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ゼロ・カロリー  作者: ぽむぽむ


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第10章 ゼロではない朝

路肩に止まった車の足元に、割れた電話があった。

 拓真は玲奈と現場へ向かう前に警察へ連絡した。常盤の身に何が起きたかは分からない。だからこそ、勝手に結論を作らず、通話の経過と位置情報を伝えた。

 現場では、鞄も常盤も見つからなかった。

 玲奈は車に触れようとした拓真の手を止めた。

「ここは、任せましょう」

「でも」

「私たちができることを、なくさないためです」

 拓真は手を下ろした。

 何もしないことと、ほかの人に任せることは違う。頭では分かっていても、手を止めるほうが難しかった。


 常盤が目を開けると、港がいた。

 病院の個室だった。額に処置を受けた感覚があり、看護師が転倒の経緯を尋ねた。

「覚えているところからで結構です」

 会社の車へ乗るよう求められた。断った。鞄の取っ手を握った時、腕をつかまれた。そこから先は、順番に話せなかった。

 港が、足を滑らせたんだと言った。

 看護師は常盤のほうを向いたまま、そうですか、と聞いた。

「私は、帰りたい」

「診察のあと、先生にお伝えしますね」

 看護師が出ると、港は椅子を寄せた。

「君は疲れている。今夜は休め。電話の対応も、こちらでする」

「私の電話は」

「壊れていた」

 机の上に、常盤の鞄があった。港はファイルだけを抜き取っていた。

「明日の会見へは、行かせないつもりか」

「君が今、冷静な判断をできる状態だと思うか」

 廊下で靴音がした。港は声を落とした。

「家族には、こちらから連絡した。奥さんも休めと言っている」

「妻と、話したい」

「眠っている」

 常盤はナースコールを見た。港も見た。

 押せば大きなことになる。会社の話が病院へ出る。そう考えている自分がいた。

「中野にも、同じ説明をした」

 常盤は言った。

「本人の希望、体調不良。私も、そう言った」

 港は、昔の話はいいと答えた。

 常盤はボタンを押した。


 常盤の電話が途切れたあと、田所は家の机で、渡された紙を広げた。

 保存先の一覧。文書番号。決裁日。注意表示の検討案。

 ファイルそのものがなくても、会社の中には対応する記録があるはずだった。だが、今の自分には権限がない。小松に連絡すれば、部下を危険へ引き入れる。

 田所は電話を手に取った。

 引き入れるかどうかを、自分が決めるのではない。

 何が起きたかを話し、相手が選べるようにする。

 小松は電話に出た。

「常盤さんと、連絡が取れない」

 田所は経緯を説明した。

 小松は最後まで聞いた。

「僕が、確認できる範囲を確認します」

「無理はしないでくれ」

「何を無理とするかも、話しましょう」

 田所はうなずいた。

 小松は、保存領域の管理者へ正式な保全依頼が出ていることを確認した。自分が閲覧できる監査記録と、常盤が渡した文書番号を照合する。権限を越えて侵入するのではない。見られるものを、見られるうちに残す。

 同時に田所は、常盤の所在を探した。

 救急搬送の可能性を考え、警察へ通話の経緯を伝えた。関連病院へ問い合わせると、最初は個人情報を理由に答えられないと言われた。

 田所は、入院しているかを自分に教えてほしいのではなく、本人に連絡を取りたい人がいると伝えてほしいと頼んだ。

 電話を切って、別の番号へかけた。

 何度も同じ説明をした。

 自分が部長だった頃、電話を受けた部下へ、要点だけ聞けと言ったことを思い出した。

 今は、要点の外にある切迫を、誰かに受け取ってほしかった。


 午前4時を過ぎ、病院から折り返しがあった。

 本人が連絡を希望しているという。

 常盤の声はかすれていた。

「田所くんか」

「はい。今、どこですか」

 常盤は病院名を告げた。

「外へ、出られますか」

「私は、出たい」

 その言葉を、田所ははっきり聞いた。

 彼は警察と病院側へ、本人の意思を伝えた。自分が勝手に連れ出すのではなく、常盤が望んでいることを確認してもらう。

 電話の向こうで、職員が常盤に質問した。

 帰宅を希望しますか。

 面会を希望しますか。

 誰と連絡を取りたいですか。

 1つずつ、常盤が答えた。

 本人の希望という言葉が、初めて本人の口から出た。

 田所は目を閉じた。

 それだけのことが、これほど遠かった。


 午前5時、拓真たちは会見の資料を並べていた。

 群Bの原本はない。常盤の意思決定資料も届かない。

 あるのは、複数の証言、契約書、保存試料の再測定結果、外部分析機関の速報、医療側の症例情報、出荷予定。そして、何が欠けているかを説明する一覧だった。

「足りないことも、話します」

 玲奈が言った。

「全部そろわないと危険を伝えられないなら、隠した側がいつまでも勝つ。でも、足りないところを埋めたふりはしない」

 修一は自分の証言書を読み返していた。

 署名の横に、日付があった。

 彼はそこを何度も見た。書かなかった意見書の日付は、もう取り戻せない。今日の署名だけが、今の自分にできることだった。


 同じ頃、中野は静岡の病院の面会受付にいた。

 夜間の面会はできなかった。彼は由香に連絡し、ロビーで会った。

 由香は中野の名前を聞くと、深く頭を下げた。

「資料を、ありがとうございました」

 中野は顔を上げてくれと言った。

「俺は、条件をつけました」

「聞きました」

「だったら、礼を言われることじゃない」

 由香はしばらく中野を見ていた。

「助けになったことには、お礼を言います。条件をつけたことを、なかったことにはしません」

 中野は目を伏せた。

 由香は携帯電話の写真を見せた。目を覚ました美波が、病院の食事を前に座っている。顔はまだ白く、笑顔を作る余裕はなかった。けれど、スプーンを持つ手は自分の力で動いていた。

