第40話:非常識という選択
校門の前は、人で埋め尽くされていた。
ざわめきという言葉では足りない。
怒号、笑い声、無遠慮なシャッター音。
好奇と悪意が入り混じった熱が、空気そのものを粘つかせている。
斗亞は、その少し離れた場所で立ち尽くしていた。
(……多すぎる)
予想はしていた。
だが、実際に目にすると、想像していた『人だかり』とは質が違う。
そのすぐ向こう側に『対象』がいると誰もが確信している。
だから、誰も引かない。
教師らしき大人たちが、必死に対応しているのが見えた。
口元に拡声器を近づけ、「近隣住民の方のご通行の、妨げになりますので、お引き取りください」という言葉が、何度も繰り返される。
それでも、人の波は引かない。
むしろ、その必死さが燃料になっている。
(……この中に、瑠衣ちゃんが)
斗亞は、無意識に拳を握りしめていた。
正門から入る?
無理だ、止められて終わるだけだ。
例え力ずくで飛び込もうにも、あれほどの数の人間を退けられるとは思えない。
頭の中で選択肢を並べるたび、どれも現実的ではないと切り捨てられていく。
正しさが、足を縛る。
そのときだった――。
――はぁ……――
呆れたようなため息が、頭の奥で響いた。
――これだから、いい子ちゃんは――
斗亞の思考が、ぴたりと止まる。
――通常じゃぁあり得ねぇことが起きた時に、選択できなくなる……それはな、頭の良し悪しじゃねぇ――
――非常識になれねぇからだ――
(……繞?)
――ずんっ。
斗亞が何か言葉を返す前に、視界が揺れた。
身体の主導権が静かに、だが強引に引き剥がされる感覚。
次の瞬間、斗亞――いや、繞は群衆の中へと踏み出していた。
躊躇はなく、冷静さもそこにはない。
視線が集まる中心。
一番大きな声で、煽るように笑っていた男。
繞は、迷わずその男の襟元を掴んだ。
「――なっ!?」
男が何かを発する前に、その身体が宙を舞う。
背中から地面へ。
盛大な音とともに、男は尻餅をついた。
「イッテーー!!!」
その叫びが、空気を震わせた。
「んだよ、誰だ今やったの!!」
男は立ち上がるや否や、感情をぶつけるように怒鳴り散らかす。
その怒りは、投げ飛ばした繞ではなく、周囲へとばら撒かれる。
「お前か!!!」
怒りを露わにしたまま、すぐ近くにいた男を掴み上げる。
「知らねぇよ!」
「なら、お前だな!!!」
「ふざけんな!」
一点に落とされた火種は、瞬く間に燃え広がった。
怒りは連鎖する。
正義感も、野次馬根性も、同時に。
視線が、意識が、そこへ吸い寄せられる。
群衆が割れた――。
まるで、モーセの奇跡のように。
「……ほらな」
繞は、ちらりとその光景を横目に捉えながら正門を避けた。
フェンスの、その脇に伸びる木を目の前に立ち止まる。
1、2回屈伸すると、木の幹に足をかけて迷わず登り出す。
丈夫な枝を見極め、それを掴むと、腕力だけで体を引き上げる。
校門の塀より少し高いところまで到達すると、距離を測りながら身を乗り出す。
何の躊躇いなく塀の上に立つと、繞は下を覗き込み口の端を歪めた。
「ほぅ……結構、高いな」
ある程度の高さの壁で、一番危ないのは降りる時だ。
登るより、着地の方が重大な怪我につながる。
だが繞は、それを承知しているにもかかわらず、その上に座り込み――何気なく軽く息を吐く。
「まっ、いいや」
そう言って、軸足だけを塀の壁に沿わせたまま身を落とした。
重力に引かれながら、落ちていく最中、空中で壁に置いた足を軽く蹴る。
落下の速度と勢いを殺し、地面に転がるように受け身を取った。
そして、地に足をつけて何事もなかったかのように立ち上がる。
