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黎繞(クロマト)グラフィー ―愛と殺意の同一性―  作者: 柊ソラ


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第31話:日常に沈む



 夕食は肉じゃがと焼き魚、ほうれん草のおひたし。

 そして、味噌汁の湯気がゆっくり天井へ昇っていく。


「今日は、妙に静かだった」

 悠司が箸を置いて言った。

「病院?」

「いや、家の方」

 斗亞は曖昧に頷く。

「こういう日は、逆に落ち着かない」

 悠司は苦笑する。


「精神科医の悪い癖かな。何も起きないと、何かの“前触れ”に見えてしまう」

「……職業病だね」

「否定はしないよ」

 悠司は味噌汁を一口啜った。


 しばらく、食器の音だけが続く。


「そういえば」

 悠司が思い出したように言う。

「この前、近所のおばあさんに呼び止められてね」

「……例の、回覧板の?」

「そうそう。最近、夜になると玄関の前に立ってる人影があるって」

 斗亞の視線が、わずかに上がる。

「結局、猫だったらしい」

「…………」


「でも、本人は納得してなくてね。あれは、絶対見てたって」

「見てた?」

「家を、だそうだ」

 悠司は深刻ぶるでもなく、ただ事実として語る。

「人って、不安が溜まると“意味のある形”を外側に探し始める生き物なんだ」

 斗亞は何も言わなかった。

「だから、あのおばあさんも……」

 悠司は穏やかな声で、話を続ける。


「誰かに“大丈夫ですよ”って言ってほしかっただけなんだろう」

 少し間を置いて、笑みを浮かべる。

「……この前の雨の日も、似たようなものだ」

 斗亞の指が、箸を握り直す。

「あの日、来た子……」

 悠司は斗亞を見ずに言った。


「名前は、確か……紗莉菜ちゃん、だったかな」

 斗亞は、即座には反応しなかった。

「ずぶ濡れだった子」


「普通なら、警戒するところなんだけど……あぁいう状況だと、人は理屈より先に動く」


「………」


「不思議な子だった」

 悠司の声が、少しだけ落ちる。


「礼儀正しくて、受け答えもちゃんとしてる。でも、どこか……距離感が独特で」


 斗亞は、視線を皿に落としたまま聞いている。


「“守られる側”の振る舞いを、よく分かっている、というか……」

 それは、無意識の言葉だった。


「……もう関わることはないだろ」

 斗亞は短く言った。

「そうだね」

 悠司はすぐに、それを肯定する。


「それが一番いい」

 その言葉に、妙な含みはない。

 だが、斗亞の中では別の意味を持って響いた。


 話題は、自然と流れる。


「そういえば……」

 悠司が箸を取り直す。

「今度の土曜日、予定は?」

「……なんで?」

 斗亞は少し遅れて、聞き返した。

「俺も休みでね」


 精神科外来は土曜休診であり、斗亞の研究の方も珍しく区切りがついている。


「久しぶりに、出かけないかと思って」


 けれど、斗亞の頭に別の予定が浮かぶ。

 それは、瑠衣に送られてきたDM――その相手と会うから、付き添いとして斗亞もいくことを約束していた。


「あ、ごめん」

 斗亞はその予定を思い浮かべ、静かに首を横に振った。

「その日は、外せない用事があるんだ」

「そうか……なら、仕方ない」

 少し間を置いて、軽く笑う。

「もしかして、彼女でもできたのか?」

 悠司が父親らしい、茶化した言い方をする。

 すると斗亞は、少し逡巡してから答える。


 後輩の女の子が、SNSで厄介な相手に絡まれている。

 だから断るために、付き添う日なんだ。

 それ以上は語らない――肝心な名前も、関係も伏せたまま、濁す部分は濁して答えた。

「気をつけろ」

 悠司は、医師ではなく家族の声で言う。


「人の不安に、踏み込みすぎると自分の足場を見失うことがあるから」

「……分かってる」

 だが、その言葉に確信はなかった。



 食事は、何事もなく終わる。

 ただ、斗亞の意識の底には、雨音と玄関に立っていた少女の輪郭が、沈殿したままだった。








ご覧いただきありがとうございます。

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よろしくお願いします。


※本作は毎週水曜日・土曜日の20:20頃に更新予定です。



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