「パパの友達が、資料をくれたと話しました」

「友達、ですか」

「美波が聞いたんです。パパの友達は、いい大人なの、って」

 中野は写真から目を離せなかった。

「何て答えたんですか」

「私には、まだ分からないって」

 由香は電話をしまった。

「これからすることで、変わるんじゃないでしょうか」

 中野は胸ポケットの紙に触れた。

 美咲の花は、折り目のところが薄くなっていた。妹が子供の頃に描いた花を、妹が死んだあとも自分だけが持っている。持っていることを、守っていることだと思っていた。

 守れるものは、もう妹ではなかった。

 それを認めることが、妹を諦めることに思えて、ここまで来てしまった。


 夜明け前、中野はクラインへ連絡した。

「資料を公表する」

「契約があります」

「承知している」

「あなたに、その責任が取れますか」

 中野は病院の窓を見た。

「取れない責任を、これ以上増やさない」

 電話を切った。

 捨てはしなかった。交渉の履歴も、契約も、受け取った金の記録も、すべて残す。自分に不利なものだけを消せば、会社と同じになる。

 中野は最初の新幹線へ向かった。


 会見の準備をしていた部屋で、藤井は登壇する人の順番を確認した。

 最初に拓真。次に久我。医療に関する説明は、本人や家族の同意を確認した範囲で佐伯が担う。玲奈は取材で確認した経緯を説明し、資料の所在を示す。

 全員が、同じことを言う必要はなかった。

 むしろ、同じことを言いすぎないほうがよいと藤井は言った。誰が何を知っているかが曖昧になれば、あとで全部が伝聞のように扱われる。

 拓真は用意した原稿を見た。

 冒頭に、私はミナトフーズの元社員です、とあった。

 元、という1文字を読むのに、まだ少し抵抗があった。会社に戻りたいのではない。自分が長く続けた仕事まで、過去になったような気がした。

 久我が隣に座った。

「原稿、長いですね」

「削れなくて」

「最初に、何をしてほしいか言ったほうがいい」

 拓真は紙を見た。

 自分の経歴、測定した経緯、異動、娘の発症。すべてを順番に話そうとしていた。

 聞く人が最初に知りたいのは、自分の人生ではない。

 今、何が起きていて、何を止める必要があるかだった。

 拓真は冒頭を書き直した。

 ゼロスイート・キッズの提供を、確認が済むまで見合わせてください。

 その文を読んだ時、声が少し安定した。


 佐伯は資料の症例部分を、最後まで確認していた。

 拓真が礼を言うと、佐伯は首を振った。

「お子さんのことを、公表する必要はありません」

「でも、僕がここにいる理由なので」

「理由を話すことと、診療の内容を全部出すことは違います」

 佐伯は紙を伏せた。

「美波さんが、あとでこの会見を見ることも考えてください。自分の体が、大人の争いの証拠として使われたと思わない形にしたい」

 拓真はうなずいた。

 娘を守るために始めたことが、娘の知らないところで娘をさらすことになってはいけない。

 彼は原稿から、病室の細かな描写を消した。

 家族が体調を崩した。その経験をきっかけに調べた。

 それだけを残した。

 美波の名前は、読まない。

 自分が父親であることを証明するために、娘の名前を使う必要はなかった。


 玲奈は、森田沙織へ最後の確認の電話をした。

 名前を出すこと、記録の一部を示すこと、本人は登壇しないこと。決めた範囲に変更がないかを尋ねた。

「変わりません」

 沙織は答えた。

「ただ、私が会場にいないからって、話せないほど弱っているとは言わないでください。今日は、子供の予定があるんです」

 玲奈は笑った。

「その通りにします」

「頑張って、とは言わないです。間違えないでください」

「はい」

 電話を切ると、玲奈は自分の手帳に、間違えない、と書いた。

 勢いをつける言葉より、今はその言葉が必要だった。


 修一は会場の後ろに座った。

 証言することは決めていた。ただ、娘の会見に父親が出ることで、記事が家族の物語に変わることを恐れた。

 玲奈が近づいた。

「家族としての話は、あとで別に聞きます。今日は、審査で何をしたかを話して。質問にも、答えて」

 修一はうなずいた。

「分かった」

「それから、母に電話した?」

「した」

「何て」

「会見のあと、行くと」

 玲奈は少し黙った。

「今度は、行って」

 修一は顔を上げた。

「行く」

 娘はそれ以上言わず、前へ戻った。

 父を許したのではない。

 父が次にすることを、具体的に求めていた。


 会見場には、予想より多くの記者が来ていた。

 独立系媒体だけではなかった。週末に記事を読み、学校や病院への照会を始めた記者たちもいた。西岡が後方の席に座っていた。玲奈は目が合うと、小さくうなずいた。

 開始前、捜査員が拓真に声をかけた。会社からの申告について、事情を聞きたいという。

 拓真は弁護士の連絡先を伝え、会見後に対応すると答えた。任意の確認であることを確かめると、捜査員は廊下へ下がった。

 それだけのやり取りでも、カメラは向いた。

 拓真は、何をしても誰かの見出しになるのだと思った。

 会場の扉の外で、中野はしばらく立っていた。

 隣の控室から、原稿を読み直す早瀬の声が聞こえた。

 製品の提供を見合わせてほしいという言葉。自分が測定したこと。記録が差し替えられたこと。娘の名前は言わなかった。

 中野は樹脂の書類箱の持ち手を握った。

 原本は重かった。紙だけの重さではない。これを持っている限り、自分は会社に何かを要求できる。クラインにも、早瀬にも。手放せば、ただ妹を亡くした兄に戻る。

 そのことが怖かった。

 復讐をしている間は、毎日することがあった。資料を集め、連絡を取り、相手の動きを読み、計画を修正する。美咲がいない朝を、仕事で埋められた。

 終わったら、何をすればいい。

 中野は、その問いを避けてきた。

 携帯電話が震えた。

 クラインからだった。

 出なかった。

 続けて文が届いた。

 合意内容を確認したい。公表は、双方の利益を損なう。

 双方。

 中野はその言葉を見た。

 自分とヘリオス。

 美咲は、そこにいなかった。

 試験に参加した人も、今、製品を飲む人も、双方の中には含まれていなかった。

 中野は電話をしまった。

 扉に手をかけた。

 控室から聞こえる声が止まった。中野は持ち手を握り直した。


 控室の入口が開いた。

 中野が立っていた。

 ノートパソコンと、樹脂の書類箱を抱えていた。

「遅くなった」

 拓真は返事をしようとして、うまく声が出なかった。

 中野は机に箱を置いた。

「原本と、複製の照合表。入手経路も書いた。俺がヘリオスと何を約束したかも、全部」

「中野」

「礼は、あとでいい。怒るのも」

 拓真はうなずいた。

 握手はしなかった。

 まだ、何も終わっていなかった。


 午前9時。

 玲奈が会見を始めた。

 最初に、確認済みの事実と、研究上の仮説を分けて説明した。現実の甘味料全般の危険を訴えるものではなく、この製品、この試験、このロットについての告発だと明言した。

 拓真はマイクの前に立った。

「元品質管理部の、早瀬拓真です」

 元、という言葉が喉に引っかかった。

 彼は測定の経緯を説明した。消えた波形、残った手帳、保存された元記録、再測定。外部確認の途中経過と、まだ確定していない部分も話した。

「私は、最初に見つけた時、異常の意味を知りませんでした。今も、私1人で毒性を断定することはできません」

 記者が顔を上げた。

「ただ、分からない成分があり、過去の試験で重大な問題が隠され、同じ製品を摂った子供に重い症状が起きています。確認が終わるまで提供を止める理由として、それでは足りないのでしょうか」

