第34話:眠り続ける訛り
午後の診察時間は、外来の波も引いて比較的静かだった。
だが落ち着いたというだけで全くの暇というわけではなく、待っている患者を確認するため、悠司は次のカルテを手に取る。
――桐崎紗莉菜。
雨音と湿った匂いが、情景として呼び起こされた。
玄関先で震えていた少女。
あの日、突然自宅に差し込まれた小さな影。
(あの子か)
警戒はない、あるのは『不思議な子だったな』という印象だけだ。
「どうぞ」
悠司が声をかけると、それを合図に扉が開いた。
彼女は一礼して入室した。
記憶に残るあの雨の日より、表情は柔らかい。
だが、視線の置きどころは相変わらず定まっていないように映る。
「やっぱり、あの時の……あれから無事に帰れたようで安心したよ」
先に声をかけたのは悠司だ。
精神科医でもある彼は、患者が来るときはいつも自分から歩み寄ることにしていた。
それは紗莉菜とて例外ではなく、警戒を纏わせるより先に親近感を与えることを信条にしていたからだ。
「はい。あの時は、ありがとうございました」
丁寧な言葉遣い、礼儀も弁えた態度で悠司に向き合った。
悠司は、ここまでは何の引っかかりも覚えなかった。
受付の記録には、「最近、感情が不安定で、自分がよく分からない」と書かれていた。
そして、診察は淡々と始まる。
睡眠の質、食欲、集中力、どれも決定的な異常は見られなかった。
「学校生活は、問題なく?」
「えぇ、ただ……」
紗莉菜は、少しだけ考える素振りを見せてから続けた。
「最近、“斗亞”さんのことを考える機会が増えて……」
名前が出た瞬間、悠司は一度だけ瞬きをする。
だが、それだけだ。
斗亞の名が話題に上ること自体は、意外ではあるが違和感は感じられなかった。
「あのときは聞き忘れたけど、斗亞とは、友達なのかな?」
「友達、というより……」
彼女は言葉を選ぶように、首を傾げた。
「“観察”してしまう、というか」
ペン先が、わずかに止まる。
思わず焦点を目の前の患者に合わせると、そこには小さく口角を上げた無垢な少女がいた。
まるで子供が欲しいおもちゃを、買い与えられたかのような無邪気な笑み――悠司の目にはそんなふうに映り込む。
「観察?」
「はい。あの人って、表に出ている部分と、そうじゃない部分の差が大きいでしょう?」
言い方が妙だった。
だが、まだ説明はつく――思春期の過剰な洞察欲。
彼女が抱くのは、単なる年上への淡い恋心なのだろうと、素直にそう思えなかった。
「誰にでも、そういう面はあるもんだよ。だから斗亞が、別に特別だというわけでもないさ」
「ええ。でも斗亞さんの場合、切り替わりがはっきりしている」
切り替わり――またも、妙な言い回しをする。
悠司の中で、言葉が引っかかる。
それは診断用語ではない。
日常会話としても、やや踏み込みすぎている。
「……どういう時に、そう感じる?」
警戒ではなく、ただの確認。
「怒っている時、というより……判断している時、ですかね」
紗莉菜は、曖昧に笑う。
「怒りはわかりやすいです。でも、判断している時の斗亞さんは少し遠い」
まるで、同じ場所にいないような言い方。
悠司は初めて、椅子の背に深く体を預けた。
「彼の内面に、かなり関心があるようだね」
「あります」
即答だった。
「だって、あの人は……」
一瞬、言葉が途切れる。
「……一人で完結していない気がするから」
その瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
理由はわからない、論理的な危険信号も出ていない。
ただ――話している相手が、『斗亞を語る位置』にいない。
それは友人でも、観察者でもない。
もっと近く、もっと内側にいる視点。
「それは、君の想像かもしれないよ」
悠司は、声の調子を変えずに言う。
「人は、他人の内側を完全には理解できない……そういうものだよ」
紗莉菜は、その言葉に反論することもなく、あっさりと頷いた。
「でも、理解している“つもり”になる人はいます」
そこに感情はなかった。
批判でも、挑発でもなく、事実を述べる調子。
悠司は、ここで初めて『線』を引いた。
医師としての距離。
父としての防壁。
それらを、守り抜くために。
「今日は、このくらいにしましょう」
悠司はカルテを閉じ、穏やかに言った。
「気持ちの波が少し読みにくいから、今日は軽い安定剤を出しておこう……飲んでみて、何か変な感じがしたら、すぐに言ってほしい」
一拍おいてから、付け足す。
「受付で待っていて。次に来たとき、また詳しく話そう」
紗莉菜は素直に立ち上がると、まっすぐな視線で悠司を見つめる。
「……先生」
「はい」
「斗亞さんのこと、ちゃんと見てあげてください」
穏やかな声色の中に、忠告の形が垣間見える。
だが、どこかで――すでに見ている側の言葉でもあった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
悠司は、カルテに何も書き足さなかった。
書ける所見が、存在しなかったからだ。
(……気にしすぎだ)
そう結論づける。
診断していくにつれて、最初はなかった警戒が悠司の体に纏わりついていた。
終わり際には、対象を誤ったのではないかと錯覚してしまう。
彼が感じ取った違和感の正体が、『息子を語る少女』ではなく、『息子の内側から語る何か』だったことを、悠司は最後まで知らなかった。
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