第5話:紙面の外側
新聞社の編集フロアは、夕刻が近づくにつれて独特の熱を帯び始める。
それは昼間の淡々としたルーチンワークとは明らかに異なる。締切のデッドラインが秒読みで迫り、無数の判断が積み重なり、集まった情報が『記事』として命を得るか、そのままゴミ箱へ『死ぬ』かを冷徹に選別される時間帯だ。
キーボードを叩く乾いた打鍵音が絶え間なく響く。
周囲を警戒するように声を潜め、受話器越しに何かを詰める記者たちの低い囁き。
刷り上がったばかりのゲラ紙から漂う、鼻を突くインクの匂いと古い紙が混ざり合った独特の香気。それらが渾然一体となり、フロア全体をピリつかせている。
ここでは、空気そのものが情報へと変質しているような錯覚さえ覚える。
「編集長。この件なんですが……」
騒然とした空気の中、声をかけたのは蒼葉陸兎だった。
清潔感のある短髪に、皺ひとつない糊のきいたシャツ。姿勢は自然体だが、格闘家のように無駄な動きを削ぎ落とした立ち方をしている。
年齢の割に落ち着いた佇まいを見せているが、その目の奥には、情熱と形容されるだろうそれが宿っている。報道畑に身を置きながらも、理想という名の青臭い火種を完全には捨てきれない——そんな男の眼だった。
「どうした、蒼葉」
編集長はモニターに視線を固定したまま応じる。
画面には、明日の紙面レイアウトがパズルのように組み合わされていた。
そこに並ぶのは、すでに検証を終え、『決定事項』として処理された話ばかりだ。
「この前の国立研究機関で起きた、研究員が死亡した事件ですが……警備体制を確認しましたが、やはり外部からの侵入はかなり不自然です。物理的にも、論理的にも」
編集長の指が、マウスを操作する動きをぴたりと止めた。
「警備員が第一発見者だったな」
「ええ。蒔田という守衛です。ただ、どうしても動機が薄すぎる。金銭目的なら殺人よりももっと効率のいい方法がありますし、内部の怨恨を洗っても、彼があの状況で手がかりを一切残さずに実行できるとは思えません」
陸兎の言葉は、努めて感情を抑えた報告調だった。だが、その言葉の端々には、どうしても拭いきれない『納得できない』という違和感が、滲みでいた。
編集長は小さく息を吐いた。それは溜息というよりも、これ以上話を広げないための幕引きの合図に近い。
「警察は、ほぼ固めにかかっている。内部犯行の可能性はなく、怨恨なし、突発的な事故。世間的には……すでに“解決した事故案件”だ」
「……だからこそです」
陸兎は一拍置いて、真っ直ぐに言った。
「この事件、もう少し自分に追わせてもらえませんか?」
その瞬間、周囲の喧騒がふっと遠のいたように感じられた。
編集長はようやく顔を上げ、陸兎を真正面から射抜くように見た。
「ダメだ」
即答だった――。
一切の余白、一切の交渉の余地を残さない拒絶。
「どうしてですか」
「すでに、“別の人間”が首を突っ込んでいる」
陸兎の喉が、わずかに上下した。
脳裏をかすめた最悪の予感が、冷たい確信へと変わる。
「……映見、ですか」
その名を口にした瞬間、編集長の表情が目に見えて硬直した。周囲に聞き耳を立てている人間がいないか、無意識に視線を鋭く走らせる。
「あいつには関わるな」
声は低く、短く、警告に満ちていた。
「あいつは正義感で動く人間じゃない。真実よりも、自らの望む結果を優先する……下手をすると、俺たちは彼女の描く絵図のための“材料”にされるだけだぞ」
記事のために真実を追う。それは、このフロアにいる全員が共有しているはずの、美しき建前だ。
だが、結果のために真実を切り捨てる人間がこの世界には確実に存在することを、編集長は嫌というほど知っている。
陸兎は、ほんの一瞬だけ悔しさを押し殺すように目を伏せた。
「……なるほど」
静かな声だった――。
「なら、この事件は――“綺麗に片付いた”という扱いになるわけですね。上層部にとっても」
「そういうことだ」
皮肉とも、諦念ともつかない言い回し。編集長はそのニュアンスに気づいたが、あえて何も言わずに視線をモニターへ戻した。
「不満そうな顔をするな。芸能部がこの前やらかした誤報の件があって、上が神経質になっているんだ。不確かな情報や、ましてや宝蔵院と衝突するようなリスクは今は通せない」
「……分かりました」
陸兎はそれ以上食い下がらなかった。だが、自席に戻るその背中は、妙に真っ直ぐで、決して折れてはいなかった。
デスクに座り、モニターを見つめた――表示されている事件のデータベース。
〈事実上の捜査終結〉
〈捜査終了予定〉
そこに並ぶ文字は、あまりにも整いすぎていた。
余白がなく、疑問が入り込む隙間さえ徹底的に塗り潰されている。
「……本当に、便利だよな」
誰に向けたとも知れない独り言。
その声は、再び激しさを増したキーボードの打鍵音と、鳴り響く電話のベルにかき消された。
紙面には決して載ることはない。
だが、確かに何かが、誰かの都合で強引に終わらされた。
その冷ややかな感触だけが、蒼葉陸兎の胸の奥に重圧として重たくのし掛かる。
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