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黎繞(クロマト)グラフィー ―愛と殺意の同一性―  作者: 柊ソラ


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第4話:記録される狂気



 あれから、実況見分として、立ち会いと追加の事情聴取に半日を費やした。


 ようやく警察の監視の目から解放されたのは、太陽がビルの隙間へ沈みかける頃だった。

 自身の完璧な工作を嘲笑うかのような、あの写真の正体を突き止めねばならない。そうでなければ、もはや平穏な夜など訪れない――そのことは、疑いようもないほどに明白だった。



 夕暮れ時。地図が示すアパートへ辿り着いた斗亞は、錆び付いたドアに手をかけ、わずかに力を込めて押し開けた。


 部屋の中は、異様な光景だった――。

 すべての窓は厚い遮光カーテンで覆われ、外光を完全に拒絶している。

 天井からは無数のガラス細工が吊り下げられ、僅かな隙間から漏れ込む街灯の光を受けて、暗闇の中に狂ったような虹色の反射を撒き散らしていた。


「……遅かったですね、茅野斗亞さん。来ないかと思って、ヒヤヒヤしちゃいました」

 声のした方、部屋の奥に視線を向ける。

 ボロボロのソファで膝を抱え、身を縮めるように座っていたのは、今朝、研究所の外でぶつかってきたあの少女だった。


 スカートは短く、ネクタイは緩んでいる。

 ぶつかってきた時に感じた、学校という檻から逃げ出したまま、時間を止めてしまったかのような姿だ。


「……君は、一体……この写真をどこで手に入れた?」


「写真は、ただの挨拶ですよ……初めまして。私は桐崎きりさき紗莉菜さりなって言います……それ、斗亞さんが昨夜、あんなに一生懸命キーボードを叩いて消したはずの『ゴミ』ですよね?」

 そう名乗り上げた彼女は、右手の親指を唇に押し当て、不敵な笑みを浮かべる。


 その仕草一つ一つが、年相応のものとはどこか噛み合っていない。

 斗亞の眼に、彼女はもはや一人の少女として映らなかった。

 そこにいるのは――人間を観察対象としてしか見ていない、『不気味な観測者』だった。


 紗莉菜は小脇に置いていたノートパソコンを持ち上げ、画面を斗亞へ向ける。

 そこには動画が再生されていた。

 バルブを回す斗亞……そして、その瞬間に人格が入れ替わり、恍惚とした表情で死体を見下ろす繞。


「……ログはすべて上書きした。侵入の痕跡も、パケットの断片すら残していないはずだ」

 斗亞の声には、初めて隠しきれない動揺が混じった。


「斗亞さん、あなたは頭が良すぎたんです……私は、あなたほど賢くない。ただ、あなたが消しに来るのが分かっていたから、消される前に私の手元のハードディスクに“録画”しておいただけ」

 紗莉菜は軽やかにキーボードを叩き、映像を拡大する。

 映し出されるのは繞が死体を見下ろし、唇を動かしている場面。


「……この“マト”さん、とってもいい顔をしてませんか?」

 彼女はまるで慈しむように、頬を緩める。


「……ッ!?」

 だが斗亞はそのことよりも、目の前の少女が何故その単語を口にしていることに驚きを隠せなかった。


 名前は名前であり、呼称は呼称であり、別称は別称である。

 それのどれもが人同士が認識してこそのものである。

 その個という存在を認識しているのはこの世に二人だけであり、名を知るのは二人しかいなかった。


「あれ、違いました……? よく、そう読んでいたから、そうなのかなと思ったんですけど」

 悪びれた様子もなく、事実を事実として少女は平然と口にする。


(よく呼んでいた? この写真といい、彼女は俺らをどこまで観測しているんだ)

 得体の知れない影が、斗亞の心の隙間に入り込む。


「ねえ……今、マトさんに代われたりするんですか? 直接話したいな。今度は画面越しじゃなくて……もっと近くで見せてほしいな」

 何もかも見透かすような双眸が、斗亞の奥――繞を射抜く。


――……黎、こいつマジだ――

 繞の声が、脳内で低く響く。


――俺が殺してきた連中はな、俺を見ると平常心を放棄してた。だが、こいつは違う……俺を見ながら、興奮してやがる――

 繞の警戒心に反比例するように、紗莉菜の瞳は暗い愉悦で満ちていった。


「斗亞さん……どうでしょう。これ、記者に売ったらお金になるのかな。ううん、お金なんていらないから、警察に素直に渡したほうがいいのかな。どっちが面白くなるのかしら」

