第43話:引き返せない場所
編集部の朝は、静かすぎた。
誰もが仕事をしているふりをしている。
モニターを開き、キーボードに触れ、同じ画面を見ないようにしていた。
消された記事は、もう一覧には存在しない。
だが、完全に消えたわけではなかった。
事実という『断片』を、偽りの真実と混ぜる。
起こった出来事を、歴史として『引用』。
名前を伏せたままの、『言及』。
それらが、別の場所で、別の形で息をしている。
編集長の邦枝は立ったまま、机に手をついていた。
「……あいつは」
誰に向けた言葉でもない。
「あいつは、陸兎の亡骸さえも利用しようというのか!!」
その怒鳴り声は、腹の底から押し出したような声だった。
「編集長、そんなこと、勝手に……」
部下の一人が、周りを警戒しながら宥めようとするが、静止の言葉は邦枝の声で遮られた。
「もう知らん」
短い言葉で、吐き捨てる。
「クビにしたければ、しやがれ」
邦枝は机に釘付けされていた視線を上げると、その目は決意に満ちたような色をしていた。
邦枝は低い声で、いつの間にか周りに集まっていた部下たちに向けていう。
「だが、お前たちまで、無理に付き合わせるつもりはない」
内なる決意とは裏腹に、冷静な声色でゆっくりと問いかける。
数秒だけの沈黙が流れた。
空調の音だけが、やけに大きく聞こえる。
そして、最初に控えめに手を挙げたのは、入社して2年目の記者だった。
「……すいません。俺は、ちょっと付き合えません」
男は唇を噛んでから、続けた。
「……相手、宝蔵院映見ですよね」
その名前が出た瞬間、空気がわずかに変わる。
「前に……あの人の記事、書こうとした先輩、いましたよね」
男は特定の誰かに問いかけるでもなく、この場にいる全員に言葉を投げかける。
誰もが、視線を逸らしていく。
「あのあと、地方に飛ばされて……半年で、辞めたんですよね?」
声が、小さくなる。
「公式には“希望異動”ってことになってましたけど……」
それ以上、言葉は続かなかった。
彼はまだ紹介される時には新人として紹介され、若手と言われるほどの年齢の男。
将来を左右するかもしれない瀬戸際を選ぶには、キャリアが浅すぎた。
その決断に、誰も彼を責めなかった。
そして、誰かがためらうように口を開いた。
「……でも、あれって」
一瞬、周囲を見回してから、声を落とす。
「編集部の判断じゃ、なかったですよね」
空気が、わずかに張りつめる。
別の記者が、苦笑ともつかない表情で言う。
「部長クラスが止められる話じゃない」
「役員会が、動いてましたよ」
さらに、誰かが小さく付け足す。
「しかも……止めに来たの、法務でも広報でもなくて」
一拍――。
「……社長室、直でした」
その言葉に、何人かが息を呑む。
そして、若手が震える声で言った。
「それって……」
言いかけて、飲み込む。
代わりに、年配の記者がぽつりと漏らした。
「……要は“握ってる”んだろ」
誰も、否定しなかった。
その若手記者の一言を皮切りに、追従する声が続々と上がった。
「私も……」
「すんません、俺も結婚したばかりで……」
生活の安定を捨てることはできない。
新しくできた家族のため。
守りたい人が、多すぎるから。
理由はそれぞれだったが、その人たちに取ってはどれも正しい選択だ。
邦枝は、何も言わない。
元からそれは承知していたことであり、最初からどんな答えであったとしても異論を唱えるつもりはなかった。
すると、邦枝の背中に向かって、一人の男が静かに声を出した。
「……俺は、ついてきます」
緊張を纏い、その声は少し震えていた。
人というのは誰かの言葉に否定を加えるより、肯定を促すのが簡単な生き物だ。
だからこそ、その言葉も、人を呼び寄せる力を持っている。
「俺も、編集長と一緒に戦います」
「正直、むかついてんのは、俺も同じっすから」
亡き同僚への想い。
何もできないことへの憤り。
真実を伝えるための筆を、置かないといけないという不甲斐なさ。
理由は単純だった――だが、それで十分だ。
賛同する人間はほんの数人だが、残っていた。
邦枝にとって、それは予想外でも何でもなかった。
彼はむしろ単身で、何十年も勤めていた新聞社に牙を剥くつもりだった。
邦枝は、ゆっくりと息を吐いた。
「……悪いな」
それだけ言って、椅子に座る。
モニターに映るのは、過去の原稿と陸兎の記事。
書かれ、止められ、押し込められた言葉。
「利用するんじゃない」
邦枝は、誰にともなく言った。
「返すだけだ」
キーボードに、指を置く。
それが報道なのか、告白なのか、あるいは自滅なのか。
もう、区別はつかない。
だが、引き返す場所だけは確実に失われた。
邦枝は、椅子の背もたれに体重を乗せると、モニターを睨んだまま口を開いた。
「まずだ……」
誰も見ないまま、言う。
「当の本人……蒼葉の妹に、コンタクトを取れ」
邦枝の言葉で、空気が少しだけ引き締まる。
「直接だ……メールでも、伝言でもいい。ただし、記者が行ったと分かる形でだ」
誰かが、恐る恐る言った。
「……拒否されたら?」
「それも含めて、まずは接触することが大事だ」
邦枝は、その部下に目線を向けることなく言った。
「逃げられた、連絡が取れない、それを“なかったこと”にはするな」
一拍置いて、続ける。
「それから、例の記事だが……」
画面に表示された、すでに消えたネット記事の写し。
「複数の証言があった、と書かれている」
邦枝は、指で机をトンットンッと叩いた。
「だったら、そんな人間は本当にいたのか」
誰も口を挟まない。
「いたのなら、あの言葉の真偽を」
声が低くなる。
「名前が出ていないなら、探すしかないだろ」
「……聞き込み、ですか」
「そうだ」
邦枝は頷いた。
「現場、周辺、関係者。噂でもいい、だが……」
そこで、はっきりと言った。
「作文はいらん」
一瞬、誰かが息を呑む。
「“それっぽい話”も、“辻褄の合う話”もいらん。本当にその人間がいたのか。本当に、あの内容を証言したのか」
邦枝は、ようやく顔を上げた。
「合っていなければ、合っていないと書く。いなければ、いなかったと書く」
視線が、残った数人を一人ずつなぞる。
「それが、報道であり……真実を伝える俺たちの、役割だ」
沈黙――だが、さっきまでとは違う沈黙だった。
「……期限は?」
誰かが聞いた。
「そんなものはない……言うなれば、真実を報道した時こそが期限だ。上が何を言ってきても、俺は最後までやり遂げるぞ」
そう言って、椅子に深く座り直す。
夜になっても、編集部の灯りは消えなかった。
数は少ない、だが誰も席を立たない。
その静けさの中で、何かが決定的に、書き換えられていった。
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