第32話:日常に混じるもの
あくまで付き添いというスタンスのまま、斗亞は約束の場所へ向かった。
先についていた瑠衣と合流し、足並みを合わせて駅前のファミレスへ入る。
「なっ……なんで君が」
思わず零れた斗亞の声は、ファミリーレストランの騒がしさに紛れるも、しかし確かに震えていた。
指定された四人掛けの席に座っていたのは、二人だった。
一人は、痩せ細った男。
年齢は二十代後半から三十代前半。
清潔感を装おうとしたようやラフなシャツ。
落ち着きなく動く指先、視線は定まらず、まるで『何か見えないもの』に縛られているかのような硬さが全身に漂っている。
数日前、蒼葉瑠衣にDMを送ってきた張本人――それ以上でも以下でもない、悪意だけで近づいてくる種類の男。
そしてもう一人――。
桐崎紗莉菜。
まるで偶然居合わせたかのように、彼女はそこにいた。
ソファに深く腰を預け、メニュー表を眺めている。
その姿は場違いなほど自然で、だからこそ異様だった。
「えっと……えっとですね……」
男が口を開くが、言葉は続かない。
緊張というより、怯えだ。
誰かに見られていると信じ込んでいるような、過剰な警戒。
騒がしい店内の喧騒の中で、斗亞、瑠衣、紗莉菜、そして怯える男という奇妙な四人が対峙している。
斗亞は冷静を装い、瑠衣を一度座らせたが、すぐに彼女の肩を叩いた。
「……瑠衣ちゃん」
「え?」
「ドリンクバーで適当に二人分、何かお願いできる?」
「あ、うん……」
一瞬だけ戸惑ったが、瑠衣が席を立ち、人混みに消えていくのを確認してから斗亞は立ち上がった。
隅で震える男を無視し、紗莉菜に向かって短く告げる。
「……ちょっと、来て」
「ふふ、はーい」
紗莉菜は楽しげに立ち上がる。
二人は通路を挟んだ壁際へ移動した。
男は何も言わず、ただ俯いたままだ。
「君が、なぜここにいる」
「友達が心細いって言うから、付き添ってあげただけですよ」
紗莉菜は白々しい言い方をし、斗亞の喉元をじっと見つめる。
「……嘘だな」
「はい」
何も隠す様子なく、即答だった。
「今度はあの子ですか?」
紗莉菜は、ドリンクバーの方を見やる。
「なんか……かっこいい人ですね。女の私でも、ちょっと見惚れちゃいそう」
紗莉菜はうっとりした声で言うと、再び視線を斗亞に戻す。
「彼女は関係ない」
斗亞の声は低い。
「今回だって成り行きだ。余計な勘繰りはするな」
「勘繰り?」
紗莉菜は首を傾げ、微笑む。
「してませんよ。ただ、大変だなって思っただけです」
一歩、距離を詰めてくる。
「守れるわけないのに……抗おうとしても、壊れるものは壊れるだけなのに」
囁くような声だった。
それは呪いの言葉のように、静かに、だが確実に残る。
「それでも、守りたいものを増やすなんて、おかしな人ですね“斗亞”さんは」
「……もういい、席に戻るぞ」
吐いた言葉の全てに真実味がなく、明らかにはぐらかした声は変に相手を逆撫でする。
彼女との口論にはなんの実りがない事を悟ると、斗亞は先ほどの席へ歩いて行く。
紗莉菜は怪しい笑みを携え、手を後ろに組みながら後をついていく。
席に戻ると、瑠衣はすでに戻ってきていた。
男は相変わらず、まともに顔を上げない。
そこから始まったものは、とても『質疑応答』と呼べるような代物ではなかった。
「……兄の事件の真相を知っているという内容だったけど、詳しく聞かせてもらえる? あなたの知っている最初から最後まで」
不意に投げられた質問に、男の肩が跳ねた。
「ッ……」
「え……? 知っているって、話だったよな?」
