第1章 甘い数字
坂口健太が最後に母と食べた朝食は、冷凍した食パンだった。
トースターの調子が悪く、片面だけが焦げた。澄江が包丁の背で黒いところを落としていると、健太はそのままでいいと言った。
「どうせ、バター塗るんだから」
「苦いでしょう」
「苦いのがうまい時もある」
大人みたいなことを言うのね、と澄江は笑った。24歳の息子に向かって言うことではなかったが、就職の話になると口を閉じる息子が、朝から冗談を言うのがうれしかった。
健太は食卓に封筒を置いた。
今月の分、とだけ言った。
中には3万円が入っていた。家に入れなくてもいいと何度も言ったのに、彼は毎月、試験の謝礼から同じ額を抜いていた。澄江は受け取るたび、使わずに取っておこうと思った。そして月末には、夫の病院の支払いに使った。
取っておけなかったことを、息子には言っていなかった。
「今日も、検査?」
「うん。採血して、問診」
「この前、ふらついたって言ってたのは?」
「話すよ」
健太はコーヒーを飲んだ。砂糖の瓶には手を伸ばさなかった。試験に参加してから、渡された製品以外の甘味料を控えるよう指示されていた。
澄江は、きちんとした試験なのだと思った。
食べるものを記録し、決まった日に検査をし、分からないことは担当者に電話できる。そういう手順があることと、その手順が人を守っていることは、澄江の中で同じ意味だった。
「帰りに、牛乳買ってきてくれる?」
「分かった」
「安いほうでいいからね」
「分かってるって」
息子はパンの最後のひとかけらを口に入れた。
澄江が覚えているのは、特別な言葉ではない。牛乳の値段のことだった。あの時、安いほうでいいと言わなければ、もう少し違う会話になっただろうか。あとになって何度も考えたが、何を言えばよかったのかは分からなかった。
健太は駅前のコンビニで、調理師学校の資料を印刷した。
自宅のプリンターはインクが切れていた。新しいインクを買うより、必要なページだけをここで出すほうが安かった。
入学金、授業料、実習費。
数字の横に、自分の貯金額を書き込んだ。足りない額は、試験をあと半年続ければ届くかもしれなかった。もちろん、働きながら通う方法もある。学校に問い合わせればいい。だが電話をかけて、今は何をしていますかと聞かれるのが嫌だった。
仕事を辞めた理由を説明する時、健太はいつも、少しだけ嘘をついた。
人間関係が合わなくて。
それは本当だったが、全部ではなかった。忙しい店で、足りない材料を足りていることにして帳尻を合わせるよう言われた。嫌だと思った。それでも、最初の何回かは従った。嫌だったから辞めたと話すと、最後まで嫌なことをしなかった人間のようになってしまう。
自分は、そんな立派な人間ではなかった。
ただ、もう少しちゃんと覚えたかった。包丁の使い方も、食材のことも、人に出していいものを見分けることも。
試験施設の受付で、担当者は健太の名前を確認した。
「体調は、お変わりありませんか」
「少し、ふらつくことがあって」
担当者は紙に印をつけた。
「食事は取れていますか」
「はい」
「睡眠は」
「普通です」
「では、先生に伝えておきますね」
健太はうなずいた。
伝えておく、という言葉が、そこで話を終わらせるためにも使われることを、まだ知らなかった。
帰宅した時、澄江は夫の通院に付き添っていて留守だった。
健太は牛乳を冷蔵庫に入れた。特売品ではなかった。棚の前で値札を見ている時、急に汗が出て、早く会計を済ませたくなったのだ。
母に叱られるほどの差額ではない。それでもレシートを捨てず、食卓に置いた。
問診では、様子を見ましょうと言われた。検査の結果は後日まとめて説明されるという。健太は、今夜の摂取分を見た。透明な袋に、日付と番号が印刷されていた。
番号がついているものは、誰かが管理している。
彼はそのことを、安心する理由にした。
夕方、妹から短いメッセージが来た。父の具合はどうかという問い合わせだった。遠くで働く妹は、毎月少しずつ金を送っていた。
健太は、大丈夫と返した。
父も、母も、自分も。
大丈夫と書けば、しばらく誰も心配しなくて済む。
その短い言葉を、彼は親切のつもりで使った。
