第41話:救いの形を知らない
走っている間、瑠衣はほとんど何も考えていなかった。
足が前に出る。
腕を引かれる。
背後で、ざわめきが遠ざかっていく。
それだけだった。
どれくらい歩いたのかも分からない。
人の気配が薄れ、街路樹の影が長く伸びる場所でようやく足が止まった。
「……ここまで来れば、もう大丈夫だろ」
そう言った斗亞の声は、思ったよりも低く、落ち着いていた。
瑠衣は、そこで初めて息を吸い込んだ。
肺が痛く、胸の奥がひくりと痙攣する。
自分が、ずっと浅い呼吸しかしていなかったことにその時気づく。
「……ごめんなさい」
呟くように口から出た言葉は、咄嗟に出た言葉だった。
何に対しての謝罪なのか、自分でも分からない。
迷惑をかけたことか、心配をかけたことか――。
斗亞は、少しだけ目を伏せた。
「別に、謝る必要はないよ」
きっぱりとした否定。
だが、責める響きはなかった。
瑠衣は、その言葉をどう受け取ればいいのか分からず視線を落とす。
(……あの人たち)
校門の前にいた人たちの顔が、脳裏に浮かぶ。
大半が好奇心だけで、集まっただけの連中。
そして、学校の中で初めて見た、『推定的』に自分が中心となったネット記事を思い出す。
名前は伏せられていた。
それなのに、まるで全てを知っているかのような書き方。
――蒼葉陸兎の妹。
それだけで、人格まで決めつけられる。
兄の死を調べていただけなのに。
何かを知りたかっただけなのに。
「……私」
その声は、どこか震えていた。
「間違って、たかな」
弱々しい声で、目の前の人にそっと告げる。
「…………」
斗亞は、すぐには答えなかった。
その沈黙が今の瑠衣にはやけに心地よく、話し続けるきっかけとなった。
「SNSも、情報提供も……軽率だった。ほんと、自業自得だよね」
自分で言いながら、その言葉がどこか空虚に聞こえる。
反省しているはずなのに、
納得しているはずなのに、
それで終わる話ではないと、心のどこかで分かっている。
「確かに、危険だったかもしれない。でも……それだけで、今日のことが起きたわけじゃない」
斗亞が、ゆっくりと言葉を選ぶ。
そして、瑠衣は顔をそっと上げた。
斗亞の表情は、どこか硬い。
怒っているわけでも、慰めているわけでもない。
「利用した人間がいる」
冷めたような一言――その言葉に、瑠衣の背筋が冷えた。
思い浮かぶ顔は、一つしかない。
優しい声。
親身な態度。
昔と変わらない、年上の女性。
(……映見さん)
名前を口に出すことは、できなかった。
あの人が、そんなことをするはずがない。
そう思いたい気持ちと、それでも記事の内容が現実であるという事実がせめぎ合う。
「……私、信じてた」
今にも消え入りそうな、か細い声。
「話を、聞いてくれる人だって」
斗亞は、その誰に向けたかわからない言葉に否定も肯定もしなかった。
ただ、静かに言う。
「信じたこと自体が、間違いとは思わない」
瑠衣は、その言葉に救われた気がして、同時に救われきれない自分にも気づく。
もし、信じなければ。
もし、何もしなければ。
兄の死は、今も霧の中だっただろう。
(……私は、どうしたかったんだろう)
真実を知りたかった。
それは、間違いない。
でも、その先に何があるのか考えていなかった。
瑠衣は、両手を強く握りしめる。
「……もう、学校には戻れないよね」
その問いに、斗亞は少しだけ間を置いた。
「今は、無理だろうね」
短く答え、それでも切り捨てる響きではない。
「しばらくは連絡も、必要最低限にしたほうがいい」
瑠衣は、頷いた。
それが正しい判断だと、理解できる。
理解できるからこそ、胸が苦しい。
守られているのと同時に、奪われてもいる。
その想いだけが、瑠衣の思考を鈍らせていく。
しばらくの静寂が、二人の間に落ちる。
その中で、斗亞がどこか遠くを見ていることに瑠衣が気づいた。
まるで、今日の出来事の中で、自分とは別の何かとずっと向き合っていたかのような。
「……茅野さん?」
名前を呼ぶと、彼は一瞬はっとしたように視線を戻した。
「……ん?」
きょとんと、斗亞が瑠衣に視線を向ける。
。
「あの時……雰囲気が、なんか違う気がしたけど……なんでか。聞いていい?」
瑠衣は、言葉を選ぶ
斗亞の眉が、わずかに動く。
「ごめん、怖かった?」
「ううん、強引だと思ったけど……でも、怖くはなかった」
それは、正直な感想だった。
斗亞は少しだけ口を結び、やがて小さく息を吐いた。
「……そうか」
それ以上、説明はなかった。
瑠衣も、踏み込まなかった。
聞いてはいけないことが、この世にはある。
その直感だけは、なぜかはっきりしていた。
夕暮れが、街を染めていく。
遠くで、サイレンの音が聞こえた。
今日という一日は、まだ終わっていない。
瑠衣はもう一度、斗亞を見る。
助けられた――だが、それで全てが解決したわけではない。
ただ――。
(……独りじゃ、ない)
その事実だけが、今は、確かだった。
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