 拓真は息を吸った。

「今日、給食などで提供を予定している皆さん。まず、出さないでください。調べる時間を、子供たちの体で作らないでください」


 続いて久我が、試験で確認された所見と、工程変更後の副生成物について説明した。波形だけで毒性を断定していないこと、独立した検証が必要なことを、短く繰り返した。

 佐伯は、同意を得た範囲の症例情報を示した。病院で把握した事実と、原因についての推測を別々に述べた。個々の患者の名前も、家族の勤務先も出さなかった。

 玲奈は、中野の提出資料の説明へ移った。


 中野は42人の経過を示した。氏名は同意のある人を除いて伏せた。死亡4人、重い症状の記録31人。提出用の解析から29人が外されていたこと。死亡した人の情報が、審査側へ届いていなかったこと。

「B-17は、私の妹です」

 中野は紙を見た。

「中野美咲。試験参加時26歳。私がこの会社にいたことを、安心する理由にしました」

 会場の音が少し変わった。

 拓真には、誰かがペンを置いた音まで聞こえた。

 修一が続いた。

「私は、脱落者の多さを指摘されながら、追加の確認を行いませんでした」

 鷲尾の事務所からの連絡。上司からの催促。会社側の回答。自分が何を確認せず、どこで判断を止めたか。

 圧力を受けたから仕方がなかったとは言わなかった。

「私には、照会を続ける立場と機会がありました」

 玲奈は父の横顔を見た。

 初めて父が、娘に説明するためではなく、自分の仕事について話していた。


 午前9時28分、田所と小松が到着した。

 その後ろに、常盤がいた。

 額に小さな処置の跡があった。

 田所は、昨夜の通話が途切れたあと、常盤が搬送された可能性のある関連施設を調べ、所在を確認していた。本人の意思を確かめた病院側と、連絡を受けた警察の対応で、常盤は外へ出ることができたという。

 小松は、保全した記録の複製を持っていた。

 常盤のファイルそのものは奪われた。だが田所に渡していた文書の写し、保存先の情報、承認記録の控えが残っていた。小松はそこから、正式な保存領域の監査履歴と照合した。

 1枚の紙がなくなっても、決裁した事実まで消えるわけではなかった。

 常盤は壇上で頭を下げた。

「私も、意思決定に加わりました」

 拓真は、謝罪より先に説明してくださいと言った夜を思い出した。

 常盤は顔を上げ、説明を始めた。

 注意表示の案を引っ込めたこと。追加調査を後回しにしたこと。工程変更の懸念を知りながら、出荷を止めなかったこと。早瀬の家族の写真を使い、圧力をかけたこと。

「会社を守ると言って、私が守っていたのは、自分が間違っていないと思える時間でした」

 常盤はマイクから手を離した。

「その時間のために、誰が危険を引き受けたかを、見ませんでした」


 質疑の途中、記者の1人が中野に聞いた。

「競合企業から、金銭を受け取ったのですか」

 中野は、受け取ったと答えた。

 会場がざわついた。

「では、今回の告発は、競合企業の利益のためではありませんか」

 中野はマイクを握った。

「その疑いを持たれる行動をしました」

 拓真は隣で彼を見た。

 中野は続けた。

「ただ、私の動機が汚れていることと、ここにある記録が改変されていることは、別に確認してください。私を信用しなくていい。記録を調べてください」

 玲奈は原本の管理方法を説明した。複製を複数の報道機関と専門家へ渡し、原本は取り扱いを記録して保管する。被験者の個人情報は、必要な範囲で伏せる。本人や遺族の同意があるものと、ないものを区別する。