翌朝、澄江は息子を起こしに行った。
いつもなら、戸を開ける前に声をかける。24歳の息子の部屋へ勝手に入ることを、少しずつ遠慮するようになっていた。
その朝は、返事がなかった。
もう1度呼び、戸を開けた。
窓のカーテンが少しだけ揺れていた。机の上に、調理師学校の紙が広がっていた。コップに、飲み残した水があった。
澄江は息子の肩に触れた。
冷たかった。
そのあと自分が何をしたのか、順番は思い出せない。救急車を呼んだ。隣の家の人が来た。夫が杖を落とした。誰かが、ここに座ってくださいと言った。
健太の名前だけを、何度も呼んだ。
呼べば返事をするという習慣が、息子が死んだことより強く、しばらく体に残っていた。
葬儀のあと、メディクロスの担当者が来た。
黒い服ではなかった。落ち着いた色の上着に、細い縞のネクタイ。仕事の途中に寄ったような格好だった。
彼は丁寧に頭を下げた。
ご心痛、お察しします。
試験との関連は確認されていません。
会社として、できる限りのお見舞いを。
澄江は、どの言葉もよく分からなかった。関連がないのなら、なぜこの人は来たのか。見舞いというのは、死んだ人にも使う言葉なのか。
書類には金額が書いてあった。
3000万円。
夫の治療費。借金。これからの暮らし。
息子が毎月入れていた3万円を、1000回受け取る額だった。
担当者は、今日すぐに決める必要はありませんと言った。だが、返送用の封筒と、署名する場所に貼った小さな付箋は置いていった。
付箋は黄色かった。
澄江はその色を、あとになっても忘れられなかった。人が死んだあとの書類にも、事務用品売り場に並んでいるものと同じ、明るい色が使われる。
夫は何も言わなかった。
言わないことが、頼んでいることに聞こえた。
澄江は署名した。
息子の名前を書く時より、自分の名前を書く時のほうが手が震えた。
それから2年近く、澄江は冷蔵庫に牛乳を2本入れる癖を直せなかった。
健太が飲む分と、自分たちの分。
期限が来ると、料理に使った。捨てるのは嫌だった。息子が最後に買ってきた牛乳を、無駄にしたような気がした。
テレビでは、新しい甘味料の広告が流れ始めた。
同じ会社の名前だった。
澄江は最初、音を消した。それから画面を消すようになった。最後には、広告の流れる時間に台所へ行くようになった。
電話をかけようと思ったことは、何度もある。
だが受話器を取ると、黄色い付箋を思い出した。
自分が署名した紙。
自分が受け取った金。
誰かに聞かれたら、まずそのことを話さなくてはいけない。
息子の死について尋ねる前に、自分の選択を説明しなくてはいけない。
その朝も、広告の明るい音楽が台所まで聞こえてきた。
澄江は包丁を置き、居間へ戻ってテレビを消した。流しには、夫と自分の2人分の皿が残っていた。
同じ朝、早瀬家の食卓には、3人分の皿が並んでいた。
ゼロは、何杯かけてもゼロでしょう。
美波はそう言って、ホットケーキの真ん中に琥珀色のシロップを落とした。液体は焼き目に沿って広がり、白い皿に小さな池をつくった。10歳の娘が使う「ゼロ」という言葉には、まだ何も失っていない人間だけが持つ明るさがあった。
「算数の時間じゃないんだから」
由香が笑いながら瓶を取り上げる。その手つきには、叱るほどの強さがない。砂糖だった頃には、もう少し厳しかった。かけすぎだとか、虫歯になるとか、食べ終わる前から言わなくてはいけなかった。それがなくなっただけでも、この商品は食卓を変えていた。
拓真はネクタイの結び目を直した。鏡の代わりに、消えたテレビの画面を見ていた。41歳の顔が、窓から差す朝の光に薄く重なっている。
「パパの会社の、学校でも飲んでるよ」
「そうか」
「みんな、いいなって。パパ、これ作ったの?」
「作った人は、ほかにいるよ。パパは調べるほう」
「何を?」
「ちゃんと、安全かどうか」
美波はスプーンを止めた。それから、安心したように笑った。
「じゃあ大丈夫だね」
大丈夫。
拓真はうなずいた。毎朝、会社の書類に押す印と同じくらい、自然に。
そのうなずきが何を引き受けたのか、考えたことはなかった。
朝食のあと、由香は冷蔵庫に貼った予定表を指さした。
「土曜、忘れてない?」
