第38話:波打つ名前
休日の朝は、研究所の平日よりも静かだった。
目覚ましをかける理由もなく、斗亞はいつもより遅く起き、惰性でコーヒーを淹れた。
カップから立ち上る湯気を眺めながら、今日は何をするつもりだったのか自分でもよく分からない。
予定はなかった。
研究も打ち合わせも、外せない用事も。
だからこそ、スマートフォンを手に取ったのはただの癖だった。
画面をスクロールして、ニュースアプリを開く。
経済、科学、地域――。
その途中で、不意に指が止まった。
(……?)
見出しは、伏せ字だらけだった。
《記者急死事件 “関係者女性”の不可解な行動とは》
《亡き記者の妹、SNSで情報提供を募る――専門家は「危うい承認欲求」と指摘》
一瞬、理解が遅れた。
だが、本文を開いた途端、胃の奥が冷える。
兄の死を不審に思い、独自に情報収集を行っていた女性。
事件後、SNSを通じて第三者と接触。
不用意な言動が周囲に混乱を招いた可能性――。
名前は出ていない。
顔写真もない。
だが、書き方があまりにも露骨だった。
「……なんだ、これは」
声に出したつもりはなかったが、喉が震えた。
――憶測。
――切り取られた事実と、作り上げられた事象。
――心配するふりをした無責任な言葉。
そういったコメントが、記事の下に整列していた。
《売名じゃないの?》
《兄が可哀想》
《関係者ヅラしてしゃしゃり出る女っているよね》
それに関連して少しSNSでリサーチすると、吐き気を催すほどの『悪意なき疑惑』の文字が引っかかる。
――まるで、加害者だ。
「……っ」
思わず画面を伏せる。
胸の内側で、何かがざらついた音を立てる。
――ほらな――
内側で、繞が楽しそうに言った。
――正義ごっこは、観客がいないと成立しない――
――で、観客はいつだって残酷だ――
(黙れ)
――忠告してやるよ、黎――
繞の声は、妙に落ち着いていた。
――ここから先は、お前の“専門外”だ――
――誰かを守ることなんてお前には無理だ――
斗亞は無視するように、別の記事を開いた。
だが、どれも似たようなものだった。
――亡き記者の妹
――不可解な行動
――精神的に不安定
事実と断定の境界が、意図的に曖昧にされている。
(……連絡)
ふと、瑠衣と交換した番号を思い出す。
連絡帳を開き、指が止まる。
だが、迷いはほんの数秒だった。
呼び出し音――は、鳴ることのないまま、音声ガイダンスが流れる。
《おかけになった電話は――》
もう一度、かけ直しても同じだった。
それは、瑠衣のスマートフォン自体が現在は起動していないということだろう。
「……電源、切ってるのか」
嫌な想像だけが、いくらでも浮かぶ。
――ほら、見ろ――
繞が低く笑う。
――お前が考えてる間にも、世界は先に進む――
斗亞は立ち上がった。
部屋の中を一度見渡し、意味もなく鍵を確認する。
(……行く、か)
どこへ?
その答えは、すぐには出なかった。
自宅は違う。
連絡が取れない以上、確証がない。
思考を巡らせて――思い出す。
最初に会った、あの施設見学。
彼女が引率していた学校。
校名を、確かに聞いていた。
(……あそこしかない)
ジャケットを掴み、靴を履く。
*****
休日の街は穏やかで、だからこそ不釣り合いだった。
電車を乗り継ぎ、校舎の最寄り駅へ向かう。
途中、何度もスマートフォンを確認するが、着信はない。
(……休みだろ、普通は)
そう思いながら、校門の前に着いた瞬間、足が止まった。
ざわめきと人の波――。
無数の野次馬が、ヤジを飛ばしながらスマートフォンのカメラを構えていた。
そこには興味本位の者、偽善という善意をかざした者、ただ糾弾を目的とした者たちが、混濁していた
その隙間に、一眼レフを構えた記者たちが、獲物を待つように並んでいた。
低く抑えた声と煽り散らかすような怒鳴り声、無遠慮な視線。
「……なんだ、これは」
目的としていた高校の校門の前に、その群れは忽然と存在していた。
「関係者がまだ校内にいるらしい」
「例の妹って、この学校の教師だろ?」
断片的な言葉が、耳に刺さる。
胸の奥に、嫌悪が広がる。
同時に、冷静な理解もあった。
――ここにいる。
斗亞は、人混みの縁に立ち尽くしたまま、動けなかった。
――さあ――
繞が囁く。
――踏み込むか?――
――それとも、見なかったことにするか?――
答えは、もう出ているはずだった。
だが、足はまだ、動かなかった。
校舎の奥を見つめながら、斗亞は、静かに息を吐いた。
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