 別の記者が、全員の名前を公開しないのかと聞いた。

「公開しません」

 玲奈は答えた。

「この人たちは、告発のために試験へ参加したのではありません。名前を出すかどうかは、それぞれの意思を確認します」

 拓真はその言葉を聞いた。

 証拠を強くするために、誰かの暮らしを勝手に使わない。

 自分たちが会社に求めていることを、自分たちも守らなければならなかった。


 久我には、製品を使った人全員が危険なのかという質問が出た。

 彼女は首を振った。

「現時点で、全員に同じことが起きるとは言えません。逆に、平均的な試験結果だけで、特定の条件を持つ人への影響がないとも言えません」

「では、どのくらい危険なのですか」

「その評価に必要な情報が、欠けています。欠けていた情報を戻して、検討する必要があります」

「数字は、出せないのですか」

「今、根拠のない数字を出すことはしません」

 久我の声は静かだった。

 拓真は、会社にいた頃の彼女を想像した。会議で同じように答え、数字がないなら判断できないと言われたのかもしれない。

 今は、その答えを、複数の人が記録していた。

 届く場所が変わると、同じ言葉の重さも変わる。


 田所には、なぜ元データを残したのかという質問が出た。

 彼は、消すのが怖かったと答えた。

「不正だと分かっていたからですか」

「はい」

「では、なぜ止めなかったのですか」

 田所は目を伏せた。

「仕事を失うのが、怖かった」

 会場は静かだった。

 彼は続けた。

「今、出したからといって、最初にしたことが消えるとは思っていません。差し替えた操作も、私の名前で残っています。そこも、調べてください」

 拓真は、田所の手を見た。

 震えていた。

 それでも、マイクを置かなかった。


 質疑の最後に、修一がもう1度立った。

 元の審査担当者として、当時の照会が十分に行われなかったことを認めた。政治家の事務所からの連絡についても、記録を提出する意思を示した。

 記者が、玲奈との関係を聞いた。

「父です」

 修一は答えた。

 会場の視線が玲奈へ向いた。

 彼女はマイクを取った。

「取材対象者が父であることは、記事中で明記します。私が父の証言を独立した裏づけとして扱うことはしません。ほかの記録と、当時の関係者の確認を続けます」

 修一は娘を見た。

 娘が自分を守らないことを、ようやく受け入れた。

 守られないことと、見捨てられることは違った。

 その違いを、自分は長く分からずにいた。


 月曜の朝、石田は配送センターの事務所で、2種類の指示を見ていた。

 昨夜届いた出荷指示では、ゼロスイート・キッズを予定通り運ぶことになっていた。今朝の連絡では、対象ロットを確認するまで待機とあった。

 運転手は、どちらが新しいのかと聞いた。

 時刻だけなら、待機のほうが新しい。だが、発信した部署が違った。出荷を決める部署と、品質を確認する部署。どちらに従うかで、責任を取る相手が変わる。

 石田は本社へ電話した。

 営業担当者は、学校は待っていると言った。

「今日の提供分です。遅れたら、先方が困ります」

「品質の待機指示が来ています」

「確認中です。積み込みは進めてください」

 石田は電話を置いた。

 積み込めば、次は出発だけになる。出発すれば、次は納品だけになる。納品すれば、次は提供だけになる。

 1つずつは、前の仕事を受け取っただけに見える。

 だが、最後に子供の手へ渡るまで、誰も止めなければ、そのまま進む。

 石田は端末に、待機と入力した。

 運転手が、何時まで、と聞いた。

「分かるまで」

「分かるまでって、俺、次の便もあるんだけど」

「別の荷物を先に回せるか、聞く」

 石田は配車担当へ電話した。

 止めると言うだけでは、運転手の1日は止められない。別の仕事を組み、空いた車を調整し、遅れを連絡する必要があった。

 電話が重なった。

 石田は、受けた指示と答えた内容を、時刻つきで残した。

 誰かを責めるためではない。

 あとで、止まったことだけを自分の責任にされないためでもあった。

 その動機を、恥じないことにした。


 倉庫主任が来た。

「勝手に止めたのか」

「品質の指示で、待機しています」

「営業は出せと言ってる」

「では、どちらを優先するか、書面でください」

 主任は苛立った。

「いちいち、紙にするのか」

「はい」

 石田は答えた。

「運んだあと、何かあった時、誰が決めたか分からないと困るので」

 主任は端末を見た。

 画面には、昨夜からの指示が時系列で並んでいた。口頭の指示も、発言者と時刻が記録されている。

 主任は、少し待てと言った。

 その待ては、石田が求めていた言葉だった。


 同じ頃、新井は学校の調理室で、保管品を確認していた。

 キッズの箱は開けられていなかった。彼女は箱を別の棚へ移し、提供しないと書いた紙を貼った。校長の確認を受け、教育委員会の担当者へ連絡した。

 担当者は、会社から正式な説明が来ていないと言った。

「学校で確認できる資料は、送っています」

 新井は答えた。

「今日の提供を見合わせることは、校内で決めました。ほかの学校にも、確認をお願いしたいです」

「風評にならないように」

「断定はしていません。確認が済むまで、提供しないという判断です」

 電話を切ると、調理員が献立の変更を相談しに来た。

 飲料がなくなれば、それで終わりではない。予定していた説明資料も変える必要がある。子供たちに何と言うか。保護者へどう知らせるか。代わりに何を出すか。

 新井は、今日は水とお茶にすると決めた。

 食育の時間には、表示の見方ではなく、分からない時に誰へ聞くかを話すことにした。

 商品を使う授業から、質問する授業へ。

 準備していた資料の半分は使えなくなった。

 それでも、授業はできた。


 昼前、校長室へ保護者から電話が入った。

 なぜ、もっと早く知らせなかったのか。

 会社が安全だと言っているのに、学校が勝手に危険だと決めたのか。

 反対の方向から、同じように強い声が届いた。

 新井は、分かっていることと、今の対応を説明した。

 全員を安心させる言葉はなかった。

 それでも、誰が聞いても同じ説明になるように、文面を整えた。

 美波の名前は出さなかった。

 1人の児童の体調を、学校全体の判断の唯一の根拠にしない。そう決めていた。

 由香へは、対応を進めているとだけ連絡した。

 返事は、ありがとうございます、だった。

 新井はその文を見てから、次の電話を取った。

 礼を言われるためではなく、まだ届いていない相手へ伝えるために。


 正午を過ぎ、配送センターへ正式な停止指示が届いた。

 石田は画面を印刷し、掲示板へ貼った。

 運転手の1人が、今日は大変だったなと言った。

 石田はうなずいた。

「まだ、戻りがある」

 すでに出た荷物を、どこで止めるか。納品済みのものを、どこへ戻すか。戻ってきた箱を、何として管理するか。

 販促資材ではない。

 飲料の回収品だった。

 石田は処理区分を確認した。

 最初に拓真へ聞いた時と、同じ問いだった。

 今度は、答えが変わった。


 会見と並行して、資料は関係する行政窓口、納品先、医療側へ届けられていた。

 会社の中でも、田所と小松の記録を受け取った社員が、出荷先の一覧を保全した。物流担当者が、止められる便を止めた。学校では、校長や栄養士が、上からの正式な連絡を待つだけではなく、提供の見合わせを決めた。

