社員は鞄から、古い手帳を出した。

 会社の資料ではない。私物の予定帳だった。面談日、電話を受けた日、上司へ折り返した時刻。名前の一部は略されていたが、1人だけ、住所まで残っていた。

 坂口健太。

「この人のお母さんから、何度も電話がありました。私、最後は上司に代わってもらったんです」

 元社員はページを押さえた。

「それで、仕事が片づいたと思った」

 玲奈は住所を書き写した。

 取材が進んだという手応えと、誰かが2年待ったことを利用しているような感覚が、同時にあった。

 店を出る時、相手は傘を開きながら聞いた。

「記事になったら、会社は変わりますか」

 玲奈はすぐには答えなかった。

「変わるように、確かめます。でも、変わると約束はできません」

 相手は少しだけ笑った。

「記者って、もっと、はっきり言う人だと思っていました」

「はっきり言うために、今は分けているんです」

 玲奈は傘を差した。

 父が昔、同じようなことを言った気がした。

 何を確かめ、何をまだ知らないか。それを分けるのが仕事だと。

 父の言葉を使って父のしたことへ近づいている。そのことを、相手には話さなかった。


 川口の坂口家の前に、玲奈がいた。

「また、偶然ですか」

「試験会社の元社員から、この住所を聞きました」

 玲奈は名刺を差し出さなかった。拓真は今度は自分から、名刺をくださいと言った。

 拓真がチャイムを押すと、家の奥で物音がした。

 玄関に出てきた坂口澄江は、2人をしばらく見ていた。

「健太さんは、ご在宅でしょうか」

 澄江の視線が拓真の背後へ抜けた。その言葉を聞いた時、息子がまだどこかで生きている家の人になったような気がした。

 ほんの一瞬だった。

 それから、いつもの答えを口にした。

「2年前に、亡くなりました」

 家の中は、昼なのに薄暗かった。

 仏壇の写真の青年は、拓真が想像していたより若かった。24歳という数字は、書類の上では成人を示すだけだったが、母親の隣に置かれた写真では、まだ誰かに夕食を用意してもらう年齢に見えた。

「試験は、食べるだけだと言われたんです」

 澄江は湯呑みを並べた。手が慣れすぎていた。何度も誰かに同じ話をし、そのたびに同じ場所へ湯呑みを置いたのかもしれなかった。

「就職が決まるまでのつなぎで。月10万円。私も、いい話だと思ってしまった」

 健太は試験の途中から倒れるようになった。病院では原因が分からず、試験会社からは個人差だと説明された。最後は自室で亡くなった。死因の欄には急性心不全。

 澄江が封筒を出した。

「3000万円でした」

 守秘義務の書類。差出人はメディクロス。

「主人の治療費があったんです。断れば、健太のことを信じていることになると思った。でも、受け取れば主人が助かるかもしれない。私、どっちを選んでも、誰かを見捨てるようで」

 玲奈は録音機に手を置いた。

「ここから先は、録音を止めます」

 澄江は首を振った。

「止めないで。私がもらったことも、残して」

 拓真は、自分の名刺を出せなかった。

 会社名を言った時、澄江の顔に怒りは浮かばなかった。

「じゃあ、知っているんですね」

「知りませんでした」

 でした、と言ってから、拓真は言い直した。

「まだ、知りません。調べています」

 澄江は仏壇を見た。

「分かったら、私にも教えてください。健太が、何を食べたのか」


 坂口家を出る前、澄江は健太の部屋を見ますかと聞いた。

 玲奈は、差し支えなければと答えた。拓真は断りかけた。遺族の家に上がり、話を聞くだけでも、自分には許されていないことをしている気がした。部屋まで見るのは、踏み込みすぎではないか。

 澄江は戸を開けた。

 小さな部屋だった。ベッドと机、背の低い本棚。服は畳まれ、床に物はなかった。片づけられているのに、誰かが帰ってきてもすぐ使える状態だった。

「全部、そのままではありません。洗濯はしました。埃も、たまるから」

 澄江は机の椅子を引いた。

「そのままにしていると、よく言われるんです。でも、そのままって、何でしょうね。洗わないほうがいいのか、掃除しないほうがいいのか。私は、健太が汚い部屋で暮らしていたみたいになるのが嫌で」

