第3話:存在しないはずの観測記録
翌朝――。
研究所の正門をくぐった瞬間、斗亞の鼓膜を激しく震わせたのは、鳴り止まないサイレンの残響と門前に詰めかけた野次馬たちが漏らす卑俗な囁き声だった。
昨日までの静謐な研究施設は、一夜にして無遠慮な好奇心の標的へと成り下がっていた。
――……始まったな、黎――
脳内の暗がりに潜む繞が、興奮を隠しきれない様子で喉を鳴らす。
その歓喜に満ちた声が、神経の裏側を逆撫でする。
斗亞は無表情を貫き、白衣のポケットの中で拳を固く握りしめた。
「下手にしゃべるな。今の僕は、上司の訃報に驚愕した一研究員だ。それ以外の何者でもない」
質量分析室の入り口には、鮮やかな黄色い「KEEP OUT」のテープが、幾重にも執拗に張り巡らされていた。その奥では白い防護服に身を包んだ鑑識課員たちが動き回り、微細な証拠を採取する実況見分が始まっている。
「茅野くん! 大変なんだ、川西さんが……!」
守衛の蒔田が、幽霊でも見たかのような土気色の顔で駆け寄ってきた。
「川西さんが……? 昨日、僕が帰る時は、あんなに熱心に資料を読んでいたのに……」
蒔田から事の経緯を一通り聞かされながら、斗亞は計算し尽くされた『困惑』の仮面を顔に貼り付け、わずかに声をうわずらせた。震える指先、強張る肩——それらすべてが、善良な市民としての記号だ。
「今、警察が現場検証をしていて、僕ら研究員は今日は立ち入り禁止だ。隣の事務棟で、順に事情聴取を受けることになっている。君も心の準備をしておきなさい」
上司の男が斗亞の元まで近づいてくると、慎重に言葉を掬うように言い放った。
「……事情聴取、ですか。分かりました。僕もすぐに向かいます」
動揺を装い、斗亞が事務棟へ向かおうとした、その時だった――。
廊下の向こう、警察関係者らしき男たちの低い密談が斗亞の鋭敏な聴覚に引っかかった。
「……外、かなり集まってますね」
「あぁl、報道も来てる。テレビ局だけじゃない。フリーも混じってるぞ。あの……宝蔵院って女もな」
「……そりゃぁ、また厄介っすね。変に掻き回してくれなきゃいいっすけど」
「どうだろうな。あの女は正義感ってより、獲物の匂いだけで動くタイプだからな……」
宝蔵院——その名前を聞いた瞬間、斗亞の胸の奥で得体の知れない違和感が微かに脈打った。
まるで完璧な数式の中に、一滴の墨汁が混じり込んだかのような不快感。だが、それを表情に出すことは万に一つもない。
「……失礼します」
斗亞は何事もなかったかのように深く頭を下げ、事情聴取の待つ部屋へと足を踏み入れた。
*****
数時間に及ぶ形式的な聴取を終え、「本日の実況見分が終わるまで立ち入り禁止。自宅待機するように」と指示されたのは、太陽が南中を過ぎた頃だった。
研究所内は依然として鑑識や捜査員が慌ただしく出入りしており、廊下には異様な静寂と張り詰めた緊張が同居している。
肺に溜まった淀んだ空気を吐き出すように、斗亞は正門を抜けて敷地の外へと出た。
規制線の境界付近には、依然として野次馬や報道陣が黒い塊となって群がっている。
「……ふぅ」
斗亞は彼らの卑俗な好奇心から距離を置くため、少し離れた街路樹の陰へと移動し、重い溜息をついた。
ここはもう研究所の管理下ではない。
一般道と混じり合う、誰がいてもおかしくない『境界の外』だ。
すると、不意に——。
「きゃっ!?」
背後から小さな衝撃が走った。雑踏から逃れようと急いでいた誰かが、斗亞にぶつかったのだ。
その人物はバランスを崩し、斗亞の胸元にその細い肩を預ける形になった。
「あ、ごめんなさい……」
伏せられた目元。不釣り合いに整った前髪の間から覗き込むような湿った視線。
少女は制服を着ていたが、その着こなしはどこか投げやりで、まるで学校という檻を否定しているかのように乱れていた。何より、彼女の纏う空気がこの喧騒とは似つかわしくないほどに穏やかなもののように感じた。
「いや……大丈夫だよ」
斗亞が短く、事務的に答えると、少女は申し訳なさそうに頭を下げて足早に雑踏の中――野次馬たちがひしめく大通りへと消えていった。
ふと足元を見ると、彼女が立ち去ったアスファルトの上に一枚の白い封筒が落ちているのに気づく。
(……落とし物か?)
斗亞はそれを反射的に拾い上げる――。
宛名はなく、糊付けもされていない。
周囲に目を配り、中身を静かに確認した斗亞は心臓を直接鷲掴みにされたような感覚に陥った。
そこには、一枚の写真が入っていた。
それは斗亞が完璧に消去したはずの、昨夜の質量分析室の静止画だ。
防犯カメラの死角でありながらも、確実に『犯行の瞬間』を捉えた、この世に存在するはずのない観測記録だった。
「……ありえない。サーバーのログは完全に上書きしたはずだ。なぜだ、繞」
――知らねぇよ。だが面白いじゃねぇか……あのガキ、確実に俺たちを誘ってるぜ――
繞の狂ったような笑い声が頭蓋を震わせる。
封筒の底には、手書きの簡素な地図が入っていた。場所は街外れの、取り壊しを待つ廃墟同然の古びたアパート。
斗亞は地図を握り締め、少女が消えた雑踏をただ見つめ返すことしかできなかった。
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