第7話:閃光電球
大学の講義棟――。
夕暮れ時の、誰もいない教室。
副業の非常勤講師としての務めを終えた斗亞は、静まり返った空気の中で講義資料を鞄に詰めていた。
板書の消し跡が白く残る黒板。
机の天板に無数に刻まれた、何代分もの学生たちの筆圧の痕。
窓の外からは、遠く運動部の掛け声が夕焼けの残光に溶けるように微かに聞こえてくる。
そこへ、鎮まりきった空間を切り裂くように、 コツッコツッと、ヒールが硬い床を叩く音が扉の方から規則正しく響いた。
「先生、少しお時間よろしいでしょうか?」
振り返ると、そこに立っていたのは大学院生の橘優恵だった。
彼女はいつも講義室の端の席で、静かに、だが熱心にノートを取る学生だ。
奥ゆかしく、静謐な空気を纏った彼女に、斗亞はいつしか居心地の良さを感じていた。
そして、それが一種の好意であることを、彼は意識的に無視し続けてきた。
「橘さん、どうかしましたか。講義で不明な点でも?」
「いえ……」
一瞬、言葉を探すように視線を泳がせてから、優恵は真っ直ぐに顔を上げた。
「先生って、お付き合いされている方とか……いらっしゃるんですか?」
唐突な問いに、斗亞は無意識のうちに眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
思考を切り替える際の、癖になった仕草だ。
「……それは講義の内容には関係ありません」
「知りたいんです」
優恵は引かなかった。
「講義でも仰っていましたよね。人の行動原理は、仮説の集合体だって……その、実験対象としての興味、です」
淡い、けれど逃げ場のない熱が彼女の瞳の奥に宿っている。
斗亞と同一個体であり、理性の側面としている『黎』が、はっきりと警告を発した。
これ以上、彼女に関わってはダメだ。
日常の計算式が、致命的に狂ってしまう。
「……いません」
短く、拒絶するように区切った。
「過去から今まで、そんな人は誰一人として」
それは嘘ではなかった。
少なくとも、斗亞《黎》という人格の認識においては。
「なら……」
優恵はさらに一歩、物理的な距離を詰める。
「私に……可能性はありますか?」
奥ゆかしい、彼女なりの告白だ。
「ゼロです」
即答だった――。
「期待させるのは、僕の本意ではありません」
一瞬、彼女の唇が細かく震えた。
だが、すぐに小さく息を吐き、どこか寂しげに笑う。
「でも……ゼロって、数学的に完全に『無い』わけじゃないですよね」
そして、決然と言い放った。
「宇宙的な規模の確率であっても、微かな数字がそこに宿っているなら……私は、それを信じたいです」
返す言葉は、もうなかった。優恵は一礼し、静かに教室を後にした。重い扉が閉まる音が、無人の教室にやけに大きく響いた。
――……けっこう押しが強い子だったな、あの子――
脳内で、繞が下卑た、それでいて愉悦に満ちた笑い声を上げた。
――あんなに可愛いのに。俺が代わりに応えてやろうか?――
「馬鹿なことを言うな……」
斗亞は低く、自分を戒めるように呟く。
「僕とお前は肉体を共有しているだけだ。心は一つじゃない」
――さいですか――
繞は楽しげに鼻を鳴らした。
――けど、黎……お前、今、少しだけ心拍数が上がったろ?――
その指摘に、斗亞は反論できなかった。
繞はすべてを知っている。
斗亞が優恵に惹かれていることも、そして――斗亞が誰かを愛そうとするほど、自分の中で『独占欲』という名の毒が、確実に精製されていくことも。
「繞……彼女には、絶対に手を出すな」
予感という楔が、見えないところから斗亞を縛り上げる。
――さぁな……――
気怠げな笑い。
――衝動は、俺の意志じゃなくて本能だからな――