(……帰りはどうするんだ)
「まぁ、何とかなるだろ」
校内に入ってから、わずかに足が止まる。
「……ちっ、どこだ」
校舎の配置は分からない。
だが、人の流れを外し、騒ぎの匂いが薄い方へと進む。
階段。
廊下。
職員室の前を避け、角を曲がる。
歩いている途中、幾つもの教室を横切るが、そこで一つの教室を前にして立ち止まる。
その中には、生徒たちと、立ち尽くしたままの女がいた。
蒼葉瑠衣――。
繞は、迷わず扉を開け、土足のまま中へ踏み込んだ。
どかどかという足音に、教室が一斉に静まり返る。
「なんだ?」
「誰?」
「あんな先生、いないよな?」
「……え?」
唖然とする瑠衣の前まで行き、その手首を掴む。
周囲の視線を一度だけ見回して、短く言った。
「悪い。お前らの先生、少し借りてくぞ」
一瞬の沈黙――。
次の瞬間――ざわめきと、歓声と、悲鳴のような声が一斉に弾けた。
繞は構わず瑠衣を引き、教室を後にする。
「えっ、茅野さん……?」
明らかに混乱しながら、瑠衣はおぼつかない足でついていく。
「さて……ここからどうするか」
(おい、本当に考えなしかよ)
「ちょ、ちょっと、茅野さんがどうしてここに……」
瑠衣の声が、背後からか細く飛んでくる。
だが、繞は聞こえていないかのように歩みを止めない。
「野次馬たち蹴散らして、正面突破でもいいぞ」
(却下だ!)
「ね、ねぇ……今、何が起きて……」
今度は、はっきりとした声。
だがそれでも、二人の会話の流れには割り込めない。
「なら、変装か?」
(もっと却下だ……!)
「ちょっと、聞いてる……?」
返事はない。
瑠衣は、引かれたままの手首を見つめ唇を噛んだ。
状況を理解しようとするほど、何も分からなくなっていく。
一瞬の沈黙――。
「ねぇってば!!」
ようやく、空気を破るほどの大きな声。
「うるせぇ!! 少しは黙ってろ、文句ならここを抜けてからだ」
「っ……ご、ごめん……」
その瞬間、初めて瑠衣の声が『会話』として扱われた。
(繞、瑠衣ちゃんに当たるな)
「うるせぇのは、お前もだ……ん?」
繞の視線が、ふと廊下の奥の表示板に止まった。
――用務員室。
資材倉庫。
搬入口。
(……裏だ)
人の流れは、すべて正門へ向いている。
校舎の裏側は、ほとんど死角になっている。
繞は鼻で笑った。
「へぇ、これだな……」
用務員室の扉は、開いたままだった。
中には、誰もいない。
混乱のせいで、持ち場を離れたままなのだろう。
隅に停めてあった、清掃用のカート。
積まれた毛布と、大きな作業用シート。
繞は無言で毛布を取り、瑠衣の肩にかけた。
「……ちょっと失礼するぞ」
「……うわぁ」
瑠衣を半避難者のように包み込み、カートの脇に沿わせて歩かせる。
誰も、こちらを見ていなかった。
裏手の搬入口。
鍵は、かかっていない。
扉を押し開けると、外の空気が流れ込んだ。
そこには、誰もいなかった。
喧騒は、すべて正門の向こう側に吸い寄せられている。
外に出た瞬間、繞は一度だけ深く息を吐いた。
「……仕事は終わりだ」
その言葉とともに、主導権がゆっくりと戻ってくる。
斗亞は、はっとしたように身体を強張らせた。
繋がれた瑠衣の手は、まだ震えが残っている。
「……大丈夫か」
斗亞の遅れて出た声は、少しだけ掠れていた。
背後で、校門の喧騒がまだ渦を巻いている。
斗亞は、一度だけ振り返る。
そして、もう見ないと決めた。
『非常識な選択』がなければ、辿り着けなかった場所に今、自分たちはいる。
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