 午前10時を過ぎ、対象製品について緊急の提供見合わせと流通停止の連絡が広がり始めた。

 拓真は壇上で、玲奈から渡されたメモを読んだ。

 止まり始めています。

 全部、ではなかった。

 だから彼は、立ち上がって喜ぶことができなかった。

 会見が終わってからも、電話をかけ続けた。

 受け取った人の名前と時刻を、1つずつ記録した。


 午前11時過ぎ、まだ提供の止まっていない学校があると分かった。

 玲奈の電話へ、保護者から連絡が来た。会社の説明が届くまで予定を変えられない、と学校から言われたという。

 拓真は校名を聞き、連絡先を調べた。電話に出た職員は、保護者ではない人に児童のことは答えられないと言った。

「子供の情報を知りたいのではなく、製品の提供を」

「確認します」

 保留になった。会見場では椅子を畳む音がしていた。隣で別の記者が、流通停止へ、と電話で話している。

 止まったという記事が出る。

 だが、保留音は続いていた。

 拓真は切らずに待った。もう1台の電話で玲奈が新井につなぎ、学校側が確認できる窓口を聞いた。

 戻ってきた職員へ、その連絡先を伝えた。会見を見てくださいとは言わなかった。製品名、対象の番号、保全されている記録。自分が会社の元社員であることも、改めて話した。

 その学校が見合わせを決めたという連絡は、昼の配膳が始まる前に来た。

 理由は、告発を全面的に信用したからではなかった。確認がつくまで出さないという、校長の判断だった。

 拓真は受けた時刻を書いた。紙の上の校名を1つ丸で囲み、次へ電話した。


 正午、静岡から電話が来た。

 美波だった。

「パパ、見たよ」

「テレビ?」

「うん。ママが、パパは仕事してるって」

 拓真は窓際へ移動した。

「そうか」

「もう、帰ってくる?」

 拓真は目を閉じた。

「まだ少し、することがある」

「分かった」

 娘は、前より簡単にうなずくようになっていた。それが成長なのか、諦めなのか、拓真には分からなかった。

「美波」

「何?」

「終わったら、ちゃんと話す。何をしてたか、全部」

 電話の向こうで、娘が小さく息をした。

「難しい言葉、少なくしてね」

 拓真は笑った。

 笑いながら、涙が落ちた。


 午後、拓真は由香へ電話をかけ直した。

 由香は、見ていたと答えた。

「美波は?」

「途中まで。一緒に見た」

「何か、言ってた?」

 由香は少し笑った。

「パパ、声、小さいって」

 拓真は椅子に座った。

 体から力が抜けた。

「そうか」

「でも、最後まで聞いてた」

 電話が美波に代わった。

「パパ」

「うん」

「帽子、かぶってなかったね」

 拓真は一瞬、何のことか分からなかった。

「木の帽子?」

「うん。私、あれかぶると、声出せたから」

 拓真は目を閉じた。

 娘には、舞台に立つための助けがあった。

 自分にも、あった。

 隣に座った人たち。手帳。残された記録。電話の向こうの家族。

「パパも、1人じゃなかったから、話せた」

「知ってる。いっぱい座ってた」

 美波は答えた。

「帰ってくる?」

「帰る」

「今日?」

 拓真は時計を見た。

 まだ、することはあった。記者への追加資料、藤井との確認、原本の受け渡し。だが、全部を自分がしなくてもよい。

「今日、会いに行く」

 彼は言った。

 由香に電話が戻った。

「無理はしないで」

「無理じゃない。行きたい」

 由香は、分かったと答えた。

 今度の約束は、あとでにしなかった。


 中野は捜査員と話すため、別室へ向かった。

 競合との契約も、資料の持ち出しも、受け取った金も、なかったことにはならない。拓真の解雇の問題も、会見で1度に解決するわけではなかった。

「勝ったな」

 中野が言った。

 拓真は首を振った。

「まだ、誰が飲んだかも分からない」

「そうだな」

 中野は胸ポケットから、花の紙を出した。

「これ、妹が俺にくれたんだ。就職した時」

「子供の頃の絵だろ」

「昔のを、わざと出してきた。立派な会社に入っても、これ描いてってせがんだ兄ちゃんだって、忘れるなって」

 拓真は紙を見た。

 花の茎が、途中で少し曲がっていた。

「忘れてたのか」

「忘れたふりをしてた」

 中野は紙をしまった。

「美波ちゃんに、まだ分からないって伝えてくれ」

「何を」

「いい大人かどうか」

 拓真はうなずいた。

「自分で、伝えろよ」

 中野は、今度は少しだけ笑った。


 会見の翌日、拓真は静岡の病院へ行った。

 美波はベッドの上で、折り紙をしていた。由香が買ってきたものだった。指先が疲れると休み、また折る。折り目は、以前より少し浅かった。

「何、作ってる」

「箱」

「何を入れるんだ」

「まだ、決めてない」

 拓真は椅子に座った。

 娘は折り紙を置き、父を見た。

「昨日、帰ってくるって言ったのに」

 拓真は時計を見た。

 昨夜は追加の確認が続き、終電に間に合わなかった。由香には連絡した。娘にも伝えてもらったつもりだった。

「ごめん。間に合わなかった」

「ママから聞いた」

「うん」

「でも、パパから聞きたかった」

 拓真はうなずいた。

 話すと約束したことを、伝えてもらうことで済ませた。

 大きな嘘をやめても、小さな省略は残る。

「次は、パパから言う」

 美波は、次はね、と答えた。

 許したというより、覚えておくという声だった。

 拓真はそれでいいと思った。

 娘が父の約束を確かめることを、面倒だと思わないようにしたかった。


 病室の外で、由香は家計の紙を出した。

 今月の収入。貯金。ローン。通院にかかる費用。藤井への支払い。

 拓真は数字を見た。

 会社にいた頃、毎月の給与は、自分が家族を守っている証拠のように思えた。失うと、何も守れていない人間になった気がした。

 由香は電卓を置いた。

「今、何か月分あるか、見よう」

「すまない」

「謝るのは、あと。まず、見て」

 拓真は紙を引き寄せた。

 美波の習い事は、しばらく休む。由香は仕事の時間を増やせるか相談する。拓真は、短期の仕事も含めて探す。解雇についての手続きは、藤井と進める。

 1つずつ、決めた。

 由香は、家を売ることも考えておこうと言った。

 拓真は顔を上げた。

「ここまでして、家まで」

「家を守るために、美波の通院を減らすのは違うでしょう」

 拓真は黙った。

 守るものの順番を、また間違えかけた。

 由香は紙の端を押さえた。

「売ると決めたんじゃない。選べるように、調べるの」

 拓真はうなずいた。

 慎重に調べることが、家族の中でも役に立つ。

 その仕事は、まだ自分にできた。


 退院の日、美波は病棟の看護師に、折り紙の箱を渡した。

 中には、小さな紙の星が入っていた。

「何を入れるか、決まったんだな」

 拓真が言うと、美波はうなずいた。

「なくなっても、また作れるもの」

 拓真は箱を見た。

 娘が何を思ってそう言ったのか、全部は分からなかった。

 分かったふりをせず、よくできてると伝えた。

 美波は少し得意そうに笑った。


 東京の家へ戻ると、玄関の花の絵が残っていた。

 テープの端が、また少し浮いていた。

 美波は靴を脱ぐ前に、そこを押さえた。

 由香は荷物を置き、窓を開けた。閉め切っていた家の匂いがした。冷蔵庫には、拓真が1人で暮らした数日分のものが入っていた。卵、納豆、半分残った野菜。

「ちゃんと、食べてたんだ」

「少しは」

 拓真は答えた。

 由香は冷蔵庫を閉めた。

 食卓に3人で座った。

 帰ってきたからといって、元通りではなかった。美波は食べる前に、包装の表示を見た。由香は娘の顔色を気にした。拓真は電話が震えるたび、画面を伏せる癖が残っていることに気づいた。

