第29話:匿名の影
放課後の校舎は、昼間とは別の顔をしていた。
部活動の掛け声が遠くで反響し、夕焼けに染まる廊下にはどこか浮ついた空気が漂っている。
斗亞は校門の外、電柱の影に立っていた。
理由は、はっきりしている。
(俺は一体、何をやって……)
数日前、蒼葉瑠衣が言った言葉。
SNSに届いた一通のDM。
「兄の死について知っている」
「直接話したい」
という、あまりにも典型的で、あまりにも危険な誘い。
その時に話していた三日後というのが、今日だ。
(忠告だけなら、研究所で済ませるべきだった)
(尾行なんて、完全に……)
――踏み込みすぎだ――
内側で、繞が淡々と断じる。
――だが、もう引き返せない――
校門が開き、教師たちが三々五々、姿を現し始める。
その中に、目的とする女がいた。
瑠衣は、私服に着替えていた。
ラフなシャツにジーンズ。
歩き方は軽いが、視線が頻繁に周囲を窺っている。
(……緊張してるな)
彼女は一度、スマートフォンを確認し、深呼吸するように胸を膨らませた。
*****
瑠衣は校門を出て、目的地に向かって歩き出す。
歩き始めて十分ほど――瑠衣は不意に立ち止まった。
そこには、なんの変哲もない歩道の真ん中に、若い男がただ一人立っていた。
待ち合わせ場所としては不自然――だが、人と接触するには妙に適した場所だった。
背は高くない。
服装はだらしなく、シャツの裾はズボンから半分はみ出している。
髪は整えられておらず、どこか落ち着きがない。
(……あれか)
男が、手を軽く上げる。
瑠衣は一瞬ためらい、それから近づいた。
斗亞は咄嗟に、電柱の影に身を潜ませる。
校門から、気配を悟られないように一定の間隔を保ってきた。
足音も、息遣いも、隠した緊張も伝わらない程度の距離。
だが、それは人の目がないからこそであり、これ以上進めば確実に男の視線に留まるほどの距離に斗亞はいた。
もちろん会話は聞こえない。
だが、男の口元はよく動き、瑠衣は相槌を打ちながらも、どこか警戒を解ききれていない様子だった。
そして、二人は並んで歩き出す。
斗亞はその二人に気づかれないように、慎重に後を追っていく。
向かった先は、駅とは逆方向――。
人通りの多い道を抜け、次第にネオンの色が濃くなる。
(……ホテル街)
――露骨だな――
繞の声が、少しだけ楽しげになる。
――わかりやすすぎて、吐き気がする――
二人が入ったのは、場違いなほど雑然とした大衆居酒屋だった。
斗亞は少し間を置いて、同じ店に入る。
仕事帰りのサラリーマンや大学生の、笑い声と酒の匂い。
少し見渡し、瑠衣たちを見つけると――斗亞はカウンター席に座り、壁際の二人を視界に入れた。
瑠衣は、話を聞きたくて仕方がない様子だった。
身を乗り出し、男の顔を覗き込む。
だが男は、曖昧な笑みを浮かべ、核心を避けるように言葉を濁している。
(……わかりやすい、時間稼ぎか)
居酒屋の中は、騒がしかった。
安っぽい笑い声と、油と酒の匂い。
それでも、二人の会話がかき消されるほどではなく、集中していれば聞き分けることはできた。
「……で? それで? 兄のことで“知ってる”って言ったよね?」
瑠衣の声には焦りが滲んでいた。
掴めるものがあるなら、何でもいい……そんな響きを、している。
男はそれらの質問に全てはぐらかし、グラスを揺らした。
「いやぁ、まあ、色々あるっていうかさ。一言じゃ説明できないっていうか」
「なんか、はぐらかしてない? 私、ちゃんと聞きたいんだけど」
「焦るなって。こういう話はさ、もうちょっと打ち解けてからの方が……」
言葉を濁しながら、男の視線は瑠衣ではなく、テーブルの端に置いたカバンに一瞬落ちた。
(……来る)
斗亞の背筋が、わずかに強張る。
男は話を続けるふりをしながら、カバンの口を開き、三本の指で何かを摘まみ上げる。
白い、小さな粉状のもの――。
その瞬間、斗亞はスマートフォンを伏せたまま起動し、カメラを構えた。
(……辟易するな。あまりに、ありきたりな悪意だ)
瑠衣は何かを聞き出そうと食い下がっている。
だが、男はのらりくらりと躱し、卑屈な笑みを浮かべて彼女のグラスを見つめている。
そして、男が動いた。
体を斜めにし、死角を作った一瞬。
慣れた手つきで白い粉が彼女のグラスへ滑り落ちる。
斗亞は頬杖をついたまま、スマートフォンの無音カメラでその瞬間を収めた。
瑠衣は、何も知らずにグラスを手に取る。
「じゃ、乾杯しよっか」
男がしたり顔で合図を出すと――それを、飲み干した。
何も疑わずにグラスを飲み干した彼女は、しばらくしてから言葉が途切れた。
あの白い粉は、即効性の睡眠薬か何かだったのか――瑠衣の瞼は重くなり、身体が前に崩れ、ガクンと机に突っ伏した。
「おっと……?」
男は一瞬、演技じみた声を出したが、すぐに口元が緩んだ。
「……あーあ、寝ちゃったか」
計画通り――そう言わんばかりに、にやけた笑み。
男は立ち上がり、瑠衣の腕を掴もうとする。
「じゃ、場所変えよっか」
その肩に、手が置かれた。
「はいはい、お兄ちゃん。それ以上は、やめとこうか」
「あ?」
男が振り向いた瞬間、いつの間にか斗亞《繞》が距離を詰め、低く言った。
「今の動き、流石だね……慣れてる感じがしたよ」
男の喉が鳴る。
斗亞《繞》は男の肩を抱いて寄せて、強引に死角を作った。
そのまま、さっき撮っておいた証拠の写真をちらりと見せる。
「ここで消えるのが、一番賢い選択だと思うけど?」
男は一瞬、何か言い返そうとしたが、視線を逸らし舌打ちした。
「……チッ」
それだけ残すと、男はそそくさと店を出ていった。
残されたのは、心地よさそうな顔で眠る蒼葉瑠衣。
「十分だろ」
斗亞《繞》が囁くと、すっと意識を奥底へと引っ込める。
――助けたぞ――
――これ以上、背負う必要はないだろ――
「……それでもだ」
斗亞は瑠衣を支え、店を出た。
*****
向かったのは、駅前の24時間営業のネットカフェだった。
受付で事情を簡単に説明し、女性専用の個室を取る。
瑠衣をソファに寝かせ、毛布をかける。
目視した薬の量から、持続時間は大して長くないと判断していたから、翌日までには起きるだろうと思い、そのまま帰ろうとした。
その時――。
「んぅ〜〜」
瑠衣が小さな寝息をこぼすと、瞼がじっくりと開かれた。
そして目を覚ました瑠衣が、ぼんやりと斗亞を見た。
「……茅野、さん?」
「……おはよう」
それだけを言い残し、瑠衣の意識がはっきりする前に、説明しないまま斗亞は部屋を出た。
数日後――。
匿名の情報提供により、一人の男が逮捕されたというニュースが流れた。
その男は、SNSで行き場のない女性に声をかけては、薬物を使用して犯行に及んでいたという。
斗亞はそのニュースを見ながら、静かに理解していた。
(……もう、関わってしまった)
内側で、繞が低く笑った。
――歓迎するよ――
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