 それは、誰の目にも明らかな強迫だった。

 だが、その不明瞭すぎる行動原理は、斗亞の思考に大きな乱れを生じさせる。


「そんなものを渡せば、君も疑われる。いや、疑われるどころか……研究所の防犯カメラに不正アクセスした時点でアウトだ」


「だから……?」

 紗莉菜は肩をすくめ、まるで天気の話でもするかのように言った。

「だったら、警察より先に“面白がる人”に見せるのもアリですよね。ああいう人たちって、真実そのものより……“絵になる狂気”の方が好きだから」


 斗亞は眉をひそめる。だが、その言葉が何を指しているのか問い返すより先に、紗莉菜は続けた。


「私は、マトさんがそこからどうするのかが気になっているだけ。私自身がどうなろうと、知ったことじゃないわ」

 まるで、モルモット実験の結果を待つ研究者のような口ぶりだった。


「……ちっ、うぜぇ。理屈ばっかりの黎も、映像をチラつかせるお前も」

 その瞬間――斗亞の理性が畏怖にひび割れ、内側から狂気が溢れ出す。

 表情が、劇的に変化した。冷静な研究者の瞳が、獲物をなぶり殺す獣のそれへと変貌を遂げる。


 繞は袖口から、隠し持っていたメスに近い薄刃のナイフを滑り出させた。それは、護身用という名目の凶器だ。

「ったく、どいつもこいつもグチグチうるせぇ……頭が痛くなる。苛ついた時にはな、最初からこうすんだよっ!」


 一閃――。


 繞は躊躇なく、紗莉菜の細い首筋を狙った。だが、彼女は避けなかった。

 それどころか、不意に立ち上がり、刃先へ向かって自ら一歩、足を踏み出した。


「……っ、おい。死にてぇのか?」

 ナイフの先端が皮膚をわずかに掠め、一筋の赤い線を刻む。

 それでも紗莉菜は三日月のような笑みを崩さず、繞の瞳を覗き込んだ。


「殺さないのですか、マトさん……温かいんですね。あなたの殺意」


「……あ?」

 繞の動きが、完全に止まった。


 不気味だった。

 これまで殺してきた相手は、この距離になれば命乞いをするか、絶望に顔を歪めた。だが、目の前の少女から滲み出ているのは、自分と同じ――『壊れた世界の匂い』だった。


「私、ずっと待ってたんです。私を壊してくれる“何か”……学校っていう、白くて綺麗なフリをした箱の中で、私は毎日、死んでいた」

 紗莉菜は繞のナイフを持つ手に、自分の手を重ねる。


「両親は私を『失敗作』として檻に閉じ込めて、海外へ逃げた。仕送りという名の、死なない程度の防腐剤を送りつけながら……私は、腐りもしないで、ただここで世界を憎むだけの“モノ”になった」


(……おい繞、引け。彼女の言葉に耳を傾けるな)

 脳内の斗亞《黎》が警告する。

 だが繞は、まるで金縛りにあったかのように――紗莉菜という少女に魅了されたかのように動けないでいた。


「マトさんも、同じでしょ? 誰かにとっての“一番”になりたくて、誰にも触れられない一番深いところで、愛する人を殺してる……」

「ねえ、私を殺して。その代わり、あなたの一番新しい、一番綺麗な記憶に私を定着させて」


 繞はナイフを握り直すことができなかった。残虐性で塗り固めた心が、彼女の告白によって剥がされそうになる。


「……お前は何がしたい。ただの死にたがりか? 俺らを脅したいのか?」


「そんなつまらないことするために、外になんか出たくないわ……」

「じゃあ、どうしてわざわざ……理由を言え」


「ただ、殺してほしい……」

「はっ。殺人依頼か。俺は愛と引き換えに他人の命を喰ってる、ただの狂人だ」

「いえ、殺してほしいのは……私自身」

「はっ、やっぱただの死にたがりじゃねぇか」


「悪い、口を挟ませてもらうよ」

 すると、斗亞の冷静な声が割って入る。

「それは君の目的か? それとも、目的を達成するための単なる手段なのか?」


 紗莉菜は小さく首を傾げる。

 その瞳に宿る熱は、パソコンのブルーライトよりも不気味に揺れていた。

「いいえ、斗亞さん。あなたなら分かっているはずです……マトさんに殺される、ということの意味を」


「……どういう意味だ?」


「私はね、彼に愛の告白をしているんです。文字通り、人生のすべてを賭けて」


 斗亞が言葉を失った瞬間、脳内の繞が低く笑った。


「始まりは、一目惚れでした。ある時、テレビで一件の殺人事件が報じられた。一人暮らしの女性が自宅で殺害された事件。ドアは閉じられ、鍵もかかったままだった。侵入の痕跡はどこにもない。なのに、部屋の中だけが、まるで台風に巻き込まれたみたいに荒らされていた」


「一見すれば、ただの粗雑な物取りの犯行……けれど、違った。犯人は何も盗っていなかったの。通帳も、机に置かれた高級時計も見向きもされていない。金銭目的じゃないのは明らかだったわ」

 紗莉菜は画面の動画を止め、斗亞を……その奥にいる繞を見つめた。


「最初は私怨による犯行かと思われたけど、彼女にトラブルの形跡はなかった。無差別殺人にしては、セキュリティの厳しい高級マンションへ侵入するリスクが高すぎる。警察はこれを“動機なき犯行”と呼んで匙を投げたわ」


