第2章 追跡不能
翌朝、美波の手は震えていなかった。
そのことに、拓真は必要以上に安堵した。何も起きなければ、昨日の不安は大げさだったことにできる。人は危険がない証拠より、危険を考えなくて済む理由を欲しがるのだと、まだ自分のこととしては理解していなかった。
「しばらく、あれは控えようか」
由香がパンを皿に置く手を止めた。
「あれって?」
「ゼロスイート」
「どうして」
拓真は歯に悪いから、と言いかけた。パッケージには虫歯の原因になりにくいと書いてある。自分の会社が用意した言葉に、自分の逃げ道を塞がれた。
「甘いものばかりは、よくないだろ」
「あなたが持ってきたのよ」
責める声ではなかった。それだけに、拓真は何も言えなかった。
会社では、ゼロスイート関連の保存領域にアクセスできなくなっていた。セキュリティ更新という説明だった。担当者本人から担当製品のデータを遠ざける更新に、誰も疑問を口にしない。
小松翔が給湯室で声を落とした。
「早瀬さん、何かありました?」
「昔の保存サーバー、まだあるか」
小松は紙コップを握ったまま、廊下を見た。
「電源は入ってます。でも移行前のデータは、使わない決まりです」
「消してはいないんだな」
「たぶん」
拓真は礼を言った。
小松は、何を聞かれたか忘れたほうがいいのだろうという顔をした。29歳の彼には、まだこれからの昇進も異動もある。拓真は自分の不安に他人を引き入れたことを、初めて具体的に恥じた。
その日の午後、拓真は社内の相談窓口へ電話した。
番号は社員手帳の最後に印刷されていた。入社以来、使ったことがなかった。毎年の研修では、気づいたことをためらわずに相談してくださいと説明される。説明する人の声は明るく、相談したあとのことは、いつも数行で終わっていた。
電話に出た担当者は、所属と名前を聞いた。
「匿名でも可能と書いてありますが」
「もちろんです。ただ、事実関係の確認が必要な場合は、担当部署へ照会することがあります」
「照会先が、相談の対象だったら?」
「内容によって、適切に対応します」
適切に。
拓真はその言葉の中に、自分が入れる場所を探した。
「製品の分析データが、測定した時と違うものに置き換わっています」
担当者の声が少し変わった。
「製品名を教えていただけますか」
「その前に、記録が消されないようにしてもらえますか」
「具体的な対象が分からなければ、保全の依頼はできません」
それも正しかった。
拓真は製品名とロットを伝えた。担当者は受付番号を告げた。確認のために所属長へ連絡する場合があると、もう1度説明した。
「所属長には、すでに報告しています」
「では、その報告内容も含めて確認します」
電話を切ったあと、拓真は受付番号を手帳に書いた。
何かをしたという安心が、少しだけ生まれた。これで自分だけの問題ではなくなった。正式な窓口に伝えたのだから、あとは誰かが調べる。
その考えが、田所の言う「上の判断」とどこで違うのか、拓真にはまだ分からなかった。
夕方、田所から内線があった。
「社内窓口へ連絡したそうだね」
拓真は受話器を握った。
「はい」
「私への報告に不満があったのか」
「不満ではなく、確認が必要だと思いました」
「相談窓口は、指揮命令系統を飛ばすためのものではない」
拓真は壁のポスターを見た。
声を上げる勇気が、会社を守る。
明るい色の文字だった。
「では、何のためですか」
田所は答えなかった。
「今後は、私を通しなさい」
通話が終わった。
拓真は受付番号の横に、田所から連絡、と書いた。窓口が動かなかったのではない。動いた結果、自分の話が、自分が相談した相手のところへ戻ってきた。
番号を残しておこうと思った。
誰かが適切に対応したことにする時、その中で何が起きたかを、せめて自分は覚えていたかった。
旧サーバーへ行く前に、拓真は情報管理の担当者へ保存状況を尋ねた。
担当者は、今の業務システムにある資料と、移行前の保管資料は別だと説明した。検索で出ないからといって、消えたとは限らない。
「移行の時、全部確認したんですか」
「件数と、移行できた形式は確認しました。中身の意味までは、担当部署の仕事です」
拓真はうなずいた。
資料の管理をしている人が、資料の内容まで理解しているとは限らない。だが、内容を知る人は、保存の仕組みを知らない。
その間に、見えなくなるものがある。