あまりの相手の表情に、瑠衣は少し語気が荒くなる。
「そ、それは……知ってるっていうか、聞いたことがあるというか……」
言い切りのない声に、言い淀む。
「聞いた? 誰に……」
「その、毒物が凶器とか……」
男の視線は左右に激しく動き、唇も小刻みに震えている。
「それはニュースでやってたから、私も知ってるわ。ただ、それしか分からないから自殺なんて馬鹿げたことが言われてるの。私は、その犯人を知りたい」
瑠衣は強い目で、男に問いかける。
「それは、ちょっと……」
男は言葉に詰まり、視線を伏せた。
スーッと、隣で紗莉菜がグラスの縁を指でなぞる。
ほとんど聞き取れないほどの音だったのに、その瞬間、男の体ががくりと震えた。
そっと、隣の紗莉菜の方へ一瞬だけ目を配る。
紗莉菜は興味がないように、両肘をテーブルにつけていた。
「別に私は、あなたを責めたいわけじゃない。本当に知っているのなら、教えて欲しいんだ」
瑠衣は、力強い言葉を投げかける。
「…………」
だが、その問いかけも男には響くものはなかった。
それからも男は隣の紗莉菜の顔色を伺いながら、しどろもどろに答えるばかりだ。
まったく埒が明かなかった。
男の怯え方はもはや尋常ではなく、質問を重ねるほど言葉が萎んでいく。
沈黙と間の多い言葉は、とても会話とも言い難いものだった。
「何も知らないの……? だったら、どうして連絡してきたの?」
男の喉が鳴った。
「それは……面白いかなって……」
男は言葉を詰まらせながら、慎重に選ぶように口を開く。
「ッ!?」
その心のない言葉に、瑠衣の肩が震えた。
「もういい……瑠衣ちゃん。行こう」
聞いてて気分が悪くなった斗亞は、瑠衣の手を強く引き、半ば強引に彼女を立ち上がらせた。
「でも、茅野さん……」
「ここにいても無駄だ。帰るぞ」
それ以上、言葉を交わす意味はなかった。
向かいに座る男は、終始うつむいたまま、まともに目を合わせようとしない。
質問を向ければ言葉を詰まらせ、否定すれば過剰に怯え、肯定すればどこか他人事のように頷くだけだ。
――知らない。
ただ、それだけの男だった。
その悪意は、他人の感情を踏みにじることでしか、達成感の得られないタチが悪いものだ。
数日前の男と同じだ。
深く考えもせず、画面の向こうにいる相手へ言葉を投げただけの存在。
斗亞は瑠衣の手を引いたまま、二人に背を向けて出口へと歩き出す。
背後から男の安堵したような吐息が、かすかに漏れた。
――その瞬間だった。
雑多なファミレスのざわめきを、一本の刃のように切り裂いて、透き通った、しかし底冷えのする声が投げかけられた。
「……ねえ、瑠衣さん」
突然の声に、瑠衣の肩が跳ねる。
「警察って、“何が原因”かは一生懸命探すのに……“いつから始まっていた”かは、あまり気にしないんですよね」
自然と瑠衣の足が止まり、唖然とした表情のまま紗莉菜の方へ振り返ろうとする。
すると、咄嗟に斗亞がぎゅっと握る力を強くした。
瑠衣は振り返る事をやめ、目線を静かに正面に戻す。
「変わった瞬間ばかり追いかけて、変わらなかった時間を見落とす」
瑠衣の顔から、血の気が引いていく。
「……ッ!?」
瑠衣の息が思わずこぼれた。
「まぁ、毎日同じだと思っていたから……気づかなかっただけ、かもしれませんね」
紗莉菜は、メロンジュースのストローを加えながら言った。
「安心しきって、疑いもしない日常。そこにある“異物”に気づかなかった人の末路は、あっけなかったわ」
その言葉の羅列が、瑠衣の胸の奥へ深く沈み込んでいく。
「……なんで」
瑠衣が、震える声で振り返る。
