第33話:鏡の中の声
水道の水は、思ったより冷たかった――。
斗亞は蛇口をひねり、両手ですくった水をそのまま顔に叩きつける。
額から顎へ、水が落ちていく感覚だけがはっきりしていた。
洗面所の鏡の前に立つ――。
水滴に濡れた顔が、少し歪んで映っている。
――蒼葉陸兎。
不意な形で斗亞に接触を図り、翌日には亡骸となって世間に見つかった男。
その流れはあまりに不自然で、偶然が積み重なるにしてはありきたりであった。
紗莉菜が口にした言葉の一つ一つが、頭の奥で浮かび上がる。
――あいつが、犯人なのだろうか。
問いは自然に生まれた。
そして同時に、答えを知っているかもしれない相手の存在を思い出す。
「……なぁ」
声は低く、喉の奥に引っかかる。
「お前、本当に何も知らないのか」
鏡の中の自分が、こちらを見返している。
理性と合理性を優先するはずの、いつもの斗亞《黎》の顔――のはずだった。
返事はない。
沈黙――いつも通りの、答えない態度。
それが、無性に癪に障った。
自分の感情の一部だと、そう割り切ってきた。
本能も、欲望も、破壊衝動も、全部自分の中にあるものだと。
それでも――。
何も言わず、何も示さず、ただそこに『いる』感じが耐えられなかった。
「……なんとか言えよ」
声が少し強くなる。
鏡の中の顔は、もう冷静には見えない。
眉間に皺が寄り、目つきが荒れている。
理性で整えた表情じゃない。
「なんとか言えよ!!」
思わず、怒鳴っていた。
その瞬間だった――。
『……お前は、何を望んでいるんだ』
自身の喉と口を介して発せられた、低い声。
鏡に映る顔は、どこか冷めていて、鋭い刃のような視線をしていた。
それを見た時、斗亞《黎》の背筋がぞくりと粟立つ。
「…………」
『仮に、あの記者を殺したのが俺だとしたら、どうする』
鏡の中の口が、勝手に動いているような錯覚。
『いつもと変わらんだろ』
斗亞《黎》の喉が詰まる。
「なんで……」
言葉が、反射的にこぼれた。
「お前の尻拭いは、いつも僕が……」
途中で、言葉が途切れる。
『頼んでないだろ』
斗亞《繞》の声は、淡々としていた。
『俺は俺だけだ。お前は、俺じゃない』
――その一言で、斗亞《黎》の思考が止まった。
二つの人格は、それぞれが別だ。
それは分かっていた。
分かっているつもりだった。
けれど斗亞《黎》は、根っこは同じだと――何処かで思っていた。
責任も、罪も、最終的には共有されるのだと。
だけど、違った。
斗亞《繞》は最初から、一人だった。
混ざり合う気も、背負い合う気もない。
そもそも、立っている場所が違う。
「……っ」
言葉が出ない。
そのとき、洗面所の外から足音がした。
「斗亞?」
恐る恐ると、悠司が呼ぶ声。
「大丈夫か?」
怒鳴り声を聞きつけたのだろう、心配そうな声がかけられた。
斗亞《黎》は反射的に蛇口をひねり、もう一度顔を洗う。
そして顔を上げると、悠司が心配そうにこちらを見ていた。
「……なんでもない」
軽く言ったつもりだった。
けれど、鏡に映る自分の表情がそれを裏切っている。
悠司は何も言わず、ただ一瞬、斗亞《黎》の顔をじっと見た。
医者の目でも父の目でもない、曖昧な視線。
「無理するなよ」
それだけ言って、廊下に戻っていく。
「……大丈夫だから」
背中に向かってそう返しながら、斗亞《黎》は鏡を見つめ直す。
そこには、悠司にとっての息子の顔と、斗亞《繞》と対話していた歪んだ自分の名残が、同時に残っていた。
逃げ場が、帰れる場所がある。
そして――。
内側には、決して重ならない『一人』がいる。
斗亞《黎》はその両方を、はっきりと自覚してしまった。
それが、この夜の異変だった。
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