第2話:冷めた焼きそばと、慈愛の針
夜の帰り道――。
斗亞はいつも通りの足取りで、いつもの道を歩いている。
その光景だけを見ると何事もなかったかのように、いつも通りの場面だ。
精神的な『昂ぶり』が残っている状態での自問自答。
人は死ぬ間際に誰の顔を思い浮かべるんだろう。
親か。恋人か。あるいは、自分を殺した男か。
「俺は、後者だな」
夜道でふと、自分の口から漏れた声は斗亞のものではなかった。 脳の奥で、繞が満足そうに喉を鳴らしている。
「あのおっさん、最後の一秒まで俺の顔を焼き付けて死んだんだぜ。これで、俺はあいつの一番濃い記憶となった……っま。今回は鬱陶しいから殺しちまっただけだけどさ」
実におかしそうな笑い声、愉悦に浸る不気味な微笑を溢す。
「……そのために人を殺すなんて、相変わらず理解に苦しむ」
斗亞は立ち止まり、自動販売機の横の鏡に映る自分を睨みつける。
そこには国立研究機関に務める『茅野斗亞』の、どこまでも冷静で理知的な瞳があるだけだ。
「色素分離と同じだ。僕がどれだけ透明な白を装っても、お前という毒々しい色が底から滲み出してくる」
*****
静まり返った住宅街。
斗亞は自宅の玄関前で立ち止まり、深く、長く呼吸を繰り返した。
肺に残る研究所の無機質な空気、そしてアルゴンガスの死の気配を夜風で丁寧に洗い流す。
(……顔色はどうだ?)
――悪くねぇよ。鏡を見てみろ、いつもの『いい子ちゃん』の顔だぜ――
脳内の繞が薄笑いを浮かべる。
斗亞はその声を無視し、感情のスイッチを切り替えた。
「……ただいま」
ドアを開けると、微かにソースの焦げた香ばしい匂いが鼻をくすぐった。それだけで、先ほどまでの血の通わないデジタル偽装の世界が、遠い夢のように霧散していく。
「お帰り、斗亞……今日は遅かったね。遅番か? 大変だな、研究員ってのも」
リビングから顔を出したのは、上總悠司だった。
本来着ている白衣を脱ぎ捨ててワイシャツ姿になっていても、彼は医者としての清潔感と家族としての柔らかな微笑みを同時に湛えている。
「……今の所に赴任して日が浅いから、まだ資料整理しか任せてもらえないからね。バイトみたいなものだよ」
斗亞はあえてぶっきらぼうに答えながら、丁寧に靴を揃えた。
(靴が不揃いだ……悠司さんは几帳面な性格で潔癖症の嫌いがある。にもかかわらず靴が乱れているのは、一度病院から戻り、またすぐに出勤しようとしている証拠だ。白衣もハンガーにかけていない。本当に、時間のない中で僕の夕食のために戻ってきたんだな……)
斗亞の記憶力と観察眼は、悠司の献身を瞬時に解読してしまう。
その慈愛が、罪悪感ではなく鋭い針のように胸を刺す。
「メシ、食うだろ?」
「いや、食べてきたからいいよ」
それはただの嘘――繞が誰かを殺害したあとはいつも隠蔽工作をするのだが、その時は決まって食欲は無くなっている。
黎としての本能は食事を受け付けず、繞としての衝動は目的達成したことへの高揚感が空腹を凌駕していた。
「……そっか。俺はまた病院に戻らないといけないから……一応、焼きそばを作っておいたから、腹が減ったらそれを食べておいてくれ」
悠司は少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐに明るく笑って斗亞の肩を叩いた。
「悠司さん、まるで父親みたいだな」
不意に覗かせた繞という人格が、肩をすくめ、薄ら笑いを浮かべながら言った。
「みたい、じゃないよ……俺は君の親代わりだと、昔から思ってるよ。さあ、夏だからって変な格好で寝るなよ。冷房病になるぞ」
穏やかで優しい笑みを携える彼は、まさに父親のそれだった。
「……わかってる」
悠司が玄関を出ていく。
その背中を見送りながら、斗亞は独り言をこぼした。
「……お前、時と場所を考えろ。あの人の前では絶対にその口を開くな、繞」
視線をどこに向けるでもなく、研いだ刃物のような声を空へ突き刺す。
――おぉ怖っ。お前はあの人の事となると、俺なんかより、よっぽどヤバい目をしてるぜ――
「……あの人は勘が鋭い。精神科医の彼からすれば、僕たちの関係は『解離性同一性障害』だ。下手な言動をしてみろ、あの人ならすぐに異変に気づく」
斗亞はリビングのテーブルに置かれた、時間と共に冷めていく焼きそばを見つめた。
悠司が注いでくれるこの愛情さえ、いつか繞が『独占』するために破壊してしまうのではないか。
その恐怖を脳裏に刻み込み、斗亞は静かに部屋の明かりを消した。
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