第8話:社会的処理
橘優恵の死は、正式に『変死』として扱われていた。
半地下の駐輪場で発見された遺体。
外傷は前頸部に集中していたが、激しく争った形跡は乏しく、現場に第三者の痕跡もほとんど残されていない。
警察の初動は慎重を極めた。
断定的に他殺の可能性が高いと見てはいるものの、動機も、犯人像も、決定的な糸口がまるで見つからないのだ。
彼女のスマートフォンに残された情報の残骸は、状況をさらにうやむやにしていく。
――数日前から続く、情緒不安定なSNSへの投稿。
――誰かに会うことを仄めかす、特定不能なメッセージ。
――周囲に相談した形跡はなく、行動予定も曖昧。
まるで彼女自身が、誰にも知られず、光のない暗闇へ自ら向かって歩んでいったかのような痕跡が、デジタル情報の海に綺麗に整列していた。
斗亞が構築した物理的な死角と、紗莉菜が『既に存在していた感情』をわずかに延長させた情報操作。
二つの嘘は精巧に噛み合い、捜査線を確実に鈍らせていく。
事件は厳然としてそこに存在するのだが、誰もその核心に触れることができない。
解剖結果は、想像以上に曖昧なものだった。
死因は頸部圧迫による窒息。
だが抵抗痕はなく、自身を守ろうとした防御創も乏しい。
爪の中から第三者の皮膚片も検出されなかった。
他殺であることは疑いようがない。
だが、あまりにも『拒絶』の形跡がなさすぎるのだ。
つまり、被害者が自ら殺されることを受け入れていたとしか説明がつかない。
警察は、『嘱託殺人』の線で洗い直し始めた。
だが斗亞たち——特に紗莉菜によってばら撒かれた手がかりは、その微かな光さえも深い霞のなかに隠してしまう。
――上出来だ――
捜索が難航し、いくら警察の手が追いかけようが、こちらに届くことはない。
その事実に、繞は内側で静かにほくそ笑んだ。
――あいつ、最後まで抵抗しなかったんだぜ。俺だけを、熱い目で見つめてやがった――
(……黙れ)
斗亞は思考だけで、獣を檻の奥へ押し戻す。
満足と殺意が溶け合った余韻を、理性で叩き潰すように。
斗亞は記憶こそ『して』ないが、なぜか浮かぶ最後の顔が脳裏に染み込んでくる。
世界は、すでに次の工程へ進んでいる——事件は、『処理段階』に入ったのだ。
*****
新聞社のフロアは、昼下がり特有の倦怠を孕んでいた。
空調の低い唸り音。
キーボードを叩く指の音。
だが、その中で一人、蒼葉陸兎だけが椅子に腰掛けたまま動いていなかった。
腕を前に組み、むずかしそうに眉間に皺を寄せながらその画面とひたすら睨めっこ。
モニターに映るのは、例の大学院生変死事件の記事草稿だった。
「……納得いかねぇな」
呟きは、独り言に近い。
そこへ、デスクの向こうから声が飛んできた。
「蒼葉、何をそんな唸ってるんだ」
編集長だ――白髪混じりの頭を軽く掻きながら、湯呑みを手にしている。
「この間の、国立研究機関の研究員殺害事件……覚えてますよね」
「またその話か……あれは結局、研究員の不注意による事故ってことで片付いたやつだろ」
「ええ……でも今回も似てるんです。争った形跡がなく、第三者の痕跡が薄い……なのに、死体はそこにある」
編集長は、陸兎のモニターを一瞥し、ゆっくりと息を吐いた。
「言いたいことは分かるが……今回は、警察も慎重だ。それ以上、踏み込める材料がない」
「しかし……」
「逆を言えばその程度だ……その程度の共通点しか見つけられてない以上、俺らに何かできることではない」
「でも、今回の女子大生殺害のこの事件、何か引っかかるんですよ。場所は大学敷地内の駐車場。警備体制を考えると、外部犯行はかなり不自然です。第一発見者は点検中の警備員でしたが……正直、動機としては弱い」
編集長はキーボードから手を離し、ようやく陸兎を見た。
だが、その視線には期待も苛立ちもなく、ただの確認のための行為。
「警察も同じ見立てだ。だから今は“調査中”という扱いだろう」
「はい。ただ……不自然な点が多すぎる。金銭目的にしては、現場に残された情報が整理されすぎている。衝動的な犯行にしては、逆に――」
編集長は、陸兎の言葉を途中で遮った。
机の上に置かれていたペンを、指先で静かに転がす。
「その件は、もう社として扱わない」
「……え?」
「警察発表以上の材料がない。裏取りもできない。続報性も薄い。今の段階では、記事にならない」
淡々とした声音で、否定でも説得でもないただの結論を口にする。
「ですが……」
陸兎は食い下がりかけ、言葉を飲み込んだ。
「本当にお前とあいつは似てるな、昔から……あぁ、性格のことじゃないぞ、執着する“目”と嗅ぎ分ける“鼻”だ」
編集長は、どこか考え深そうにしながらも声のトーンを落としていく。
「それって……もしかして」
「名前を出す気はない、俺もあいつとはもう関わりたくないからな。ただ一つ言えるのは――」
編集長は、原稿の束を閉じ、低く言った。
「“真実”より先に、“面白さ”を取りに行くタイプだ。そういう人間が絡んだ案件は、最後に必ず歪む」
「……分かりました」
陸兎は、無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。
「…………」
平静を装った声を、編集長は気付きながらも疑問に思わない。
「ですが、個人的に調べることまで、止められる筋合いはありませんよね」
諦めの悪い、子供じみた言い分だが、それに対し編集長は明確な答えを返さない。
ただ、ペンを机に置き、視線だけで陸兎を制した。
それが、組織としての最終回答だった。
陸兎は一礼し、踵を返す。
背中越しに、編集長の声が落ちてきた。
「……陸兎」
珍しく、名前で呼ばれた。
「過去に引きずられるな。記者は、感情を武器にした瞬間に道具にされる」
陸兎は振り返らなかった。
「……だからこそ、見ないふりはできません」
それだけ言い残し、編集部を後にする。
編集長は、閉じたドアをしばらく見つめてから、独り言のように呟いた。
「……無茶だけは、するな」
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