第42話:知らない輪郭
駅前の喧騒から一歩外れた路地で、斗亞は立ち止まった。
ポケットの中にある紙の感触を、指先で確かめる。
折り目のついた名刺。
宝蔵院映見――ルポライター。
(……使うとは思わなかったな)
連絡先を交換した覚えはない。
ただ一度、名刺を差し出されただけだ。
その時は、必要になるとも思っていなかった。
だが今は――。
斗亞はスマートフォンを取り出し、記された番号を見つめる。
一度画面を閉じては、もう一度開く。
内側で、繞が静かに笑った。
――迷ってるのか?――
――もう、向こうは遠慮なく踏み込んできてるぜ――
「……分かってる」
誰にともなく呟いて、発信ボタンを押した。
電子音が鳴り、その間に呼吸を整える。
『……はい』
出た――。
思ったよりも早い。
「宝蔵院映見さん、だね」
低く、曇った声で電話越しの相手に問いかける。
一瞬の沈黙。
『その声……茅野くん? そっちから、かけてくれるとは思わなかったわ』
「話があるんだ」
『……でしょうね』
想定内と言わんばかりの、落ち着いた声。
「記事を読んだ」
『そう……』
言い訳も前置きもなく、肯定だけをする。
「……どういうつもりだ」
『事実を書いたまでよ』
「瑠衣ちゃんを、晒し者にしてまですることか」
『被害者であることと、無関係であることは違うわ』
ただ事実を述べるだけの、淡々とした返答。
『あの子は自分で情報を集め、自分で選択して、そして失敗した。それだけ……じゃない?』
悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに語るその声に、斗亞の胸の奥がじわりと熱を持つ。
「それを、裁く権利が君にあるのか」
『裁いてはいない、可視化しただけ……世間がどう受け取るかは、私の管轄外よ』
「……詭弁だな」
『リアリストと、言ってほしいわね』
少しだけ、声に笑みが混じる。
『君も気づいてたはず。あの子が、どれだけ無防備だったか』
否定できない――それが、余計に腹立たしい。
「だからって……」
『だからこそ、よ』
言葉は遮られ、映見がゆったりと囁く。
『誰かが止めなきゃいけなかった。もっと酷い形で“利用”される前に』
斗亞は、唇を噛んだ。
校門前の光景が、脳裏に浮かぶ。
蔓延るような視線と這いまわる意識が、じわりと混ざり合っていく感覚。
「……守ったとでも?」
『半分はね……もう半分は、警告。ああいうやり方を続ければ、必ずこうなるって』
「それを、君が教える必要はない」
『誰も教えてあげなかったから、私がやってあげた。それだけよ』
そこには被害者意識もなければ、加害者意識もなかった。
雑談という形の延長線上での、ただの会話だ。
その瞬間だった。
「――てめぇ」
声が、変わった。
低く、荒く、抑制のない声。
映見が息を呑む気配が、受話器越しにも伝わる。
「……口がよう回るな、詐欺師と話してる気分だぜ」
相手を軽蔑しているような声で、『繞』がいった。
『……誰?』
突然の声に、調子よく喋っていた映見もはてなを浮かべた。
さっきまでの声色とは違い、声音も別のもののように感じられた。
「お前は、俺“たち”のことを知らなすぎだ」
「正義面して人を壊して、それで仕事した気になってんじゃねぇぞ」
斗亞の喉を使っているが、斗亞の言葉ではない。
「勘違いすんな」
繞は嗤いながら、話し続ける。
「踏み込んだ時点で、もう安全圏じゃねぇだよ」
短い沈黙――。
『茅野くんの……協力者か、なにかなの?』
映見の声が、わずかに硬くなる。
彼女は話しているその相手を、茅野斗亞と認識していなかった。
「いや……俺は、俺だ」
繞はその問いには答えず、低く告げる。
「次に、あの女に近づいたら……」
一拍――。
「ただじゃ、済まさねぇぞ」
通話を切ったのは、斗亞の方だった。
スマートフォンを下ろし、荒い呼吸を吐く。
表裏が逆転した内側で、斗亞が静かに想いと言葉を押し殺した。
分かっている。
完全に、繞が前に出た。
主導権を、奪われた。
*****
電話が切れたあと、映見はしばらくその場から動けずにいた。
(……俺たち?)
協力者?
裏で糸を引く誰か?
だが、違う。
あの声は、『誰かが隣にいる』感じじゃなかった。
(まるで……)
一人の人間の中に、別の何かが存在しているみたいだ。
背筋に、薄く寒気が走る。
(厄介だ)
そう思いながらも、心の奥で確かな興味が芽生えていた。
蒼葉瑠衣。
茅野斗亞。
そして、名も定まらない『もう一人』。
この件は、まだ終わらない。
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