 彼は電話を表へ向けた。

「藤井さんから。あとで折り返す」

 由香はうなずいた。

 それだけの説明を、前はしなかった。

 家族を変えるのは、会見のような大きな場面だけではない。

 今、誰から連絡が来たかを言う。

 小さなことを、続けるしかなかった。


 回収が始まると、知らない人からも連絡が来た。

 なぜ早く言わなかったのか。昨日飲んだが大丈夫か。自分の子供の症状も同じではないか。

 拓真には判断できなかった。医師や案内された窓口へつなぎ、連絡が届いたかを確かめた。礼のあとに怒りが来ることもあった。

 1件だけ、相手が名乗らずに切った電話があった。拓真は記録の氏名欄を空けた。問い合わせがなかったことにはせず、折り返すこともできないまま、時刻と内容だけを残した。


 玲奈は、記事の訂正を出した。

 最初の記事で、試験中止と入院の前後関係が、1人分だけ逆になっていた。資料の転記の誤りだった。結論を変えるものではなかったが、本人の経過を間違えていた。

 公開すると、会社側から、記事の信頼性が揺らいだという反論が来た。

 玲奈は、誤りを訂正したことと、確認済みの事実が何かを分けて説明した。

 拓真は、今、この時期に訂正を出す必要があったのかと、一瞬思った。

 その考えを、玲奈に話した。

 彼女は怒らなかった。

「私も、そう思いました」

「でも、出した」

「隠したら、会社と同じになるから、というだけではないです。間違えられた人が、いるから」

 拓真はうなずいた。

 正しい側に立つためではなく、間違えた相手に直す。

 その順番を、自分も覚えておこうと思った。


 修一は財団を辞め、妻の施設へ行った。

 仕事のことを話すと、妻は今日は長く聞けないと言った。

「少しずつにして」

 修一はうなずき、持ってきた資料を鞄へ戻した。署名したページの角だけが、うまく入らなかった。

「来週も、来るの」

「来る」

「じゃあ、続きは来週」

 妻が菓子の箱を開けた。玲奈が半分残していったという。修一は小さな皿を受け取った。


 中野が実家で競合から受け取った金のことを話すと、父は、なぜ先に言わなかったと聞いた。

「止めると思った」

「止めたかもしれない」

 父は庭から運んできた鉢を、玄関へ置いた。

「でも、聞くことはできた」

 母は台所へ行き、湯を沸かした。戻ってきた時、盆には湯呑みが3つあった。中野はその数を確かめないようにして、靴を脱いだ。


 夜、中野は妹の部屋の照明をつけた。

 舞台の光を作る学校へ行きたがっていたことを話すと、母は知っていたと答えた。父は知らなかったと言った。

「何で、俺には」

 言いかけて、父はやめた。中野は見学会の資料を出した。行けなかった日付の下に、次回開催の問い合わせ先があった。

 母は、書店で働くのも嫌いではなかったのよと言った。

 中野はうなずき、妹が勧めてくれた本の題名を尋ねた。母は覚えていなかった。3人で本棚を探した。


 田所の娘は、会見を見たあと、父に聞いた。

「私の学費のために、やったの?」

「違う。私が決めたことだ」

「でも、お金が心配だったって」

 田所は椅子へ座った。娘の前に、進学先の資料があった。

「心配だった。お前が行きたいと言ったことは、悪くない」

「行っていいの?」

 田所は任せろと言いかけ、資料を引き寄せた。

「行ける方法を、一緒に考えたい」

「前は、任せろって言った」

「言った」

 妻が電卓を出した。娘は入学金のページを開いたが、途中で部屋へ戻った。資料は置いていった。

 田所はそのページを閉じず、通学費の計算を続けた。妻は隣で、問い合わせのできる曜日を調べていた。


半年後、ミナトフーズの広告が本社の看板から外された。

 製品の回収と事業の売却は進み、会社の発表には約3000人が退職したとあった。工場で受けた受注がなくなった人は、その数に入っていなかった。

 拓真は本社の前で、元同僚に声をかけられた。

「お前は、次があるんだな」

 藤井と手続きのために来ただけだった。採用はまだ決まっていなかった。だが、それを説明しても、相手の問いに答えたことにはならない気がした。

「再就職の窓口で、分かったことがあります」

「そういう話を、聞きたいんじゃない」

 男は歩いていった。拓真は、渡しかけた紙をポケットへ戻した。

 振り返ると、看板を外した四角い跡だけ、壁の色が明るかった。


 港は刑事事件で起訴され、隠蔽の指示や資料の扱いが争われていた。常盤の転倒についても調べは続いていたが、港は、入院の手配は本人を心配したためだと説明した。

 鷲尾は議員を辞した。審査を急がせたのかという問いには、個別の判断へ介入したことはないと答えた。

 玲奈はその回答を載せた。修一の証言も載せ、父の取材記録は別の記者へ確認を頼んだ。

 母の施設へ父と行く日は、仕事の鞄を車へ置いた。母は2人が別々に来るより楽だと言った。それ以上のことは、誰も尋ねなかった。


 中野の件は、まだ手続きが続いていた。

 彼は自分の行動を美咲のためだったという言葉だけで説明しないようになった。復讐を選び、そのために公表を遅らせようとしたことを、調査でも認めた。

 拓真と一緒に坂口家を訪ねた時、澄江は2人を仏間へ通した。

「健太の名前、ちゃんと残りました」

 澄江は言った。

 拓真は仏壇の写真を見た。

 補償の手続きは進んでいた。だが、健太が何をしたかったのか、試験の謝礼を何に使うつもりだったのか、そういう話を聞く人はまだ少なかった。

 澄江は古いノートを出した。

「調理師の学校を、調べてたんです」

 パンフレットの間に、青年の字で金額が書かれていた。

 拓真はその数字を読んだ。

 人が亡くなったことを示す数字ではない。

 生きようとしていたことを示す数字だった。


 独立した分析では、原料の保存試料と倉庫の未開封品の双方に、対応する副生成物が確認された。久我たちは論文の準備を進めていた。M-4との関係や症状の出る条件には、なお検討が残った。

 澄江が求めた健太個人の経過については、試験会社と医療側の資料を照合する作業が続いていた。分かったことは、その都度、澄江へ説明された。

 ある説明の日、澄江は、もう1度お願いしますと言った。拓真は説明を始めかけ、医師に譲った。自分が代わりに短くすれば、また何かを落とすかもしれなかった。


 田所から、小さな検査会社を始めるという連絡があった。

 機器は借り、技術者には外部の協力を頼む。顧客はまだ少ない。拓真は設立準備を手伝ったが、就職の返事はしなかった。

 最初の会議で、田所が言った。

「私の判断に異議があれば、残してくれ」

 週末だけ来ていた小松が、議事録から顔を上げた。

「異議を出した人の評価は、誰が決めますか」

 田所は黙った。

 拓真は机の脚へ挟まった板を見た。少し動かすと、机が揺れた。

「そこを、先に決めましょう」

 次の議題へ進むはずだった資料を、田所が戻した。会議は予定を40分過ぎた。


 玲奈の編集部は、雑居ビルの1室にあった。

 読者からの支援と購読料で運営し、資金の内訳を公開していた。それでも、金の問題がなくなったわけではなかった。記事の公開日より、家賃の引き落とし日のほうが怖い夜もあると、玲奈は言った。