拓真は靴下を履きながら、何のことだったか考えた。
由香は答えを待った。
「学校の、何かだっけ」
「学芸会。美波、ずっと言ってたでしょう」
拓真は娘を見た。
美波は皿の端に残ったシロップを、フォークの先で伸ばしていた。
「行くよ」
「本当?」
「本当」
「この前も、そう言った」
運動会のことだった。出荷前の確認が長引き、午後から行くつもりが、結局終わるまで会社を出られなかった。由香が送ってくれた動画で、娘が走るところを見た。画面の向こうで美波はゴールし、こちらでは分析装置の終了音が鳴った。
「今度は、予定を入れない」
「仕事が入ったら?」
拓真は笑ってごまかしかけた。
由香が冷蔵庫の扉を閉めた。
「行けるかどうかより、分かった時に言ってね」
美波はフォークを置いた。
「私、せりふ少ないから、すぐ終わるよ」
その言い方が、拓真には少し引っかかった。
自分が行けなくても困らないように、娘が先に役の小ささを説明している。
「どんな役なんだ」
「木」
「木?」
「森の木。だけど、しゃべるの」
美波は背筋を伸ばした。
「ここは、みんなの森です」
少し高い声だった。練習した声だと分かった。
拓真は拍手をした。
美波は、そういうのいいから、と言って笑った。
その時、拓真の電話が震えた。会社からの自動通知だった。未処理の承認依頼がある。
彼は画面を見てから、もう1度娘を見た。
「あとで、もう1回聞かせて」
美波は、うん、と答えた。
あとで。
家の中には、その言葉で先へ送られたものが、見えないまま積まれていた。
駅へ向かう道で、拓真は住宅ローンの引き落としを思い出した。あと26年。美波が自分と同じくらいの年になる頃、ようやくこの家は本当に自分たちのものになる。その計算をすると、いつも少し息苦しかった。けれど、家の窓に娘の描いた花が貼られているのを見ると、別の場所に住むことは考えられなくなった。
渋谷の大型ビジョンでは、ゼロスイートの広告が流れていた。白い皿。白い服。ケーキを食べる人の白い歯。映像の中には、食べたあとの皿を洗う人も、商品の製造記録に押印する人もいない。
罪悪感ゼロ。
拓真は、その言葉を見上げた。
罪悪感というものまで、商品から取り除けるのだろうか。
信号が変わり、背後の人に押されるように歩きだした。
ミナトフーズの品質管理部は、本社の華やかな吹き抜けからいちばん遠い棟にあった。窓のない分析室に入ると、溶媒と樹脂の匂いがした。拓真には、こちらのほうが会社の本当の匂いに思えた。
昼の品質会議では、苦情件数が報告された。
包装の破れ、液漏れ、異物の疑い。数字は前月比で減っていた。担当者が、改善活動の効果ですと説明し、田所がうなずいた。
最後のページに、体調に関する問い合わせがあった。
飲んだあとに気分が悪くなった。手が震えた。空腹時に汗が出た。
いずれも、製品との関連は不明とされていた。
拓真は資料をめくり返した。
「この3件、同じ製品ですか」
担当者は画面を確認した。
「飲料の種類は違います」
「甘味料は?」
「ゼロスイートです。ただ、摂取量も分からないので」
田所が時計を見た。
「医療の判断は、うちではできない。お客様相談室から、受診を勧めている」
「検体は残っていますか」
「開封済みなので、品質保証の対象外だ」
拓真はそれ以上聞かなかった。
会議の目的は、決められた項目を確認し、決められた時間で終えることだった。話を長くする人間は、慎重な人ではなく、要点をまとめられない人として扱われる。
自分も若い頃、先輩が細かなことを何度も聞くのを見て、また始まったと思ったことがある。
会議が終わると、中野が資料を持って近づいてきた。
「気になるのか」
「似てると思って」
「何に」
「症状が」
中野は紙を見た。
「似てるだけじゃ、何も言えないな」
「そうだけど」
「残しておけよ」
中野は声を落とした。
「関連不明って書かれたものは、あとで探しにくい」
拓真は資料の端に日付を書いた。
その時は、中野が何を探し続けているのか、考えなかった。
その夜、分析装置の画面に、小さな山が現れた。
ロット2611。
出荷前確認用の試料だった。主要成分のピークのずっと右、普段なら基線が続く位置に、爪の先ほどの盛り上がりがある。
