第39話:崩れる場所
朝、校門の前が騒がしいことには、校舎に入る前から気づいていた。
見慣れない人影と、それに比例したカメラとざわめき。
何かの取材だろうか、と他人事のように思ったのはほんの一瞬だった。
職員玄関に入った途端、空気が変わる。
視線が集まって、小声が止まる。
瑠衣は、その理由をまだ理解していなかった。
「蒼葉さん」
声をかけてきたのは、教頭だった。
表情が硬く、妙に慎重な距離の取り方をしている。
「少し……こちらへ」
教頭に促される形で、職員室の奥の、応接用の小さな部屋へと向かった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
そこには先に、重々しい表情をした校長が座りながら瑠衣に視線を向ける。
「今朝から、外が少し騒がしくてね」
こういう場で基本的に喋るのも説明するのも、教頭の役割だった。
教頭は言葉を選びながら、静かに口を開いた。
その様子で、ようやく瑠衣は胸の奥がざわつき始める。
「ネットの記事、見ましたか?」
首を横に振る。
スマートフォンは、さっきから何度も振動していた。
着信、通知、知らない番号。
怖くて、通話ボタンを押すことのないまま無視し続けた。
「あなたの……ご家族に関する記事が出ています」
一瞬、音が遠のく。
頭の中で、兄の名前が浮かんでは沈む。
「事実関係はともかく、今は……」
教頭の声は続いていたが、ほとんど耳に入らなかった。
校門の外が、急にうるさくなる。
窓の向こうで、誰かが声を張り上げている。
――蒼葉陸兎の妹。
どこからか、そんな言葉だけがはっきりと届いた。
足元が、崩れる感覚がした。
自分の名前は出ていない。
それなのに、世界中が自分を指差しているような気がした。
「今日は、帰った方がいいでしょう」
教頭の言葉に、瑠衣は小さく頷いた。
ここにいても、何もできない。
生徒の前に立てる状態ではない。
職員用の通用口から出ようとすると、外の騒音が一気に押し寄せてきた。
フラッシュ、シャッター音、名前を呼ぶ声。
心配しているふりをした、好奇心の塊。
その押し寄せる波は、到底一人の通行を許さなかった。
この場を抜け出すことすら、世間は見逃さない。
スマートフォンが、また震える。
画面を見て、息を呑んだ。
知らない番号。
知らない番号。
知らない番号。
『覚悟はある?』と、あの人は言っていた。
――覚悟なんて、なかった。
自分がこんなふうに、晒されるなんて。
兄の死がこんな形で、消費されるなんて。
瑠衣は、指先で電源ボタンを長押しした。
画面が暗くなる。
静かになった世界で、初めて震えが止まらなくなった。
*****
記事が伸びている。
予想以上だ、と宝蔵院映見は思った。
数字は正直だ。
感情よりも、理屈よりも、嘘をつかない。
「……悪くない」
独り言のように呟き、画面をスクロールする。
コメント欄は案の定、荒れている。
同情や非難、憶測といった無秩序の言葉。
責任のない羅列は、そのほとんどが彼女の狙い通りだった。
事実は、ほとんど書いていない。
だが、嘘もついていない。
瑠衣が話したこと、今にも泣きそうな顔で語った不安、兄を想う言葉。
それらを、少しだけ角度を変えて並べただけだ。
(……耐えられないだろうな)
そう思っても、胸は痛まなかった。
全てが予測の範疇に収まっている。
彼女は、弱い。
最初から。
善意を疑わず、助言を信じ、『話を聞いてもらえた』と思い込む。
(私を、信じたのが悪い)
それだけの話だ。
映見の思考は、自然とある光景を浮かべた。
茅野斗亞の、あの夜に協力を拒んだ時の目――
(あなたは、選択を誤った)
私と組めば、もっと楽に生きられた。
真実も、正義も、守る必要はなかった。
それなのに――。
あなたは、あの子の側に立つ可能性を選んだ。
「……だから、教えてあげる」
この世界が、どれだけ残酷か。
人の善意が、どれほど簡単に踏み潰されるか。
画面の向こうで、数字がまた跳ねる。
物語は、もう動き出している。
瑠衣は、もう戻れない。