「動機が不明なだけの事件なら、私も興味は引かなかった。けれどね、変なのよ。推定犯行時刻にマンションを出入りした人間には、全員完璧なアリバイがあった。荒っぽい手口に反して、不審な侵入者の記録は一切ない。そこで私は気付いたの……あぁ、この犯人は、デジタルの壁を指先一つで、まるでないかのように通り抜けたんだって」

 斗亞の頬が、微かに引き攣る。紗莉菜は身を乗り出し、囁くように言った。


「荒ぶる暴力と、緻密ちみつな知性。その相反する二つの色が混ざり合って、一つの芸術アートを作り上げていた。その、狂気じみた美しさに、私は初めて、心臓が跳ねるのを感じた」


「だから……」


「惚けないで……私は、あなたをずっと探していたんですから」


「……話が通じないな」

 斗亞は溜息をつき、眼鏡のブリッジを押し上げた。


 その拒絶さえ楽しむように、紗莉菜は笑みを深める。

「嫌だなぁ、人の感情を読み取るのは得意でしょ? ねぇ、今、そこにいるのは誰?」


「……おもしれぇ」

 斗亞の端正な顔立ちが、一瞬で歪んだ。

 低く、地這うような声。瞳には理性の光が消え、剥き出しの牙が光る。


 繞が、意識の表層へと這い出してきたのだ。


「あぁ、そうだよ。あれは俺だ。快楽殺人となんら変わらねぇ、ただの気まぐれだ……だがガキ、お前、自分が何を言ってるか分かってんのか? 俺の愛はな、最後の一秒を奪い去ることでしか完結しねぇんだぜ」


「分かっていますよ。だから、言ったじゃないですか」

 紗莉菜は安らかな笑顔を向けると、虹色の光が舞う暗闇の中で、繞に向かって両手を広げた。


「私を、あなたの“一番濃い記憶”にしてください……真っ白に焼き飛ばされるその瞬間まで、私はあなただけを観測し続けてあげる」


「……いいぜ」

 繞は不敵に唇を吊り上げた。

 その瞳には、脅迫者に対する恐怖など微塵も存在しない。


 繞は紗莉菜の目の前まで歩み寄り、至近距離で彼女を覗き込んだ。

「ふふっ」

 まるで勝利を確信した詐欺師のような、『おもわず』溢れた笑み。


「お前の好きにしてみろよ」

 吐き捨てるように、言葉を投げかける。


「え……」

 完璧な観測者として主導権を握っていたはずの紗莉菜が、初めて虚を突かれたように目を見開く。


「その写真は好きにしろって言ったんだ。俺はお前みたいな“自分を特別だと思い込んでいるガキ”に構ってるほど暇じゃねぇ。勝手に自己陶酔でもしてろ」


(おい、繞!  何を考えてるんだ)

 内なる斗亞が声を荒げるが、繞はそれを鼻で笑い飛ばす。


「いいじゃねぇか、黎……俺の行く手を邪魔する奴は、誰だろうと排除するだけだ。それが警察だろうが、このガキだろうがな……なぁ、お前。俺を観測したいなら、勝手にしろ。だが、俺をテメェ如きが測ってんじゃねぇよ」

 冷たく、突き放すような言葉。だが、それは紗莉菜にとって拒絶ではなく、最高の『挑発』として響いた。


「……ふふっ、あはは! 分かりました。やっぱり、私はあなたを愛することが使命なのね」


「じゃあな」

 繞は未練もなさそうに背を向け、廃墟アパートの錆びついた扉を開けた。

 夜の湿った空気が、虹色の光が舞う部屋に流れ込む。


 斗亞に意識を譲渡して、足早にアパートを後にしたとき、背中には冷たい汗が伝っていた。

「なんて無謀な真似を……彼女に写真を公開されたら、僕たちは――」


 その時、――プルルルルル。


 静まり返った夜道に、斗亞のポケットからスマートフォンが震えている。

 表示されているのは、登録のない見知らぬ番号。


「…………」

 斗亞は足を止め、恐る恐る通話ボタンを押した。

 相手が喋るのを待ち、こちらの息遣いさえも悟られないよう、スマートフォンを耳に当てる。


『……これ、私の連絡先なので。登録、お願いしますね』

 スピーカー越しに聞こえてきたのは、先ほどまで対峙していたあの少女の澄んだ声だった。


「……っ!? 僕の番号まで」

 斗亞は愕然としたが、その時、人格の奥底から繞が這い出してきた。


「ハッ、本当にお前は……おもしれぇ」

 繞の愉悦を含んだ独り言が、通話口を介して紗莉菜に届く。


『はい。それでは……また、斗亞さん。良い夢を』

 ツーツーという非情な電子音が響く。

 斗亞は液晶画面を見つめたまま、立ち尽くした。


「……狂ってる」

 呟いた言葉が、夜風に消える。






ご覧いただきありがとうございます。

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※本作は毎週水曜日・土曜日の20:20頃に更新予定です。



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