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黎繞(クロマト)グラフィー ―愛と殺意の同一性―  作者: 柊ソラ


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第7.5話:コンクリートの聖域



 二十時を過ぎた、大学の裏手――斜面を切り拓いて作られた教職員専用の半地下駐車場。


 頭上を走る幹線道路の振動が、微かな地鳴りとなって冷たいコンクリートの壁を伝ってくる。

 ここは外界の陽光が一切届かない、都市の排泄物が溜まる場所のような、隔絶された空間だ。


「どうしたんですか、こんなところに呼び出して。もしかして、この間の話の返事を持ってきてくれたんですか?」

 太いコンクリート柱の影から現れた橘優恵が、期待を隠しきれない瞳で尋ねた。


「まあ、そんなところかな。少し遅くなったから、送っていくよ」

 斗亞は、傍らに停まったワインレッドのセダンのキーを操作した。

 アンサーバックの短い電子音が、無機質な空間に硬く響く。

 その一連のプロセスだけで、これの役割は果たされた。


 それは彼女をここに留め、安心させ、そして逃げ場を失わせるためだけに用意した、冷たい鉄の塊。

 男にとっては最初から、この心臓エンジンを叩き起こす気など毛頭なかった。


「ありがとうございます……先生。車なんて持ってたんですね」


「買ったんだよ。今の職場に、最初はそんなに長くいるつもりはなかったからね。だけど、気づけばもう三ヶ月。なんだかんだ、この場所に長くいそうだと思ったからね」

 虚言と建前と本音を織り交ぜながら、彼はペテン師の如く滑らかに言葉を紡ぐ。


「へぇ……というか、免許持ってたんだ。なんか意外」

 優恵は車に乗り込もうとはせず、その冷たいボンネットに細い指先を這わせた。

「それはどういう意味だ」

 不意に、口調から丁寧さが剥がれ落ちた。

 地を這うような低音で、鋭い棘のように研ぎ澄まされていた。


 だが優恵はその変化を拒絶することなく、静かに受け入れた。

「今、電車とかバスとか、いくらでも効率的な選択肢がある中で、あえて運転という“思考を拘束されるだけの時間”を選ぶなんて。先生のことなら、リスクや非生産性を理由に、興味がないものかと思っていました」


「あのなぁ……お前は俺をなんだと思ってるんだ」

 二人は車に乗り込むことなく、そのドアの傍らで対峙している。


 彼女は、今まで常に周囲の期待に応える『完璧な橘優恵』を演じ続けてきた。

 表で見せる慎ましやかな顔と、人目を引く美しい容姿。


 彼女が優雅に微笑むたび、周囲の男たちは勝手に理想の幻想を抱き、熱を上げた。

 彼女はその熱を、どこか冷めた目で見つめることでしか、自分の輪郭を確認できなかった。


 相手の好意を加速させる言葉を、毒を盛るように慎重に選び、自分自身は決して本心を明かさない。

 その狡猾な防衛本能こそが、彼女の唯一の生存戦略だった。

 だが、目の前のこの男には、その戦略が一切通じない。


「……それで、私に本当は、何の用なんですか?」

 全てを見透かす眼差し――本心を偽り、隠し続けている彼女だからこそ、鍛えられた嗅覚が働く。


「お前……本当は、俺のことなんて大して好きなわけじゃないよな」

 だが彼もその言葉に別段、驚きはしない。

 本質を見抜く目というのは、何も彼女の特権ではないからだ。


 そして問いかけられたその言葉に、優恵の指先がピクリと跳ねた。

「……なんです、急に」


「おかしいと思っていたよ、最初から。お前が俺に寄せる熱は、純粋な執着じゃない。お前は自分を愛していない。だからこそ、自分から発する“偽物の愛”だけで空虚を埋め、満足しようとしている。常に“奪う”と“愛”をイコールに結んでいる俺とは、正反対の存在だ」


「…………」

 沈黙――それは今まで見てきた茅野斗亞としての人物像とはかけ離れた、この男に対する警戒心と嫌悪感からなのか、それとも虚をつかれたことに対する疑心感からなのか。


「……なぁ、お前。その綺麗な瞳の奥で、本当は何を望んでる?」


「……それが先生の本性なんですか? さっきから随分と乱暴な言葉遣いですけど、まるで別人みたいですよ」

 優恵は言い返しながら、喉の奥が焦げるような熱を帯びるのを感じていた。

 今まで、誰も自分の本性に触れる者はいなかった。

 誰もが美しい橘優恵という外殻に恋をし、中身の空洞を見ようとはしなかった。


 だが、この男は違う。

 自分と同じ、あるいは自分以上の歪みを抱えて、真っ直ぐに自分を刺し貫いてくる。


「先生……私、先生のこと、好きです」

 思わず口から出た言葉に、優恵自身が一番驚いていた。


 『好き』なんて、一度も使わずに済んできた言葉だ。

 一度口にすれば、自分が保ってきた均衡がすべて崩壊する。それなのに、目の前の『怪物』にだけは、それを捧げたいと思ってしまった。


 それは好意なんて生温いものではなく、完璧に整備された退屈な日常の檻をぶち壊してくれる、劇薬への渇望だった。


「……ははっ、言っちまったな。それは、お前の中で一番重いカードなんじゃねぇか?」

 『繞』が、ゆっくりとその手を伸ばす。


 優恵は、抵抗しなかった。

 それどころか、自分からその体温に吸い付くように身を預けた。

「……ねえ、先生。私を、壊して。このまま“綺麗な私”のままで終わらせて」

 逃げることを拒否し、彼女自身の意思でその『終わり』を歓迎する。


 背後の車は、ただ物言わぬ無機質な観測者として、その光景を縁取っていた。


「……ありがとう。最後に、あなたで良かった」


 視界が白く、弾ける――。




  *****




「…………っ!?」

 見えない何かによって無理やり意識を引き戻されると、斗亞はゆっくりと上体を起こした。


 昨夜はあれから酷く気だるくて、帰宅するとそのままソファに横になっていた。  

 最初こそ数分だけの仮眠の予定だったが、思った以上に蓄積していた疲労に飲み込まれ、深い眠りについていたようだ。


 斗亞は数ヶ月ぶりとなる、鮮明な夢を見ていた。


 網膜に焼き付いていたのは、橘優恵の最期の微笑と、彼女が零した言葉の残響。

 それは、斗亞の知らないはずの記憶。


 世間ではそれを悪夢と呼ぶのだろうが、彼は平然としていた。

 それはあまりに彼の日常に、深く溶け込んでいたからだ。


 周囲を見渡せば、この部屋に誰かが足を踏み入れた形跡はない。おそらく悠司は職場の仮眠室で夜を明かしたのだろう。


 今もまだ残る手の感触。

 記憶はないのに、感覚だけは生々しく斗亞に纏わりつく。


 ただ、無感情にしていた心が融解されそうになる。

 物事の本質を冷静に分析し、現段階での最適解という選択を常に取っている斗亞に、感傷に浸る余白は残されていない。


 自分の『本能』である、隠すことだけを考えていく。

 これからも――。






ご覧いただきありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら、ブックマークや評価をいただけると執筆の励みになります。

よろしくお願いします。


※本作は毎週水曜日・土曜日の20:20頃に更新予定です。


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