最初は洗浄不足を疑った。空試験を入れ、標準試料を測り、別の瓶から取り直した試料を流した。山は同じ場所に戻ってきた。
3回。
拓真は手帳に「未同定ピーク P7」と記した。Pはピークの頭文字、7は自分の整理番号にすぎない。名前をつけたからといって、正体が分かったわけではなかった。
「まだいたのか」
中野誠が、缶コーヒーを2本持って立っていた。同期の中野は、拓真より少し早く白髪が増えた。笑うと目尻が深くなり、笑わないと疲れがそのまま残った。
「お前も帰らないんだな」
「帰っても洗濯物が待ってるだけだ」
中野は缶を机に置いた。ゼロスイートの青いロゴが、蛍光灯を反射した。
「これ、見てくれ」
画面をのぞいた中野の指が止まった。
ほんの短い停止だった。拓真はあとになって、その時間を何度も思い返すことになる。あれは驚きではなく、知っていたことが現実になった人間のためらいだったのだと。
「どのロットだ」
「2611。来週出荷分」
「誰かに言ったか」
「部長に上げる。今夜、連絡する」
中野は画面から目を離さなかった。
「工程のほうを先に当たってみる。俺に知り合いがいる」
「変更届は来てないけど」
「だからだよ。届いてない変更かもしれない」
言われてみれば、その通りだった。拓真はデータの複製を中野に送った。
缶を開けると、短い音がした。
中野は自分の缶を開けなかった。
測定が終わったあと、拓真はすぐに異常だとは書かなかった。
装置の中に前の試料が残っていた可能性がある。容器の汚れかもしれない。試料を作る時に使った水や器具の影響も、確かめる必要があった。
彼は何も入れていない試料を測った。
山は出なかった。
別の容器で作り直した。
同じ位置に、小さな山が出た。
保存していた前のロットを測ると、目立つ山はなかった。だが、測定条件が違えば、見え方も変わる。拓真は条件を揃え、順番を変えて測った。
深夜の分析室には、装置の音しかなかった。
山が消えてほしいと思った。
消えれば、器具の汚れだったと書ける。再測定して問題なし。仕事は終わり、家へ帰れる。
消えてほしいと思いながら測ることが、結果を見る目を変えないように、彼は先に確認する項目を書いた。
何が出れば、何を疑うか。
何が出なくても、何をまだ言えないか。
学生の頃に教わった、地味な手順だった。
装置が終了音を鳴らした。
山は、残っていた。
拓真は椅子に座った。
正体は分からない。
危険かどうかも分からない。
だが、いつもの測定の中で見過ごしてよい違いではない。
そこまでを、記録した。
午前0時を過ぎ、由香から連絡が来た。
まだ会社?
あと少し、と打った。送ってから、報告書の空欄を見た。あと少しで埋められる欄はなかった。
田所の内線を押した。呼び出しは4回で切れ、携帯へ転送された。
「どうした」
寝ていた声ではなかった。背後で食器の音がした。
「2611に未知のピークがあります。空試験では出ません。前のロットにも、同じ条件では出ていません」
「数値は規格内か」
「既知の成分は」
「なら、明日の朝だ。今、何を決めろと言うんだ」
拓真は言葉に詰まった。出荷準備を止めてほしい。そう言うべきだった。だが、装置の画面にある山に、自分はまだ名前をつけられなかった。
「報告書を送ります」
「見ておく。遅くまでご苦労」
通話が切れた。
由香から、美波は寝た、と届いていた。拓真は田所へ報告書を送り、受信済みの表示を確かめた。会社の誰かに渡った。それで、席を立てる気がした。
帰りのエレベーターで、電話したことを手帳に追記した。0時8分、部長へ連絡。紙の上の自分は、必要なことをした社員になっていた。
扉に映る顔を見て、もう1度だけ電話を取り出した。
田所の番号ではなく、由香との画面を開いた。
今から帰る。
今度は、確かなことだった。
翌朝、中野の席は空いていた。
始業から40分後、田所修部長がフロアに出てきて、中野の休職を告げた。体調不良。本人の希望。詮索しないように。言葉は短く、あらかじめ順番が決められているようだった。
拓真が昨夜の分析について報告すると、田所は部長室の扉を閉めた。
「2611は合格にした」
