第30話:答えを探す目
研究棟の廊下は、朝の時間帯でも妙に静かだった。
白い壁に反射した蛍光灯の光が、やけに冷たく見える。
昨夜のことを引きずっているせいだと、斗亞は自分に言い聞かせた。
端末を片手に自室へ向かおうとした、そのとき――。
「……茅野さん」
聞き覚えのある声に呼ばれて、斗亞は不意に足を止める。
振り返ると、エントランス側の自動ドア付近に、一人の女が立っていた。
――蒼葉瑠衣。
昨日と同じく背筋は伸びているが、今日は私服ではない。
きちんとしたシャツにスラックス。
教師らしい格好だが、どこか場違いにも見えた。
「……どうして、ここに?」
そう返した自分の声が、思ったより硬いことに気づく。
「突然来て、ごめんなさい。昨日のお礼。ちゃんと言ってなかったから」
瑠衣はそう言って、軽く頭を下げた。
だが、その動きは一瞬で、すぐに顔を上げる。
「それと……少し、時間ある?」
斗亞は、ほんのわずかに逡巡した。
「……今は、業務中だよ」
「分かってる。だから、無理ならいい」
言葉とは裏腹に、瑠衣の視線は引かれていない。
昨日と同じ――いや、昨日以上に、何かを掴みに来ている目だった。
「……五分だけ、なら」
「ありがとう」
斗亞は何も言わず、打ち合わせ用の小部屋へと彼女を通した。
部屋に入ると、瑠衣は椅子に腰掛ける前に、改めて斗亞の方を向いた。
「昨日は、本当に助かった。あれ、あのままだったら……たぶん、最悪だったと思う」
「結果論だよ」
「そういう返し、すると思った」
苦笑するが、声は軽くない。
「でもね。私、あぁいうの、初めてじゃないんだ」
斗亞の指が、わずかに止まる。
「兄貴の件があってから、変な接触が増えた。“大丈夫”とか“無理しないでね”とか。親切心という皮を被りながら、近い距離で囁いてくる」
瑠衣は机の上に視線を落とした。
「私、警戒はしてたつもりだった。でも……昨日の人、最初は普通だった」
昨日の男の顔が、脳裏に浮かぶ。
軽薄で、調子がよくて、そして――計画通りだとにやけた、あの表情。
「だからさ……」
瑠衣は顔を上げた。
「どうすればいいのか、分かんなくなった」
それは、泣き言でも助けを乞う声でもなかった。
ただ、答えを探している声だった。
「SNSも、やめた方がいいって分かってる。でも、兄のことで何か知ってる人がいるかもしれないって思うと……切れない」
斗亞は、しばらく黙っていた。
繞が、内側で笑った気がした。
――ほう……自分から、危険に足を踏み入れてる自覚はあるらしい――
(黙れ)
斗亞はそう返して、獣を奥に追いやる。
「……DMは、まだ来ているのか?」
「うん。昨日のあとも、来た」
瑠衣はスマートフォンを取り出し、画面を伏せたまま言う。
「直接会えば教えるって、場所と時間も指定してきてる」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……それを、信じるつもり?」
「信じたい、とは違う」
瑠衣は、少しだけ言葉を探してから続ける。
「でも、無視していいとも思えない。兄のことを、事件としてじゃなく“人として”知ってる人なら……話を聞きたい」
斗亞は、目を閉じた。
これは、忠告すべき場面だ。
だが――。
「……一人で行くな」
それだけを、選んだ。
瑠衣は一瞬、目を見開き、それから小さく息を吐いた。
「それ、禁止じゃなくて“条件”?」
「そう受け取るかどうかは、君次第だ」
「……ありがとう」
斗亞は改めて彼女を見ると、その目に恐怖は確かにある。
だが、それ以上に諦めがない。
守れるかどうかは、分からない。
だが、見捨てる理由も、もうなかった。
「……あと、今回の相手が“外れ”だった場合、それを最後にしてくれないか?」
「……うん、分かった」
瑠衣は立ち上がり、少しだけ柔らかい表情で言った。
「来てよかった。昨日の人が、茅野さんで」
その言葉に、斗亞は返事をしなかった。
理由が見当たらなかったからだ。
結果論でしかない――助けたという結果だけで、そこに至る過程まで正当化されるべきじゃない。
斗亞のそれは、ただのお節介だ。
尾行までして踏み込む行為を、善意と呼べるわけもない。
代わりに、胸の奥で繞が静かに呟く。
――また一つ、壊れやすいものを拾ったな――
斗亞は、その声を、無視しきれなかった。
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