第1話:管理された日常
その男は、静かに右目だけを開いた。 網膜を刺したのは、深夜の実験室特有の青白い蛍光灯の光。空調の微かな唸りと、ステンレス製の作業台が放つ鈍い光沢が、世界を無機質に縁取っている。
視界の焦点がゆっくりと結ばれるにつれ、もう片方の瞼も重々しく持ち上げた。
「はぁ……」
漏れ出た溜息は、あまりにも深く、虚無に満ちていた。 視界の端に捉えた光景に、わずかに意識を傾ける。
そして床に転がる“物”に、男は辟易しながら肩を落とした。
目の前には、四十代半ばの男が白衣を乱し、うつ伏せになりながら、まるで何かに躓いて転倒したかのような、不格好な姿で倒れていた。
茅野斗亞にとって、それが単なる”死体”に過ぎないことは、触れずとも理解できた。
彼は応急処置を施そうともせず、救急車を呼ぶためにスマートフォンを取り出すこともしない。事件性がある状況のなか、決して警察に通報なんてこともしない。
異常な空間でさえ彼は動揺することなく、その表情は余りに涼しげで、むしろ隠しきれない倦怠感に満ちていた。
「またか、繞……」
嘆息しながら漏らした独り言は、明確に自身の内側に潜む“他者”へ向けられたものだった。
「しかたないさ。これが俺の衝動……いや、性分なんだからよ」
その声は他者からではなく、彼自身がまるで一人芝居でもするように奇妙に表情と声色を変えて答える。
だが同じ声帯を通したその声は、全く異なる熱量を持っていた。
「少し仮眠をして起きてみればこれだ……お前の尻拭いも勘弁して欲しいもんだ。お前は僕自身でもあるということを忘れるな」
「わぁーてるよ、うるさいな……黎、お前は俺の母ちゃんかよ」
「何を言っているんだ。僕たちは親の愛情なんて知らないくせに……」
斗亞は、自身の中に芽生えた理知的で合理的な側面を“黎”と呼び、その名を冠することで己を律していた。
そしてもう一つの人格である“繞”は、暴力的な面を持ち、他を圧倒するほど残虐性に特化した性格。
繞は過去の両親の虐待から影響を受けている人格で、常に愛というものに飢えている。
彼は再び、目の前の遺体に視線を落とした。今度は観察者としての、冷静な検分だ。
被害者は上級研究員の川西斉。
同じ研究所の人間だ。
学会にいくつも論文を発表するほど輝かしい実績を持ちながらも、その横柄な態度と強めの語気から、部下からの信頼は皆無。
男色の気が強く、その中でも斗亞を執拗に気に入り距離を詰めてきていた。
斗亞は川西の唇が、酸素を失いどす黒く変色していることに気づく。
「チアノーゼ……窒息死か。繞、お前まさか、ここの配管をいじったのか?」
壁際に整然と並ぶアルゴンガスの供給ライン。
バルブの目盛りが、わずかに規定値から外れている。
「へへっ、さっすが黎。こいつさ、『君の細胞の美しさを解明したい』なんて言いやがったんだ。だから教えてやったのさ。お前の細胞が一番美しくなるのは、酸素を失って、真っ青に染まった時だってな」
「……アルゴンによる低酸素脳症か」
斗亞は溜息をつき、手袋を嵌めた手で被害者の眼瞼をめくった。
出血点はない。
首を絞めた痕も、抵抗した形跡もない。
不活性ガスが、肺の中の酸素を洗い流す……本人は苦しむ暇もなく、ただ強烈な眠気に襲われてそのまま意識の底へ沈んでいく。
「安楽死か……お前にしては、随分と温いな」
「安楽死? 冗談じゃねぇよ。こいつが意識を失う直前、俺はこいつの耳元で囁いてやったんだ。『お前を殺すのは、お前が愛した茅野斗亞だぜ』ってな。穏やかな顔の奥に確かな絶望が見えたぜ」
「……この、サディストめ」
斗亞は冷たく言い捨てると、壁の制御パネルを操作しガス濃度を正常値へと戻す。
証拠という名の不純物を空気中に霧散させていく。
「さて、まずは防犯カメラか……」
斗亞は天井の一角にある防犯カメラを見上げた。
「あっ、ホントだ。気づかなかったぞ」
「あれほど防犯カメラには注意しろと言っただろ」
斗亞は慣れた手つきで個人用のタブレットを取り出し、研究所の内部ネットワークへ潜入した。
「防犯カメラの映像を丸ごと消せば、逆に不自然だ……繞、お前は僕の指示通り、一週間の何処かで今日と同じ紺色のカーディガンを着て、資料室に籠もったな?」
「ああ……三日前の月曜日、十七時から三時間。退屈で死ぬかと思ったぜ。三十分に一度、わざとらしく時計を見たり、コーヒーを啜ったりな」
それはあらかじめ想定していた証拠作りだった。
すなわちこの事象も、彼にとっては想定内の“日常”でしかない。
「それでいい。その『三日前の僕』を、今日のタイムスタンプに上書きする。照明の光量の差、空気中の塵の舞い方……それらをリアルタイムでレンダリングする」
指先が画面を叩くたびに、モニターの中の遺体が消え、『誰もいない静寂』が定着していく。
そして、次に斗亞が取り掛かったのは被害者の『生存証明』の偽造だった。
「守衛の蒔田さんが死体を見つけるのは明日の朝。ならば、この男には今夜二時まで残業をしてもらおう」
続いてタブレットにキーボードを接続し、本格的な隠蔽工作に取り掛かる。
まず、被害者の端末へリモートアクセスし、自動実行スクリプトを走らせる。
「一時間おきに学術データベースへアクセス、論文を閲覧し、ランダムな間隔でキーボードのログを残す……よし、これで統計学上、彼は今夜も熱心に研究に励んでいたことになる」
そして最後に、斗亞は物理的な足跡を残す。宿直表の入退室記録、カードリーダーの非接触履歴を書き換える。二十時に忘れ物を取りに戻ったことにし。蒔田とすれ違う一時間前には、すでに二キロ先の自宅で夕食を食べていた……という事実を、システムの深層に刻み込む。
「ハッ、完璧だな。お前、研究者より詐欺師の方が向いてるぜ」
「黙れ。僕はただ、この世界をあるべき形に正しているだけだ」
斗亞は静かに、夜の研究所を後にした。
過去にも小説を書いていましたが、しばらく離れていたため、この度、心機一転として改めて書かせていただきました。
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※本作は毎週水曜日・土曜日の20:20頃に更新予定です。