「古い資料を、見たいんです」
「閲覧権限は、部署の承認が必要です」
拓真は黙った。
担当者は彼の顔を見た。
「何を探しているかは、聞きません。ただ、勝手に持ち出すのはやめてください。後で、何が元の状態だったか分からなくなる」
「分かっています」
「本当に。困るのは、あなたもです」
拓真は礼を言った。
相手は会社を守るためだけに言っているのではなかった。記録が、記録として使えなくなることを恐れていた。
その仕事の感覚は、拓真にも分かった。
彼は正式に閲覧できる範囲を確認し、資料の所在だけでも分かる一覧を求めた。担当者は、一覧のうち公開範囲に入るものを示した。
古い試験の名称があった。
だが、群Bという項目はなかった。
ファイル名に書かれていないことは、検索では見つからない。
拓真は、タイトルではなく、試験の実施時期と依頼先を手がかりに探すことにした。
地味な作業だった。
目当てのものがある保証もなかった。
それでも、誰かが残した順番を、1つずつたどることはできた。
夕方、小松が資料の箱を運んできた。
「移行前の目録です。紙で残っていました」
箱には廃棄予定という赤い札が貼られていた。小松は札を裏返して机に置いた。
「捨てる前に確認しろって、ずっと言われていたんです。やってなくて」
「いつまで」
「今月末です」
一覧には、担当者の印が並んでいた。資料名、保存期限、廃棄の承認。試験会社の名前を見つけ、拓真は指を止めた。
製品の開発年と合わない。さらに2年前だった。
「この名称、途中で変わったのか」
「さあ。旧コードも、出しますか」
小松が別の束をほどいた。紐の跡が指の腹に残った。
ZS-7になる前の試作番号が見つかった。元の名称で探すと、保存先は現在の製品フォルダではなく、共同研究の領域になっていた。
「まだ、あると思います」
小松は言い、拓真の顔を見て言い直した。
「確かめます」
拓真は旧コードを手帳へ書いた。数字の7だけ、力が入った。
小松が箱を持ち上げた時、底が裂けかけた。2人で膝をついて受け止めた。紙の端が床をこすり、数枚が机の下へ入った。
「もう、箱ごと捨てたほうが楽ですよね」
小松は笑おうとした。拓真は机の下へ手を伸ばし、埃のついた1枚を引き出した。
廃棄確認票だった。確認者の欄は空いていた。
旧サーバー室のファンは、喘ぐような音を立てていた。
拓真の古い認証情報は生きていた。退職者の名前が残る一覧に、自分の入社当時の部署名があった。会社は忘れるべきことを保存し、保存すべきことを消す。
ZS-7長期摂取試験。
フォルダの大半は空だった。試験計画書と、途中までの索引が残っていた。最終アクセス者は中野。拓真がP7を見つけた夜の、少し前だった。
索引の最後に、1行あった。
被験者群B:追跡不能。
400人を対象にした試験。群A、群B。Bの定義欄は黒く塗られていた。人数欄には42。脱落者一覧の断片には、名前の代わりに記号が並んでいる。
追跡不能という言葉を、拓真は何度も読み返した。
人がいなくなったのか。
記録がなくなったのか。
それとも、追いかけるのをやめたのか。
付録の一部に、消し忘れたらしい住所があった。坂口健太。埼玉県川口市。
画面を撮影した。シャッター音を消し忘れ、狭い部屋に乾いた音が響いた。
廊下の足音に、拓真は椅子から立ち上がった。隠れる場所を探す自分が、もうただの確認作業をしている社員ではないことに気づいた。
索引には、追跡不能の行にも請求番号があった。
拓真はその番号を、契約の一覧で探した。試験は終了している。追加の支払いが2回あり、名目は事後対応費となっていた。
金額は閲覧できなかった。経理へ照会する欄を開くと、理由の入力を求められた。
製品の安全性に関わる確認。
そこまで書いて、指を止めた。照会は田所へ戻る。先に見られてしまうかもしれない。
拓真は理由を消し、保存記録の所在確認と書いた。送信しようとした時、画面の下に、緊急性、という項目があるのに気づいた。通常を選ぶと回答まで5営業日、緊急を選ぶと承認者へ通知される。
どちらを選んでも、何かを失うように思えた。
通常のまま送った。
受付済みの表示が出た。画面を閉じる前に、緊急性の欄をもう1度見た。自分が選んだ通常という文字が、そこに残った。
翌日、回答が来た。支払いの内容については、依頼部署への確認を要します。依頼部署は、常盤の開発本部だった。