 西岡が差し入れを持って来た。

「人は足りてるか」

「お金は足りません」

「聞いてない」

「では、原稿を見てください。広告主に遠慮しないで」

 西岡は紙袋を机に置いた。

「今度は、言われる前に読む」

 玲奈は笑わず、原稿を渡した。

 笑うのは、読んだあとでよかった。


 美波は、飲み物の棚の前で時間がかかるようになった。

 包装の裏を読み、由香を呼ぶ。由香にも分からず、何も買わないで帰ることがあった。

 次の受診で相談しようと話すと、美波は病気の話はもう嫌だと言った。

「買い物で困ることも、話していいんだよ」

 拓真が言うと、娘は彼を見た。

「じゃあ、パパも言って」

「何を」

「私が眠いだけで、大丈夫って何回も聞くこと」

 由香が、私も、と言った。

 3人で診察室へ入ると、美波が最初に話した。佐伯は両親の顔を見た。拓真は娘に促され、夜中に何度も寝顔を確かめることも話した。

 帰り、コンビニで美波が水を1本買った。蓋が固く、拓真が手を出しかけると、できる、と言った。由香は何も言わなかった。娘はもう1度持ち直し、自分で開けた。


 美波の学校の机は、新しくなっていた。

 相手の子と保護者から手紙が届いた。娘はその日に読まず、翌週、部屋で読んだ。返事は書かなかった。

 拓真が何か言いかけると、由香は首を振った。引き出しには、その手紙が残った。

 担任との面談は続いていた。誰が書いたか分からない落書きもあり、全部が済んだとは言えなかった。新しい机に座る娘を見たと教わっても、拓真は授業中の顔を想像できなかった。