*****
数日後。 意識が空白の断層を挟んだあと、斗亞《黎》が精神の表層に浮上したとき——
世界は、ひどく冷たく静まり返っていた。
まず視界に入ったのは、湿ったコンクリートの床。
次に、その上に無造作に横たわる『物』。
橘優恵が、そこにいた。
街灯の乏しい光が窓越しに差し込み、彼女の輪郭を残酷なほど美しく縁取っている。
天井の古びた蛍光灯が唸るような音を立て、無機質な白い光が、生気を失ったその身体を照らし出していた。
斗亞は動揺しなかった。
悲鳴も、嗚咽も、言葉すら出てこない。
ただ、いつも以上に他人事のように、その遺体を見つめていた。
惹かれていたはずの感情さえ、既に自分から切断されてしまったかのように。
「わりぃー……」
斗亞と同一の喉を介して、繞が満足げに、そして酷く穏やかな声で囁いた。
「うっとうしかったから殺したのか?」
「まさか」
繞はくすくすと笑う。
「俺もこいつに惚れちまったんだよ。だから、俺だけを見つめて死ぬように……俺が殺してやった」
繞の殺意は、怨恨ではない。
繞の愛は、暗闇の中で焚かれる閃光電球だ。
相手の命が尽きる刹那、自分という存在を最大光度で炸裂させる。
あまりに強烈な光は相手の網膜を焼き切り、絶望と法悦の残像となって永遠に定着する。
彼にとって殺人とは、相手の人生というフィルムの末尾に、自分という劇薬をプリントする行為だ。
他の誰の記憶も入り込めないほど、すべてを真っ白に焼き飛ばすための凄惨な儀礼に他ならない。
「俺だけを見つめて死ぬように、俺が独占してやった。こいつの網膜には、今も俺の顔が焼き付いてる……これ以上の“一番”なんて、ねぇだろ?」
「……黙れ」
斗亞は震える手で眼鏡を押し上げ、強引に思考を切り替えた。
悲嘆に沈む時間は一秒たりともない。
一刻も早くここを――『何もなかった場所』に戻さなければならない。そうでなければ、自分も、そして悠司との平穏な日常も、すべてが瓦解する。
半地下の駐輪場。
夜間はほとんど使われないコンクリートの箱。
天井の隅には防犯カメラがあり、その死角も把握している。
自身の指紋、彼女の持ち物、全てが予定調和かのように斗亞の脳裏でパズルのピースが、次々とはまっていく。
そのとき。 場にそぐわない軽やかな足音が、コンクリートの反響を伴って近づいてきた。
「っな……なんで、君が」
振り向いた先に立っていたのは、紗莉菜だった。
この時間、この場所に人がいるはずがない、ましてや——彼女が。
「……もう、お姉ちゃん」
紗莉菜は困ったように微笑みながら歩み寄った。
「こんなに涎を垂らしちゃって。綺麗な顔が台無しだよ。ほら……私が拭いてあげる」
優恵の傍らに跪き、ハンカチで口元を丁寧に拭う。
そこに恐怖の色は微塵もない。
むしろ壊れ物を扱うか如く、慎重で慈しむような手つきだった。
視線が、ゆっくりと優恵の首元へと這う。
紫色に滲んだ、指の痕。
「ヘぇ〜……首を絞められたんだ。この広がり方は……」
前頸部の広範囲に及ぶ皮下出血。
両手の掌で、強く圧迫された証拠だ。
「よかったね。好きな人に、最後の瞬間まで見つめられながら死ねたんだ……」
紗莉菜は、穏やかな笑みで囁く。
「マトさんの一番濃い記憶として、永遠に生きられるんだもの」
「どうして、お前がここに……それに、お姉ちゃん、だと?」
繞の懐疑を含んだ問いに、紗莉菜はあっさりと答えた。
「この人、私の“従姉妹”なんです」
斗亞の思考が、一瞬凍りついた。
似てはいない――だが、血縁だけが持つ、説明のつかない透明感が遺体の上に冷たく浮かんでいる。
——目撃された。
斗亞の内側で、殺気が形を成しかけた、その瞬間。
「あはは」
紗莉菜は笑った。
