第37話:やさしい人の顔
とある平日の昼下がり――。
宝蔵院映見は小さいカフェに蒼葉瑠衣と待ち合わせていた。
ガラス張りの店内は明るく、午後の光が柔らかくテーブルを照らしている。
店内に流れる音楽は、会話を邪魔しない程度に軽かった。
客はまばらで、騒がしすぎないが静かすぎるわけでもない。
話を聞くには、ちょうどいい。
映見が瑠衣と会うのは、本当に久しぶりだった。
数年間という空白の中、記憶の彼女と現在の彼女が重なる。
瑠衣は、相変わらず人を疑うことを知らない目をしていた――それが再会してから、抱いた第一印象だ。
二人は再会に喜び、軽く近況報告をしていく。
映見は自然な演技で、瑠衣は何の疑問もなく心から喜んだ。
「久しぶりね、瑠衣ちゃん」
柔和な顔で映見が声をかけると、瑠衣は驚いたように目を瞬かせ、それからすぐに表情を緩めた。
「そうですね……」
どこかぎこちない返事だが、警戒はなかった。
それどころか、懐かしさが先に立っている。
「急に連絡してごめんなさい。でも、驚いたでしょう」
「いや……正直、少し安心した」
瑠衣は、躊躇いがちに慎重に言葉を選ぶ。
だが映見にその言葉は、見逃すことのできないものだった。
「安心?」
「兄貴のことで、知らない人とばかりやり取りしてたから。知ってる人の名前を見たら……ほっとして」
あぁ、と映見は内心で頷く。
——この子は、もう疲れている。
「大変だったでしょう」
ただ、それだけを言う。
同情でも理解でもない、『肯定』だけを置く。
瑠衣は、それだけで十分だった。
「……正直、何が正解なのか分からなくて」
水の入ったグラスに、指が触れる。
「兄貴が死んで、自殺だって言われて……でも、どうしても納得できなくて」
「だから、SNSを始めたのね」
確認するように言うと、瑠衣は頷いた。
「ネットとか、そういうの得意じゃないのに、周りに“今はそういう時代だ”って言われて……」
「怖くなかった?」
「そりゃぁ、怖かった……でも、何もしない方が、もっと怖い」
噛み締めるような言い方に、映見は真剣に聞き手となる。
そして、その言葉を心の中で反芻する。
――この子、使える。
そう判断し、確信する。
「でも、あんな投稿は危険だわ……DMも、たくさん来たんじゃない?」
「うん、変なのがたくさん……」
ここで、映見は首を振る。
「“変”だったのは、内容じゃないと思うの」
その声に、瑠衣が顔を上げる。
「瑠衣ちゃん、あなたが門を開いたの」
静かで、語りかけるというより囁きかけるように。
そこに責める調子は、一切ない。
「お兄さんのことを知ってる人がいるかもしれない、って。そう思った時点で、もう危険は始まってた」
「…………」
「それは、決してあなたのせいじゃない。追い詰められ、判断力が削られていただけ」
『せいじゃない』――その言葉に、瑠衣を息を深く吸い込む。
「でもね」
映見は、少しだけ声を落とす。
「世間は、そこを見ない」
瑠衣の眉が、わずかに動く。
「なぜ警戒しなかったのか、なぜSNSに書いたのか、なぜ会いに行ったのか……」
一つ一つ、丁寧に並べる。
「全部、後から言えることなのに」
映見は、コーヒーカップに口をつける。
「あなたが悪い、って話にすぐなる」
「……そんなこと……」
「なるの」
映見は否定すら許さず、余計な言葉を挟ませず断定する。
「特に、あなたは“物語”として分かりやすいの」
その言葉に瑠衣は、意味を測りかねる。
「兄を亡くした妹。真実を求めてSNSに飛び込んだ若い女性」
映見は、そこで初めて小さく笑った。
「記者が、好きそうでしょう」
沈黙が落ちる――。
「……私、何か、間違ってたのかな……いや、全部が間違いだったんだろうな」
その自問は弱々しく、すでに答えを探していない感じだった。
「別に、間違ってないんじゃないかしら……ただ、“向いてなかった”」
「向いて……ない?」
「……そう、闘い方がね」
映見は、机の上で指を組む。
「瑠衣ちゃんは真実を追うのに、正直すぎたの」
それは、半分だけ本当だ。
「だから、これからは……」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「あなたが前に出る必要はない」
瑠衣は息を止める。
「私が、それらの全てを整理してあげる……情報も、流れも、世間も」
瑠衣の中で、何かがほどける音がした。
「……そんなこと、してもらってもいいの? もう、兄貴とは関係ないのに」
「何言ってるの、蒼葉くんとは別れたけど、悔しいと思っているのは私も同じよ。だから、手伝わせて欲しいの」
真剣に向き合い、瑠衣の心に訴えかける。
「困ったとき、“頼っていいですか”って聞いた時点で、もう頼ってるようなものよ」
瑠衣は小さく笑う、今にも泣きそうな笑顔。
「……映見さん、変わってないな。あの時から、自然と人に手を差し伸べてしまう人だったね」
映見は、その言葉を受け取らない。
「変わったのは、世界の方よ」
ほんの薄皮一枚分の嘘を、そっと置いた。
「あなたは、何もしなくていい、ただ……覚悟はある? あるなら、私が全てを変えてあげる」
その言葉が、決定打だった。
瑠衣は、深く頷く。
「覚悟なら、兄貴が死んだときからしてる……全部、話すよ」
映見は、何も言わない。
ただ、聞く人の顔をする。
この瞬間、蒼葉瑠衣は自分の足で沼に降りた。
『やさしい人の顔』をした女に、手を引かれて。
そして、映見は確信していた。
(――これでいい)
線は、もう引かれた。
あとは、騒がせるだけだ。
静かに、大きく――。
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