 由香がパートへ戻ると、ゼロスイートの棚には別の商品が並んでいた。

 同僚が、あの時はごめんねと言った。大きな話にしないほうがいいと連絡してきた人だった。

「心配してくれたのは、分かってる」

 由香は休憩室の机を拭いた。

「でも、言いにくくなった」

 同僚も布巾を取りに立った。

「由香さんも、勧めたでしょう」

「うん」

 拭き終えた机に、小さな水の筋が残った。由香は自分の弁当をそこへ置いた。同僚は少し離れて座り、それから、今も甘いものは買うの、と聞いた。

 由香は娘の好きな菓子の名前を挙げた。同僚は、あれ、おいしいよねと言った。話はそこで途切れたが、2人とも席は立たなかった。


 再就職の面接で、拓真は何度も退職の経緯を尋ねられた。

 ある面接官は、うちでも何かあれば外へ話しますかと聞いた。

「まず、社内で確認します」

「それで、解決しなかったら?」

 窓の外で、隣の工場の人が昼休みに出てきた。名札を裏返して煙草を吸っていた。

「食べる人に、危険があると思えば、必要な相談をします」

 面接官は紙へ何か書いた。

 不採用の通知は、メールで来た。選考理由は書かれていなかった。

 拓真は由香に話した。彼女は、悔しいねと言った。皿を洗いながら言ったので、拓真も皿を拭いた。

「もっと、うまく言えたかもしれない」

「何て」

 考えても、採用される返事しか思いつかなかった。由香は次の皿を渡した。


 小さな食品会社で、期間を決めて品質記録を整理する仕事を得た。

 手書きの台帳が多かった。訂正した数字は、線の下に読めるよう残され、担当者が名前を書いていた。

 工場長は、うちは古いやり方で、と笑った。拓真は訂正理由を尋ねた。工場長は現場の人を呼び、説明を聞いた。

 その日の夕方、残れるかと聞かれた。美波の受診のあと、食事の約束があった。

「今日は、帰りたいです。明日の朝なら」

 言ってから、契約の残りを考えた。

 工場長は時計を見て、じゃあ明日、と答えた。拓真は翌朝することをメモにし、机へ置いた。

 駅へ向かいながら、予定通り帰ると連絡した。返事は、美波が待ってる、だった。


 会見後の問い合わせを個人の電話だけで受けるのは難しく、地域の団体が借りている部屋で、週に1度、相談を受けることになった。

 藤井や玲奈にも協力を頼んだ。拓真が引き受けたのは、記録を整理し、専門家へつなぐ仕事だった。

 机に置いた看板は、食品と暮らしの相談室、とコピー用紙へ印刷した。自分の名は小さく下へ入れた。


 最初に来た男性は、被害を訴える人ではなかった。

 ゼロスイートを使う菓子工場で働いていたが、回収で仕事が減り、契約が更新されなかったという。

「止める必要は、あったんでしょう」

「はい」

「俺が仕事を失う必要も、あったんですか」

 拓真は椅子を勧めた。男性は座らず、契約終了の通知を出した。

「丁寧に詰めてたんですよ。子供が食べるって言うから」

 自分も仕事を失った、と言いかけた。男性の通知には、拓真の知らない会社名があった。

「今、何に困っていますか」

「家賃」

 男性は答え、ようやく座った。学費、次の仕事、制服を返す送料。最後の金額を、ほかより大きな声で言った。

 拓真は相談先を一緒に探した。電話の向こうで、窓口が違うと言われた。かけ直した先では、本人から話してほしいと頼まれた。

 受話器を渡すと、男性は同じ話をもう1度した。拓真は、次の担当者へ見せられるよう、経緯を紙にまとめた。男性に読んでもらい、違うと言われたところを直した。

 帰り際、男性は、あなたが謝ればいい話じゃないと答えた。拓真はうなずいた。

 机の上に、書き損じた1枚が残った。家賃の金額だけ、強く押された文字の跡が裏まで出ていた。


 沙織が来た時、相談室の用紙を見て、全部書くんですかと聞いた。

「書けるところだけで」

「そう、書いてない」

 氏名、住所、症状。拓真は会社の書式を参考に作っていた。

 沙織は手の動かしにくい人もいるし、名前を言わずに聞きたい人もいると話した。

 拓真が書き直すあいだ、彼女は入口の段差のことも指摘した。椅子を動かし、部屋を貸している団体へ相談することにした。

 帰る前、沙織は謝礼を尋ねた。

「交通費は」

「意見を出した時間の分です」

 拓真は顔を上げた。

 沙織は時計を示した。子供を迎えるまで、あと30分だという。

「私、ここがよくなったらいいと思って来ました。でも、それだけで頼まれ続けるのは、困る」

 拓真は手帳を開き、謝礼の予算が決まっていなかったことを話した。今後、依頼する前に時間と条件を示すことにした。

 沙織は、今日は先に帰ると言った。拓真は入口まで送り、次の用事の時刻を初めて尋ねた。


 澄江は、健太のノートを持って相談室へ来た。

 料理の分量が書かれた、あのノートだった。

「コピーしてもらえますか」

 拓真は、もちろんと答えた。

「記事に使うんですか」

「いいえ。妹に、送りたいんです。健太の妹に」

 拓真はノートを受け取った。

 事件の資料ではない。

 家族の間で、残したいものを分けるための複写だった。

 澄江は椅子に座り、最近、牛乳を1本だけ買うようになったと話した。

「やっと、です」

 拓真は紙をそろえた。

「寂しいですか」

 聞いてから、余計なことを聞いたと思った。

 澄江は少し考えた。

「寂しい。でも、2本買って捨てそうになるのも、つらかった。どっちでも、寂しいんですね」

 拓真はうなずいた。

 1本にしたから、乗り越えたわけではない。

 2本買い続けることだけが、息子を覚えている方法でもない。

 複写が終わると、澄江は原本を鞄にしまった。

 紙の束を見て、少し笑った。

「健太の字、読みにくいでしょう」

「少し」

「そうなの。丁寧に書きなさいって、よく言った」

 澄江は1枚を指した。

 次は焦がさない。

 その字だけは、大きかった。

「この通りに作っても、同じ味にならないんです」

 拓真は、そうですかと答えた。

 澄江は続けた。

「でも、作ると、あの子が何を考えたか、少し分かる気がする」

 彼女は複写を封筒に入れた。

 今度の封筒には、署名する場所も、黄色い付箋もなかった。

 妹へ送る住所だけが、書かれていた。


 中野が早瀬家へ来たのは、風の強い日曜だった。

 美波は会うと決めていたが、中野が玄関で名乗ると、いったん自分の部屋へ戻った。由香が待っていてと言った。

 拓真は湯を沸かした。中野は椅子の前に立っていた。

 戻ってきた美波は、切りかけの紙を机へ置いた。

「謝りに来ました」

 中野は言った。

「私に?」

「君が病院にいた時、資料を渡す代わりに、パパに約束をさせた。ほかの人に話すのを待ってくれと」

「何で」

「会社に、いちばん大きな損をさせたかった」

「怒ってたから?」

「ああ」

 美波は父を見た。拓真はうなずいた。自分もその約束をした、と言った。

「私が、寝てた時?」

 中野はうなずいた。

 娘は机の紙を指で押した。花の端が、まだ切り離されていなかった。

「それ、嫌だ」

「ごめんなさい」

 中野が頭を下げると、美波は由香を見た。由香は扉の脇へ立ったまま、何も促さなかった。

「先生は、紙があってよかったって言ってた」

 中野は顔を上げた。

「それは、ありがとう。でも、今日はもういい」

 美波は紙を持って部屋へ戻った。扉は閉めなかった。

 中野が座ると、由香が湯呑みを置いた。

「また会いたいかは、あの子に聞きます」

「はい」

 帰り、門を開けたところで中野が言った。

「美咲にも、嫌だと言わせてやればよかった」

 拓真は返事ができなかった。自分の娘が言えたことを、中野の妹に向けた慰めにするのは違う気がした。

 中野は湯呑みを持った手の形のまま、しばらく指を曲げていた。

「じゃあ」

 駅のほうへ歩いていった。

 リビングへ戻ると、美波が紙の花を切り終えていた。

「パパ、これ、貼って」

 娘はノートを開いた。

「どこに?」

「ここ。字があるところは、隠さないで」

 拓真は糊の蓋を開けた。


 田所から雇用条件が届いた夜、拓真は由香へ見せた。

 給与は下がる。休日の連絡は、業務上必要な場合とあった。

「これ、いつでもってこと?」

「小さい会社だから」

 由香が顔を上げ、拓真は言い直した。

「聞く」

 翌日、田所へ質問を送った。すぐに決められないという返事だったので、決める日を尋ねた。田所から電話が来た。

「君には、信用しろとは言えない」

「信用の話だけで、決めたくありません」

 休日に誰が対応するか、断った場合にどうするか。顧客が増えるまでは無理の出る部分もあった。未定の欄には、見直す日を入れた。

 修正された書面を、由香と読んだ。

「始めてみようか」

 由香は言った。

 冷蔵庫の予定表へ、拓真が最初の出勤日を書いた。隣に美波の受診日があった。書く場所が狭く、彼は余白へ矢印を引いた。


 新しい職場へ初めて出勤する朝、由香がコーヒーを淹れた。

 白い砂糖の瓶を取り出し、拓真の前に置いた。

「入れる?」

「少し」

 由香はスプーンを渡した。

 自分で決めて、自分で入れる。その小さな手間が、以前より大事に思えた。

 美波がトーストをかじりながら聞いた。

「今日から、何の仕事?」

「食べ物を調べる仕事」

「前と同じじゃん」

「そうだな」

「今度は、大丈夫?」

 拓真はカップを置いた。

 以前なら、すぐにうなずいただろう。

「分からないことがあったら、分からないって言う。止めたほうがいいと思ったら、止めるように話す。パパが間違ったら、ほかの人に止めてもらう」

 美波は少し考えた。

「長い」

 由香が笑った。

 拓真も笑った。

「ちゃんと、調べる仕事」

「それなら分かる」

 美波は皿を流しへ運んだ。


 出かける支度をしていると、テレビから新しい広告が流れた。

 ヘリオスの新甘味料、ゼロプラス。

 明るい食卓。ケーキ。軽やかな音楽。

 拓真は商品名を手帳へ書いた。美波の描いた花の隣だった。

「パパ、遅れるよ」

 玄関から声がした。娘が靴の踵を踏みかけ、由香に直してと言われていた。

 拓真はテレビを消し、自分の皿を流しへ運んだ。皿の裏に、水が少し残っていた。布巾で拭き、伏せて置いた。

 由香が鍵を取り、美波が先に扉を開けた。

 口の中に、コーヒーの甘さが少し残っていた。

 ゼロではなかった。


完


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