拓真は受付番号を手帳へ書き、回答を印刷した。行き止まりの紙が1枚増えた。それでも、電話で断られたことと違い、誰がどの部署へ戻したかは残った。
印刷を受け取りに行くと、小松が隣で待っていた。紙を見られないように伏せた自分の手を、拓真は覚えていた。
翌朝、田所はアクセス記録を机に置いた。
「説明しなさい」
「自社製品の試験記録を確認しました」
「許可を取ったか」
「許可が必要な理由を教えてください」
田所の口元が動いた。その時、内線が鳴った。
専務室で常盤隆は、コーヒーにスティックを2本入れた。
「君の入社は2008年だったね」
会社が採用を絞った年。採用通知を受けた時、拓真は母に電話をした。父が亡くなってから、母があれほど明るい声を出したのは初めてだった。
「面接の評価に、誠実とある」
常盤はカップを差し出した。
「開発本部に席を用意した。課長代理だ。君のような人が必要なんだ」
拓真は、思わずカップを受け取った。
課長代理。由香に言えば、喜ぶだろう。美波にも説明しやすい。自分がこれまで我慢してきたことに、初めて値段がついたような気がした。
「群Bは、どうなったんですか」
常盤の指が、ソーサーの縁に触れた。
「必要な資料は提出されている」
「追跡不能とありました」
「早瀬くん。君には、守るものがあるね」
常盤は娘の年齢と、住宅ローンの残り年数を正確に言った。
拓真はカップを置いた。飲んでいないコーヒーの表面に、小さな輪が広がった。
「脅しているんですか」
「君が失うものを、君以上に心配しているんだよ」
常盤は笑わなかった。
そのほうが、怖かった。
専務室を出たあと、人事の担当者から書類が届いた。
異動の意思確認ではなかった。将来の配置についての意向調査とある。通勤可能な地域、介護の有無、配偶者の就業状況、子供の学齢。
常盤が娘の年齢を知っていたことを、拓真は思い出した。
去年、自分で書いた欄だった。
入力済みの画面には、美波の年齢が1つ古いまま残っていた。拓真は更新しようとして、指を止めた。この欄を空ければ、守れるのだろうか。だが、空欄なら配慮が要らないことにされるかもしれない。
担当者へ電話した。
「この情報は、誰が見ますか」
「配置を検討する者です」
「誰ですか」
「必要な範囲で共有します」
拓真は必要な範囲、と手帳に書いた。
「更新しないと、どうなりますか」
「現在の情報で検討されます。ご家庭の事情が変わったなら、更新をお願いします」
礼を言って切った。
画面の隅には、家族の安心が、仕事の力になる、という社内報の案内があった。去年、彼は美波の写真を投稿しようとした。由香が、会社にまで出さなくていいでしょうと言ったので、やめた。
その時は、何をそんなに警戒するのかと思った。
拓真は年齢を直さず、保存もしないで画面を閉じた。未回答という赤い文字が残った。
玲奈が最初にメディクロスの元社員と会ったのは、雨の降る平日の昼だった。
相手は駅から遠いファミリーレストランを指定した。名前を記事に出さないこと、勤務先を探らないこと、家族に連絡しないこと。条件は多かったが、玲奈はすべてを軽く引き受けることはしなかった。
「お約束できることと、できないことを、先に説明します」
相手は不快そうに眉を寄せた。
「守ってくれないんですか」
「守るために、できない約束はしたくありません」
玲奈は録音機を出さず、手帳だけを置いた。
元社員は、試験の進行を管理する仕事をしていた。診療の判断はしていない。だが、参加者からの電話を受け、担当医へ連絡し、来院日を調整した。
「具合が悪いという電話は、ありました」
「何件くらいですか」
「覚えていません」
「記録は?」
「会社にあります」
元社員は水を飲んだ。
「記録に残す欄が、変わったんです」
玲奈は顔を上げた。
「どう変わったんですか」
「最初は、症状を書く欄がありました。途中から、継続できるかどうかの欄が先になった。続けられない人は、理由を選ぶ。仕事の都合、転居、本人希望、その他」
「体調不良は?」
「その他です」
玲奈はその順番を書き留めた。
症状が消えたのではない。症状を分類する箱が変わった。体調を崩した人は、試験を続けられない人になり、試験を続けられない人は、解析に使わない人になる。
「誰の指示ですか」
「会議で決まりました」
「誰が提案しましたか」
相手は首を振った。