「まだ原因が分かっていません」
「規格値は外れていない」
「規格にない成分です」
田所は眼鏡を外した。机には娘らしい少女の写真があった。ケーキを前に笑っている。拓真は、その写真を何度も見ていたが、名前は知らなかった。
「早瀬くん。規格外と、規格にないことは違う」
「だから確認が必要です」
「君は、会社の出荷を止められるだけの根拠を持っているのか」
持っていなかった。分からないから止めてほしいというのは、会社の中では弱い言葉だった。分かるまで出してはいけないはずなのに。
席に戻ってデータを開くと、小さな山は消えていた。
画面の基線は、嘘のように平らだった。
更新時刻は6時12分。拓真がまだ自宅で眠っていた時間だった。
彼は画面を閉じ、手帳を開いた。自分の字で書かれたP7だけが、昨夜が存在したことを示していた。
昼休み、拓真は中野に最後に送ったメッセージを開いた。
昨日のデータ、確認できたか。
その下に、未読のままの吹き出しがあった。
体調、大丈夫か。
送信時刻の間は17分しかない。昨日まで仕事を頼めた相手に、今日は返事そのものを頼んでいる。
自席から中野の机が見えた。マグカップの取っ手は、いつも通り左を向いていた。右利きなのに左へ向けるのは、資料にぶつけないためだった。
拓真はカップを洗おうとして、手を引っ込めた。
あの飲み会で、妹の話をしていた。
送別会のあと、駅前の店で2人になった。中野が、もういないんだ、と言った。拓真は地元にいないという意味だと思い、結婚か、と聞いた気がする。
そんなところだ。
中野はそう答えた。それから拓真が塾の月謝の話をした。娘はまだ10歳なのに、という話だった。中野は最後まで聞いた。
今、電話すれば、あの夜の続きから話せるだろうか。
呼び出した。留守番電話になった。
「早瀬。部長から聞いた。何か、必要なものがあったら」
録音の途中で、言葉がなくなった。
必要なものが何なのか、聞いたことがなかった。
「電話、くれ」
それだけ足して切った。
中野の引き出しには鍵が差さっていた。昨日は横向きだった鍵が、縦になっている。上に置かれたカレンダーは今月のままだった。
拓真は時刻を書いた紙をカップの下へ挟んだ。席に戻った中野が、自分の電話を聞かずに済ませても、来たことだけは分かるようにした。
中野の部屋を訪ねたのは、その日の夜だった。
管理人は、朝早く引っ越したと言った。体調を崩した人間の引っ越しにしては手際がよかった。ドアの前には家具を引きずった跡もなく、郵便受けから名前まで外されていた。
階段の隅に、紙の切れ端が落ちていた。
色鉛筆で描いた花。裏に、ミサキ。
拓真はそれを拾った。中野に妹がいたことを、知っていたはずだった。いつ、どんな話の中で聞いたのかは思い出せない。18年近く同じ会社にいて、互いの残業時間は知っていても、家族の名前を知らなかった。
駅前で、女性に声をかけられた。
「早瀬拓真さんですね」
名刺には、週刊ビジネス・クロス、神崎玲奈とあった。
「中野さんと、今日会う約束でした」
「休職だそうです」
「会社は、そう説明したんですね」
玲奈は名刺を差し出したまま、拓真を見ていた。急かさないことに慣れた目だった。
「3日前、連絡がありました。ゼロスイートについて話したい、と」
拓真は名刺を受け取らなかった。受け取った瞬間に、どちらかの側に立つ気がした。
「何も知りません」
「では、なぜ中野さんの家に?」
答えずに改札を抜けた。
電車の窓に映る自分は、朝と同じ顔をしていた。それが不思議だった。
帰宅すると、美波がココアを運んできた。
「パパも飲む?」
取っ手をつかんだ指が、細かく震えていた。
カップが傾き、茶色い液体がテーブルを走った。美波は驚いたように自分の手を見た。
「変なの。力、入らなかった」
由香が布巾を取りに立つ。拓真は娘の額に浮いた汗を見ていた。
疲れているのだろう。寝不足かもしれない。いくらでも説明はできた。
テーブルの中央に、ゼロスイートの瓶があった。
拓真は瓶を手に取った。裏の品質表示の下に、自社の問い合わせ窓口が印刷されている。
安全かどうか、調べる仕事。
朝、自分が言った言葉が、娘のこぼしたココアの中に沈んでいた。