あまりにも場違いで、あまりにも楽しげな笑い声。
「マトさん。私は何をすればいいですか? あなたが望めば、何でもします」
彼女にとって、目の前の男は“斗亞”でも“黎”でもない。
殺意を具現化する“繞”という一個の個体だった。
「……自ら共犯者になるということか? わざわざ破滅の蜜を啜りにくるなんて、相変わらずイカれてんな、お前」
「共犯……できることなら、あなたと一つに溶け合いたいくらい。なんなら、お姉ちゃんを殺したのは私だって言ってもいい」
「へぇ……おい黎、身代わりになってくれるってよ」
「……繞、黙れ」
紗莉菜は周囲を気にした様子もなく続けた。
「私、アリバイ作りには自信があるんです。従姉妹ですから、この人の“癖”も“交友関係”も、全部知っています」
その提案は、溺れる者に差し出された蜘蛛の糸だった。
「お姉ちゃん、外ではどこかのお嬢様って感じだけど、私生活は結構ズボラでガサツなの。だから携帯のパスコードだって、自分の誕生日だったりして」
紗莉菜は斗亞から優恵のスマートフォンを奪い取ると、手慣れた手つきで操作を始めた。
いつの間にか嵌められた薄い手袋が、液晶を叩く。
指紋一つ残さないその動作は、どこまでも用意周到で、残酷なほど迷いがない。
「斗亞さん、警察は死体より先に、その人が最後にどこで、誰と、何をしていたかを見るんですよ――今夜、誰かに会う予定だった。でも、相手は特定できない。そういう“余白”が一番、警察を悩ませるんです」
独り言のように言葉を区切りながら、彼女は入力を続ける。
「相手は友達かもしれないし、男かもしれない。あるいは……誰にも言えない誰か。そういう曖昧な期待を撒いておけば、警察の視線は現場から遠ざかる」
紗莉菜は小さく笑い、画面をスワイプした。
「お姉ちゃんね、表では“良い子”なんです。でも、息が詰まると……必ず裏で毒を吐く癖がある」
紗莉菜が不意にスマートフォンを裏返すと、そこに表示されていたのはSNSの裏アカウントの画面だった。そこには、日常で抑圧された感情の澱が無秩序に沈殿していた。
「……ああ、三日前か。何か、嫌なことがあったんだろうな」
愉しげでも、哀れみでもない観察者の声。
「ちょうどいいから、この投稿に絡めて……“匂わせ”だけ、足しておこ」
彼女が作っているのは『流れ』だ。
事実を捏造するのではなく、すでに存在している感情の痕跡を少しだけ未来へ伸ばす。
「人って、動揺すると……証拠隠滅のために、すぐ“物”を動かしたくなるんです。でも、動かす方が、よっぽどリスクが高い。だから本当に感覚が“麻痺”している人は――」
一拍、間を置いて。
「物的証拠も、物的事実も、あえて動かさない。ただ、情報と整合性だけを、ほんの少しズラすんです」
そして、彼女が行っているのは死の隠蔽ではない。
『橘優恵』という人間の、人生の書き換えだ。
存在しない『誰か』と会うために、彼女が自分の意志でここへ来たという物語を、電子の海に刻み込んでいく。
「はい。これでこの人を調べても、この場にいる誰にも手繰り寄せる糸はなくなりました。あと、防犯カメラ周りの物理的な上書きは、私より“クロ”さんが得意だと思うので……お任せしますね」
言うや否や、紗莉菜は興味を失った玩具のように、スマートフォンを優恵の遺体の上へ無造作に放り投げた。
「ふぅ……夏と言っても、この時間帯の駐車場はさすがに冷えますね。じゃあね、お姉ちゃん……では、斗亞さんも、また」
紗莉菜はそう言うと、コンクリートの底に不気味なほどの静寂を置いて、夜の闇へと溶けていった。
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