「覚えていません。本当に。誰かが、集計しやすい形にしましょうと言った。それだけです」
玲奈は、覚えていないという答えを消さなかった。
覚えていないことを、嘘だと決めつけることもできない。仕事の中で変わる小さな書式を、人はすべて覚えてはいない。だが、その書式の向こうで消えた人は、消えたままだった。
「どうして、今、話してくださるんですか」
元社員は窓を見た。
「子供が、生まれました」
玲奈はペンを止めた。
「そうですか」
「そう言うと、いい話みたいになるでしょう。違うんです。子供が生まれるまで、思い出さないようにできた。その程度だったんです、私には」
雨粒が窓を流れた。
玲奈は、相手が自分を悪く言うことで、先に許しを求めているのかもしれないと思った。それでも、許すことも裁くことも、自分の仕事ではなかった。
「覚えていることを、順番に聞かせてください」
元社員は鞄から、古い手帳を出した。
会社の資料ではない。私物の予定帳だった。面談日、電話を受けた日、上司へ折り返した時刻。名前の一部は略されていたが、1人だけ、住所まで残っていた。
坂口健太。
「この人のお母さんから、何度も電話がありました。私、最後は上司に代わってもらったんです」
元社員はページを押さえた。
「それで、仕事が片づいたと思った」
玲奈は住所を書き写した。
取材が進んだという手応えと、誰かが2年待ったことを利用しているような感覚が、同時にあった。
店を出る時、相手は傘を開きながら聞いた。
「記事になったら、会社は変わりますか」
玲奈はすぐには答えなかった。
「変わるように、確かめます。でも、変わると約束はできません」
相手は少しだけ笑った。
「記者って、もっと、はっきり言う人だと思っていました」
「はっきり言うために、今は分けているんです」
玲奈は傘を差した。
父が昔、同じようなことを言った気がした。
何を確かめ、何をまだ知らないか。それを分けるのが仕事だと。
父の言葉を使って父のしたことへ近づいている。そのことを、相手には話さなかった。
川口の坂口家の前に、玲奈がいた。
「また、偶然ですか」
「試験会社の元社員から、この住所を聞きました」
玲奈は名刺を差し出さなかった。拓真は今度は自分から、名刺をくださいと言った。
拓真がチャイムを押すと、家の奥で物音がした。
玄関に出てきた坂口澄江は、2人をしばらく見ていた。
「健太さんは、ご在宅でしょうか」
澄江の視線が拓真の背後へ抜けた。その言葉を聞いた時、息子がまだどこかで生きている家の人になったような気がした。
ほんの一瞬だった。
それから、いつもの答えを口にした。
「2年前に、亡くなりました」
家の中は、昼なのに薄暗かった。
仏壇の写真の青年は、拓真が想像していたより若かった。24歳という数字は、書類の上では成人を示すだけだったが、母親の隣に置かれた写真では、まだ誰かに夕食を用意してもらう年齢に見えた。
「試験は、食べるだけだと言われたんです」
澄江は湯呑みを並べた。手が慣れすぎていた。何度も誰かに同じ話をし、そのたびに同じ場所へ湯呑みを置いたのかもしれなかった。
「就職が決まるまでのつなぎで。月10万円。私も、いい話だと思ってしまった」
健太は試験の途中から倒れるようになった。病院では原因が分からず、試験会社からは個人差だと説明された。最後は自室で亡くなった。死因の欄には急性心不全。
澄江が封筒を出した。
「3000万円でした」
守秘義務の書類。差出人はメディクロス。
「主人の治療費があったんです。断れば、健太のことを信じていることになると思った。でも、受け取れば主人が助かるかもしれない。私、どっちを選んでも、誰かを見捨てるようで」
玲奈は録音機に手を置いた。
「ここから先は、録音を止めます」
澄江は首を振った。
「止めないで。私がもらったことも、残して」
拓真は、自分の名刺を出せなかった。
会社名を言った時、澄江の顔に怒りは浮かばなかった。
「じゃあ、知っているんですね」
「知りませんでした」
でした、と言ってから、拓真は言い直した。
「まだ、知りません。調べています」
澄江は仏壇を見た。
「分かったら、私にも教えてください。健太が、何を食べたのか」
坂口家を出る前、澄江は健太の部屋を見ますかと聞いた。
玲奈は、差し支えなければと答えた。拓真は断りかけた。遺族の家に上がり、話を聞くだけでも、自分には許されていないことをしている気がした。部屋まで見るのは、踏み込みすぎではないか。