 拓真は机の上を見た。

 筆記具が、空き缶に入っていた。ミナトフーズの古い菓子の缶だった。自分の会社の商品が、死んだ青年の部屋で、まだ役に立っていた。

「料理が、好きだったんです」

 澄江は本棚から薄いノートを出した。

 材料の分量。火にかける時間。失敗した理由。丸い字で、次は焦がさない、と書いてある。

「これ、見てもいいですか」

 拓真が聞くと、澄江はうなずいた。

 レシピの横に、母は薄味、父は熱いのが苦手、とあった。

 食べる人のことが、書いてあった。

 拓真はページを閉じた。

 自分は仕事で、食べる人のことをどれほど書いてきただろう。規格値、測定値、出荷先。数字と名称の中に、食べる人は含まれているつもりだった。だが、熱いのが苦手な人も、薄味が好きな人も、そこにはいなかった。

「健太さんのこと、記事でどう紹介するか、あとで確認させてください」

 玲奈が言った。

 澄江は少し考えた。

「被験者だった人、だけにはしないでほしいです」

「はい」

「でも、立派な人だったとも、書かなくていい。寝坊もしたし、洗濯物を裏返しのまま出したし、怒ると返事をしなかった」

 澄江はノートを受け取った。

「そういう子が、死んだんです」

 拓真は頭を下げた。

 謝罪のつもりだったのか、礼のつもりだったのか、自分でも分からなかった。

 澄江は、頭を上げてくださいとは言わなかった。

 そのことが、ありがたかった。


 帰り道、玲奈は駅まで歩こうと言った。

「組みませんか」

「僕は記者じゃありません」

「私は、あなたの会社のデータを読めません」

「家族がいます」

「だから、やめるんですか」

 拓真は立ち止まった。

「家族を理由にするのが、卑怯だと言いたいんですか」

 玲奈はすぐには答えなかった。

「いいえ。私にも、理由にしたい家族がいます」

 その言葉の意味を、拓真はまだ知らなかった。

 電車の中で、拓真は美波の写真を開いた。

 最近の写真は、由香から送られてきたものばかりだった。公園、習字の作品、学校の帰り道。自分が写っているものは少なかった。

 家族のために働いている。

 それは嘘ではない。だが、その言葉を言えば、家族のいる時間にいなかったことを、説明しなくて済んだ。

 坂口健太のノートには、食べる人の好みが書いてあった。

 自分は、美波が今、何をいちばん好きなのか知っているだろうか。甘いもの。ホットケーキ。ココア。それは、もっと小さかった頃から変わらない答えだった。変わっていないのか、自分が更新していないのか。

 由香へメッセージを書いた。

 今から帰る。

 それだけでは足りないと思い、続きを書いた。

 少し、話したいことがある。

 送信する前に、指が止まった。

 帰ってから話せばいい。文字にすると、余計に心配するかもしれない。

 拓真は2行目を消した。

 電車は、家に近づいていた。

 話すための時間は、確実に減っていた。


 帰宅すると、由香が上着を受け取った。ポケットに入れた契約書のコピーが、紙の音を立てた。

 拓真は聞こえなかったふりをした。

 由香も、聞かなかった。

 その夜、夫婦の間でいちばん大きなものは、2人が口にしなかった紙の音だった。


 坂口家を訪ねた翌日、玲奈は別の遺族へ連絡した。

 元社員が残していた手帳に、電話番号があった。番号が今も使われているか分からず、最初は短い文を送った。取材の趣旨と、自分の所属。突然の連絡を詫び、話をするかどうかは相手が決められることを伝えた。