斗亞も、いずれここへ来る――私の元へ。
映見は、静かに息を吐いた。
これは罰ではない、ただの現実だ。
――そう、信じることでしか自分を保てないことを、彼女自身が一番よく知っていた。
記事を公開し、世間の関心が『数字』と『人の声』によって現れ始めた直後、映見はしばらく画面を眺めていた。
特別な感慨はない。
達成感も、後悔も。
ただ、想定通りに進んだという感覚だけがあった。
アクセス数は、ゆっくりと伸びている。
最初は静かに、次第に加速していく――いつもの流れだ。
蒼葉陸兎の名も、蒼葉瑠衣の名も伏せている。
だが現場と状況と日付を提示するだけで、人は断定と特定を始める。
こちらの考慮という壁を、無作法に薙ぎ倒していく。
一人歩きした特定はすぐ伝染して、伏せたものは意味をなさなくなる。
そして、『被害者の妹』という肩書きは、十分すぎるほどの引きだった。
被害者遺族。
若い女性。
SNSで情報提供を求めていた、という事実。
材料は揃っている。
映見は、コーヒーを一口飲み喉を潤した。
苦い――だが、不快ではない。
「……私は、間違ったことは書いてない」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
瑠衣から聞いた話は、ほとんど事実だ。
兄の死を疑っていること。
SNSを始めた経緯。
不安と焦り。
そこに、少しだけ文脈を足しただけ。
『周囲の忠告を聞かず、危険な接触を繰り返していた』
『感情的になり、判断力を欠いていた可能性』
可能性と、断定はしていない。
(……ね? 嘘じゃない)
映見は、心の中でそう言い訳を並べる。
瑠衣は、悪い子じゃない。
むしろ、素直すぎる。
だからこそ、危うい。
(放っておいたら、もっと酷いことになってた)
これは、警鐘だ。
世間に晒されることで、彼女はようやく立ち止まれる。
これ以上、変な大人に利用されずに済む。
――少し痛い目を見るだけ。
映見は、そう整理していた。
スマートフォンが震える。
新たなコメントが刻まれたことを知らせる通知。
『同情はするけど、軽率すぎ』
『被害者ぶってるけど、自業自得では?』
『兄も兄なら、妹も妹』
映見は、それらを淡々とスクロールした。
胸が痛まないわけではない。
だが、それ以上に――納得している自分がいる。
(……世間って、こういうもの)
綺麗事だけじゃ、回らない。
瑠衣に、ちゃんと教えてあげたかった。
真実を追うというのは、こういうことだと。
情報は、武器になる。
同時に、刃にもなる。
それを、身をもって知る必要があった。
ふと、瑠衣の顔が浮かぶ。
あの、少し困ったような笑い方。
年上を無条件に信じる、危うさ。
(……昔のまま)
映見は、鼻で小さく息を吐く。
自分が、優しい年上であり続けられたのは、瑠衣が、疑わなかったからだ。
そして今も――。
(きっと、混乱してるだろうな)
でも、それでいい。
混乱しないまま、大人になる方がよほど危険だ。
映見は、パソコンを閉じた。
これ以上、手を出すつもりはない。
少なくとも、今は。
記事は、独り歩きする。
自分が何かをしなくても、波は広がる。
(……あとは、彼女次第)
立ち直るか、潰れるか。
それもまた、選択だ。
スマートフォンを手に取る。
瑠衣からの着信は、ない。
一瞬、胸の奥にちくりとしたものが走る。
(……連絡、来ない方がいい)
今、何を言っても、余計に傷つけるだけだ。
それに――。
(もし、誰かが助けに来たとしても)
映見は、無意識に思う。
(その人も、きっと、現実を知ることになる)
真実を追う世界は、優しくない。
瑠衣が、それを知ったなら――。
もう、昔みたいに、甘い目では見られなくなる。
それでいい。
映見は、そう信じていた。
自分は、壊したのではない。
教えただけだ。
残酷な世界の、輪郭を。
映見は、わずかに口角を上げた。
(……仕事は、した)
それだけが、確かだった。
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