第6話:分離できない澱
悠司が作ってくれる食事は、いつも温かかった。
白磁の皿を通して、木製の箸を通して、誰かが自分のためだけに時間を割いたという揺るぎない事実そのものが、まだ湯気を上げている。
斗亞はリビングのテーブルに座り、カボチャの煮物を静かに口へ運ぶ。
出汁の香りが鼻を抜け、胃に落ちていく感覚が斗亞に安らぎを与える。
その温かさを感じるたびに、斗亞の脳裏には決して拭い去ることのできない、別の『触感』が鮮明に蘇る。
咽せ返るような鉄の匂い。
濡れたように冷たく、脂ぎった床の感触。
殴り飛ばされた頬が床に触れた時の、あの骨まで冷えるような硬さ。
苦々しい記憶が、過去である事象を『記録』のような無機質な情報として昇華していく。
――……黎。そんな仏頂面で食うなよ。せっかくのメシが、泣いてるぜ――
意識の深淵で、繞がわざとらしく、小馬鹿にしたように問いかける。
茅野斗亞の実の両親は、彼を愛さなかった。
それどころか、彼にとっての『両親』という存在は、いつ理不尽な暴力に転じるか分からない災害の根源であり、食事を与えないという形で幼い命を弄ぶ、飢餓の支配者に過ぎなかった。
怒鳴り散らされる理由など、最初から存在しない。
殴られる理由も、説明されることは決してない。
ただ、彼らにとって斗亞が『そこにいる』という生存の事実そのものが、赦されざる罪だった。
ある日、いつも以上に凄惨な虐待の最中で、斗亞の意識は唐突に白く弾けた。
痛みが、恐怖が、思考そのものが、許容限界を超えて断線した——その空白の隙間に、もう一つの人格は――そこに居た。
繞は殴られても、一滴の涙も流さなかった。
骨を軋ませる衝撃を、自分に向けられた強烈な注意として、歪んだ感情が全てを上書きする。
口端から血を流しながら笑い、怯える両親を見下ろして心の底から憐れんでいた。
その後、両親は交通事故であっけなく逝った。
因果応報も救済もない、あまりにも唐突で無意味な偶然の産物だった。
奇跡的に生き残った斗亞を前に、集まった親戚たちは一様に顔を曇らせた。
そこにあるのは同情ではない、親戚たちは腫れ物を見るような目で関わりを拒絶していた。
『子供だから』という社会的な理由だけで、斗亞はどこかへ引き取られる。
だが、差し伸べられた手はすぐに、熱い石を放り投げるように次の大人へとなすりつけられる。
まるで、触れてはいけない異物を、形式的な責任感だけを燃料に回し続けているかのように。
斗亞自身も、半ば諦めていた。
自分はそういう、世界から疎まれる存在なのだと。
そんな彼を、泥濘の中から唯一『人間』として引き上げたのが、当時まだ医大生だった悠司だった。
「……あなたたちは正気なのか」
親戚会議という名の責任転嫁の場で、悠司は大人たちを相手に一歩も引かなかった。
声こそ荒げなかったが、その双眸は鋭く、逃げ場のない正論で場を凍りつかせた。
「こんな小さな子供を、あんたら大人だろうが……恥を知れ」
沈黙が落ちた。
誰一人として、学生の青臭い正義感と切り捨てることすらできなかった。
その毅然とした背中を見た時、斗亞は生まれて初めて、世界に色というものがあることを知った。
悠司が与えてくれたのは、教育と、安らぎと、そして—— 『普通』という名の仮面を被り、社会に溶け込むことを咎めない寛容さだった。
だからこそ、斗亞は決めた。
この平穏な聖域を守るためなら、自分はいくらでも汚れ役を引き受ける。この日常を壊す可能性があるのなら——たとえそれが自分自身であっても、徹底的に排除する。
「…………」
「……斗亞。箸が止まっているぞ」
悠司の穏やかな声に、斗亞はハッと我に返った。
悠司の鋭い視線は、父としての慈しみと同時に、精神科医としての鋭敏な観察眼を宿している。
「何か、悩み事か?」
斗亞は反射的に心拍数を抑え、コンマ数秒で表情筋を調整した。
一点の曇りもない『理想的な息子』の微笑みを、完璧に貼り付けて見せる。
「いや。ちょっと、職場のデータのことで考え込んでたんだ」
「無理はするなよ。最近、少し顔色が良くないように見える」
「ははっ……気をつけるよ」
それ以上、悠司は深く踏み込まなかった。
その絶妙な距離感こそが、今の斗亞にとって唯一の救いだった。
*****
斗亞《黎》と繞の共生関係は、実に奇妙な均衡の上に成り立っていた。
一つの肉体を共有しながらも、人格の境界線は冷徹に分離している。
黎が表舞台に出ている時、繞は意識の底層で微睡むか、あるいは映画館の特等席からスクリーンを眺める観客のように、黎の視界をリアルタイムで共有している。
「今日は僕が三時間、集中して文献を読み込む。邪魔をするなよ」
――わぁーってるよ。お前のマジメ腐った勉強に付き合う気はねぇよ。つまんねぇから、俺はちょっくら寝るわ――
交代人格である繞は、独自の欲求を持っていた。
黎が栄養バランスの取れた和食を好むのに対し、繞は味覚を麻痺させるような刺激物や、極端な空腹を好む傾向がある。
どちらかが食事を摂れば、生理的な満腹感は共有されるが、精神的な飢えまでは満たされない。
そして何より厄介なのが、繞の持つ『愛』への異常なまでの飢餓だった。
幼少期に与えられなかった無償の愛情は、彼の中で真っ黒に歪み、変質し、『相手の最後の一秒までも独占する』という、破壊的な執着へと凝固していた。
――黎、お前はいいよな――
脳裏に響く繞の声には、毒々しい嘲笑と、隠しきれない羨望が入り混じっていた。
――悠司さんに守られて、陽の当たる場所で綺麗なフリをしていられるんだからな――
「違う……」
斗亞は洗面台の鏡に映る自分を見つめながら、心の中で反論する。
「僕が守っているんだ。お前という制御不能な獣から、あの人の日常を」
――ハッ。笑わせんなよ――
繞は即座に、その理屈を切り捨てた。
――本当は怖いだけだろ? あの人に、俺たちが“息子”じゃなくて“患者”として見られるのがさ――
斗亞は、言葉を失った。
鏡に映る自分は、国立研究機関に勤める極めて真面目な研究員・茅野斗亞の顔。
だが、その瞳の奥底、深い暗闇のなかには——精密なクロマトグラフィーの底に沈殿する澱のように、決して分離することのできない黒い衝動が、静かに、だが確実に揺らめいていた。
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