 返事は、夕方に来た。

 もう、連絡しないでください。

 玲奈は、その文を何度か読んだ。

 分かりました、と返した。

 拓真は隣で見ていた。

「もう1度、説明しなくていいんですか」

「しません」

「大事な話なのに」

 玲奈は電話を置いた。

「大事だから、話さなくてはいけないわけではありません」

 拓真は口を閉じた。

 自分は、被害を受けた人なら真相を知りたいはずだと思っていた。知りたい人なら、調べる人へ協力するはずだとも。

 だが、相手には今の暮らしがある。家族に話していないこともあるかもしれない。会社の名前を見るだけで、眠れなくなる人もいるだろう。

 拓真は、その人の顔を知らない。

 知らない人の望みを、勝手に決めていた。

「連絡しないことも、記録するんですか」

「はい。ほかの取材者が同じ経路で連絡しないように、扱いに気をつけます」

 玲奈は手帳の該当箇所に、再連絡しない、と書いた。

 取材が進まなかったことを示す線だった。

 同時に、相手の意思が届いたことを示す線でもあった。


 その夜、玲奈は取材の一覧を作り直した。

 拓真は連絡不能の欄に入った名前を見て、そこではないと言った。

「返事は来たでしょう」

「そうですね」

 玲奈は列を増やした。再連絡不可と入力すると、画面が横へ広がった。印刷した時には1枚に収まらなくなる。

「記事に、何人に断られたかも書くんですか」

「必要なら。ただ、断られた数で、残った人の話を薄めたくはない」

「逆に、断った人も会社を疑っているかもしれない」

「かもしれません」

 玲奈はそこから先を打たなかった。

 拓真は、会社で使っていた脱落者一覧を思い出した。本人希望という同じ文字が、縦に続いていた。

「理由まで、聞けばよかったんじゃないですか」

 言ってから、玲奈の指が止まったのを見た。

「聞かないと約束したんでしたね」

「ええ」

 新しい欄の右には、広い空白ができた。玲奈は表の幅を狭めず、2枚に分けて印刷した。拓真は2枚目を受け取った。載っていたのは、たった1行だった。


 数日後、澄江から電話が来た。

 話したくないと答えた遺族から、自分のところへ連絡があったという。試験会社を通じて、以前に1度だけ連絡先を交換していた。

 玲奈は、こちらから連絡しない約束をしたと伝えた。

「その人の話を、私から伝えてもいいか、聞いてあります」

 澄江は言った。

 玲奈は、どこまでの同意かを確かめた。

 名前を出さない。住んでいる場所も、家族構成も書かない。亡くなった人が試験に参加していたことは、必要な範囲で確認してよい。ただし、本人の代わりに澄江が証言する形にはしない。

 条件を聞き終えると、玲奈はうなずいた。

「何と、おっしゃっていましたか」

「私が話さないことを、会社を許したことにしないでほしいって」

 玲奈は、その文をそのまま書いた。

 話さない人は、賛成している人ではない。

 だが、反対している人として勝手に数えてもいけない。

 澄江は続けた。

「私は話したい。でも、その人は、今は話したくない。それで、私たちが仲違いする必要はないんですよね」

「ないと思います」

「よかった」

 澄江の声が少し緩んだ。

「同じことがあった人は、同じ気持ちでいなくちゃいけないのかと思って」

 玲奈は手帳を見た。

 同じ試験。同じ会社。同じ示談書。

 それでも、失った人も、その後の暮らしも違う。

 共通点を見つけるのが取材なら、違いを残すことも取材だった。


 帰宅すると、由香が夕食の皿を出していた。

「遅くなるって、言ってくれればよかったのに」

「連絡した」

「7時を過ぎてからでしょう」

 拓真は台所の時計を見た。9時18分。電子レンジの中に、自分の皿だけが入っていた。

 今日は誰に会ったかを話そうとした。氏名を伏せ、会社のことを避けると、説明はひどく曖昧になった。

「仕事で、調べていることがある。人が話したくないと言った時、聞かないのも仕事なんだって」

「私には聞くの?」

 拓真は箸を止めた。

「私が何で怒ってるか、聞くの」

 廊下で美波が歯を磨いていた。吐き出す音が聞こえた。由香は声を落とした。

「遅いからだけじゃない。美波が、パパの分も残そうって言うの。それで待って、先に食べて、冷蔵庫へ入れるの。何をしてるか知らない人を、毎晩待たせないで」

 拓真は明日こそ話そうと思い、その言葉を口にしかけた。

「今、うまく説明できない。自分でも、怖い」

 由香は彼を見た。

「そういう話なら、聞く」

 電子レンジが鳴った。

 彼は皿を取り出しながら、中野が休職したことを話した。坂口家のことまでは言えなかった。由香はそれに気づいたように、まだあるのねと聞いた。

「ある」

「全部言えないから、何も言わないのは、やめて」

 拓真はうなずいた。由香はテーブルの向かいへ座った。食事はもう済ませていたが、コップに水を注いだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。