澄江は戸を開けた。
小さな部屋だった。ベッドと机、背の低い本棚。服は畳まれ、床に物はなかった。片づけられているのに、誰かが帰ってきてもすぐ使える状態だった。
「全部、そのままではありません。洗濯はしました。埃も、たまるから」
澄江は机の椅子を引いた。
「そのままにしていると、よく言われるんです。でも、そのままって、何でしょうね。洗わないほうがいいのか、掃除しないほうがいいのか。私は、健太が汚い部屋で暮らしていたみたいになるのが嫌で」
拓真は机の上を見た。
筆記具が、空き缶に入っていた。ミナトフーズの古い菓子の缶だった。自分の会社の商品が、死んだ青年の部屋で、まだ役に立っていた。
「料理が、好きだったんです」
澄江は本棚から薄いノートを出した。
材料の分量。火にかける時間。失敗した理由。丸い字で、次は焦がさない、と書いてある。
「これ、見てもいいですか」
拓真が聞くと、澄江はうなずいた。
レシピの横に、母は薄味、父は熱いのが苦手、とあった。
食べる人のことが、書いてあった。
拓真はページを閉じた。
自分は仕事で、食べる人のことをどれほど書いてきただろう。規格値、測定値、出荷先。数字と名称の中に、食べる人は含まれているつもりだった。だが、熱いのが苦手な人も、薄味が好きな人も、そこにはいなかった。
「健太さんのこと、記事でどう紹介するか、あとで確認させてください」
玲奈が言った。
澄江は少し考えた。
「被験者だった人、だけにはしないでほしいです」
「はい」
「でも、立派な人だったとも、書かなくていい。寝坊もしたし、洗濯物を裏返しのまま出したし、怒ると返事をしなかった」
澄江はノートを受け取った。
「そういう子が、死んだんです」
拓真は頭を下げた。
謝罪のつもりだったのか、礼のつもりだったのか、自分でも分からなかった。
澄江は、頭を上げてくださいとは言わなかった。
そのことが、ありがたかった。
帰り道、玲奈は駅まで歩こうと言った。
「組みませんか」
「僕は記者じゃありません」
「私は、あなたの会社のデータを読めません」
「家族がいます」
「だから、やめるんですか」
拓真は立ち止まった。
「家族を理由にするのが、卑怯だと言いたいんですか」
玲奈はすぐには答えなかった。
「いいえ。私にも、理由にしたい家族がいます」
その言葉の意味を、拓真はまだ知らなかった。
電車の中で、拓真は美波の写真を開いた。
最近の写真は、由香から送られてきたものばかりだった。公園、習字の作品、学校の帰り道。自分が写っているものは少なかった。
家族のために働いている。
それは嘘ではない。だが、その言葉を言えば、家族のいる時間にいなかったことを、説明しなくて済んだ。
坂口健太のノートには、食べる人の好みが書いてあった。
自分は、美波が今、何をいちばん好きなのか知っているだろうか。甘いもの。ホットケーキ。ココア。それは、もっと小さかった頃から変わらない答えだった。変わっていないのか、自分が更新していないのか。
由香へメッセージを書いた。
今から帰る。
それだけでは足りないと思い、続きを書いた。
少し、話したいことがある。
送信する前に、指が止まった。
帰ってから話せばいい。文字にすると、余計に心配するかもしれない。
拓真は2行目を消した。
電車は、家に近づいていた。
話すための時間は、確実に減っていた。
帰宅すると、由香が上着を受け取った。ポケットに入れた契約書のコピーが、紙の音を立てた。
拓真は聞こえなかったふりをした。
由香も、聞かなかった。
その夜、夫婦の間でいちばん大きなものは、2人が口にしなかった紙の音だった。
坂口家を訪ねた翌日、玲奈は別の遺族へ連絡した。
元社員が残していた手帳に、電話番号があった。番号が今も使われているか分からず、最初は短い文を送った。取材の趣旨と、自分の所属。突然の連絡を詫び、話をするかどうかは相手が決められることを伝えた。
返事は、夕方に来た。
もう、連絡しないでください。
玲奈は、その文を何度か読んだ。
分かりました、と返した。
拓真は隣で見ていた。
「もう1度、説明しなくていいんですか」
「しません」
「大事な話なのに」
玲奈は電話を置いた。
「大事だから、話さなくてはいけないわけではありません」
拓真は口を閉じた。