「なんで、あなたが……そんなこと……」
だが紗莉菜は、テーブルに残されたデザートの皿を指先で軽く弄びながら、どこまでも無邪気に微笑んだ。
「お兄さん、最期まで気づかなかったんでしょうね」
その声には、同情も嘲りも、どちらも混じっていない。
「自分を守るための“それ”が、違うものに変わっていたなんて……」
「……行くぞ」
動揺し切っている瑠衣を横目に、それでも斗亞は帰る事を優先する。
あの口ぶりは何かを知っているはずなのに、それでも相手の言葉に乗っかってはいけないと直感が告げていた。
あれは甘い罠だ、それが真実だとして紗莉菜がもたらすメリットが分からない。
それがさらに不気味であった。
「でも……」
瑠衣は思わず、斗亞の力に反発する。
帰ろうとする足を、止めてしまった。
「ごめん」
それは、心から出た謝罪だ。
手がかりとなるかもしれない人間を目の前に、目を瞑ってくれと言っているものだ。
自分なら、繞なら確実に静止の言葉なんて振り切って、その底の知れない穴にだって飛び込むに違いない。
同時に。瑠衣の脳裏に兄の顔が一瞬チラついた。
だが、その奥に浮かんだのは――今、目の前で必死に止めようとしている、茅野斗亞の表情だった。
「はい……」
瑠衣は、斗亞の手を強く握り直した。
その指先は冷たく、微かに震えている。
斗亞はそれ以上、何も言わなかった。
言葉を重ねれば、きっと彼女は立ち止まってしまう。
今は――進むしかない。
斗亞の背中に、冷たい汗が伝う。
それ以上、紗莉菜は何も言わない。
ただ、楽しそうに――いや、満足そうに笑った気配だけがあった。
そこで振り返ることはしない、だが確信していた。
あの男は、確実に何も知らない。
悪意だけで近づいた、空っぽの存在。
“知っている”のは、紗莉菜だけだ。
彼女は犯人か協力者か、あるいは――目撃者。
真相はさらに深く、闇へ沈んでいく。
店を出る直前、瑠衣が小さく言った。
「……ありがとう。付き添ってくれて」
「…………」
その感謝に、何も言葉を返せなかった。
外に出て数歩、どちらからともなく繋がれた手が次第に解かれる。
さらに数歩、瑠衣がようやく口を開いた。
「……私、あの人」
声が掠れる。
「“何もしてない人”だと思ってた」
「……そうだな」
斗亞は否定しなかった。
「少なくとも、“何が起きたか”は知らない」
だが――。
心の中で、言葉を続ける。
『何が起きたか』を知っている人間は、別にいる。
駅前の明かりの向こうで、笑い声が弾ける。
日常は何事もなかったかのように、平然と続いている。
「……怖いんだ」
瑠衣が、絞り出すように言った。
「兄貴のこと、ちゃんと知りたいだけなのに」
斗亞は足を止めた。
そして、ゆっくりと彼女の方を向く。
「それは、間違ってない」
ただ、それだけを選んだ。
「でも、“知ろうとすること”を利用する人間がいる」
瑠衣は唇を噛みしめ、黙って頷いた。
少し離れた場所で、店の窓ガラス越しに、紗莉菜がこちらを見ている気配がした。
目が合った――気がした。
だが次の瞬間、彼女は何事もなかったようにストローを咥え、視線を落とす。
(……やはり、偶然じゃない)
あの言葉は『推測』ではない。
だが、『証言』とも言い切れない。
だからこそ厄介だ。
だからこそ――危険だ。
「送るよ」
「……ありがとう」
二人は再び歩き出す。
背後で、誰かが笑った気配がした。
それが誰のものだったのか、斗亞は確かめなかった。
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