自分は、被害を受けた人なら真相を知りたいはずだと思っていた。知りたい人なら、調べる人へ協力するはずだとも。
だが、相手には今の暮らしがある。家族に話していないこともあるかもしれない。会社の名前を見るだけで、眠れなくなる人もいるだろう。
拓真は、その人の顔を知らない。
知らない人の望みを、勝手に決めていた。
「連絡しないことも、記録するんですか」
「はい。ほかの取材者が同じ経路で連絡しないように、扱いに気をつけます」
玲奈は手帳の該当箇所に、再連絡しない、と書いた。
取材が進まなかったことを示す線だった。
同時に、相手の意思が届いたことを示す線でもあった。
その夜、玲奈は取材の一覧を作り直した。
拓真は連絡不能の欄に入った名前を見て、そこではないと言った。
「返事は来たでしょう」
「そうですね」
玲奈は列を増やした。再連絡不可と入力すると、画面が横へ広がった。印刷した時には1枚に収まらなくなる。
「記事に、何人に断られたかも書くんですか」
「必要なら。ただ、断られた数で、残った人の話を薄めたくはない」
「逆に、断った人も会社を疑っているかもしれない」
「かもしれません」
玲奈はそこから先を打たなかった。
拓真は、会社で使っていた脱落者一覧を思い出した。本人希望という同じ文字が、縦に続いていた。
「理由まで、聞けばよかったんじゃないですか」
言ってから、玲奈の指が止まったのを見た。
「聞かないと約束したんでしたね」
「ええ」
新しい欄の右には、広い空白ができた。玲奈は表の幅を狭めず、2枚に分けて印刷した。拓真は2枚目を受け取った。載っていたのは、たった1行だった。
数日後、澄江から電話が来た。
話したくないと答えた遺族から、自分のところへ連絡があったという。試験会社を通じて、以前に1度だけ連絡先を交換していた。
玲奈は、こちらから連絡しない約束をしたと伝えた。
「その人の話を、私から伝えてもいいか、聞いてあります」
澄江は言った。
玲奈は、どこまでの同意かを確かめた。
名前を出さない。住んでいる場所も、家族構成も書かない。亡くなった人が試験に参加していたことは、必要な範囲で確認してよい。ただし、本人の代わりに澄江が証言する形にはしない。
条件を聞き終えると、玲奈はうなずいた。
「何と、おっしゃっていましたか」
「私が話さないことを、会社を許したことにしないでほしいって」
玲奈は、その文をそのまま書いた。
話さない人は、賛成している人ではない。
だが、反対している人として勝手に数えてもいけない。
澄江は続けた。
「私は話したい。でも、その人は、今は話したくない。それで、私たちが仲違いする必要はないんですよね」
「ないと思います」
「よかった」
澄江の声が少し緩んだ。
「同じことがあった人は、同じ気持ちでいなくちゃいけないのかと思って」
玲奈は手帳を見た。
同じ試験。同じ会社。同じ示談書。
それでも、失った人も、その後の暮らしも違う。
共通点を見つけるのが取材なら、違いを残すことも取材だった。
帰宅すると、由香が夕食の皿を出していた。
「遅くなるって、言ってくれればよかったのに」
「連絡した」
「7時を過ぎてからでしょう」
拓真は台所の時計を見た。9時18分。電子レンジの中に、自分の皿だけが入っていた。
今日は誰に会ったかを話そうとした。氏名を伏せ、会社のことを避けると、説明はひどく曖昧になった。
「仕事で、調べていることがある。人が話したくないと言った時、聞かないのも仕事なんだって」
「私には聞くの?」
拓真は箸を止めた。
「私が何で怒ってるか、聞くの」
廊下で美波が歯を磨いていた。吐き出す音が聞こえた。由香は声を落とした。
「遅いからだけじゃない。美波が、パパの分も残そうって言うの。それで待って、先に食べて、冷蔵庫へ入れるの。何をしてるか知らない人を、毎晩待たせないで」
拓真は明日こそ話そうと思い、その言葉を口にしかけた。
「今、うまく説明できない。自分でも、怖い」
由香は彼を見た。
「そういう話なら、聞く」
電子レンジが鳴った。
彼は皿を取り出しながら、中野が休職したことを話した。坂口家のことまでは言えなかった。由香はそれに気づいたように、まだあるのねと聞いた。
「ある」
「全部言えないから、何も言わないのは、やめて」
拓真はうなずいた。由香はテーブルの向かいへ座った。食事はもう済ませていたが、コップに水を注いだ。




