第28話:緩やかなはずの時間
夏の研究棟は、外の蝉時雨とは無縁の静けさに包まれていた。
冷房の効いた廊下に、白い蛍光灯の光が均一に落ちている。
斗亞は、会議室前に集まった高校生と引率教員たちを横目に資料の束を整えていた。
今日はSSH指定校向けの施設見学と、研究者による簡単な講義の日だ。
斗亞にとっては何度も経験してきた業務であり、初担当の頃にあった不慣れゆえの緊張はもうない。
「えーっと……今日、担当される方って……」
背後から、躊躇のない声が飛んできた。
振り返ると、栗色のショートカットの女性が立っている。
明るい色のジャケットを羽織り、姿勢も視線も妙に砕けていて、研究機関の空気にそぐわない。
「はい。僕が見学の案内をさせていただきます」
斗亞がそう告げると、彼女はほっとしたように笑った。
「あ、よかった。私が引率を務める蒼葉瑠衣って言います。よろしく」
――蒼葉。
その姓を聞いた瞬間、斗亞の思考がほんの一瞬、止まった。
視線も表情も変えず、口元も動かさない。
だが、脳裏には数日前の映像が鮮明に蘇る。
朝のニュース。
密室。
毒物。
そして――画面に乱入し、ニュースキャスターのマイクを奪って叫んでいた女。
(あの時の……)
記憶の残像と、目の前の女性が一致する。
「……茅野です」
名乗るのは苗字だけ、それ以上の情報を足す理由はなかった。
瑠衣は気にも留めず、ずいぶん気さくに笑った。
「いやー、正直こういう場所って堅い人ばっかりかと思ってたんだけど。茅野さん、なんか普通だね」
快活な笑みを覗かせながら、彼女は言った。
「それは……褒め言葉として受け取った方が、いいんですか?」
初めて接するタイプの相手に、斗亞の返答はどこかぎこちない。
「そうしてください。私、堅苦しいの苦手なんで」
遠慮のない口調に、年上にも物おじしない態度。
だが失礼ではない。
むしろ、無駄に取り繕わない分、裏表がない。
見学が始まり、斗亞はいつも通りに研究内容を噛み砕いて説明した。
生徒たちは熱心にメモを取り、時折、的外れな質問を投げてくる。
瑠衣はその様子を、少し距離を取って眺めていた。
「へえ……研究者って、もっと変人ばっかだと思ってた」
彼女の質問には悪気というものが存在しないかのように、投げかけられる問いはいつも無邪気なものだった。
「否定はしませんが……今日は見せていないだけです」
冗談のつもりで返すと、瑠衣は小さく笑った。
「それ、怖いな」
だが、その笑顔の奥に、張り付いたような緊張があることに斗亞は気づいていた。
*****
昼休憩――。
生徒たちが食堂へ向かい、引率教員と担当者だけがラウンジに残り、意見交換などの雑談が始まる。
「今日は、どうでした? まだ、終わってないですけど」
「茅野さん……そうだね。私も初めてで、私自身すごく勉強になってるから、ありがたいよ」
「それは、よかった」
「本当に、いろんなことをやってるんだなって感じる。正直、外からだと何をしてるのか分からないからさ」
「まぁ、そうだろうね。部署ごとに専門がかなり違うので、僕も他の所の研究はよく分かってないんですよ」
「やっぱ、そうなんだな」
缶コーヒーを開けながら、瑠衣がふっと視線を落とす。
「何か、気になることでもありました?」
雑談の延長として、不意に斗亞は訊ねる。
「……なんていうか」
瑠衣は言葉を選ぶように、一拍置いた――。
「こういう場所、兄貴も好きだったと思ってさ」
それは唐突というより、自然な流れの中で零れ落ちた言葉だった。
「…………」
斗亞はその言葉に口を挟むことはせず、聞き手として沈黙したまま。
「兄は記者でね。真実を追う、とか格好いいこと言ってたっけ」
缶を見つめる視線が、わずかに揺れる。
「……追いすぎて、死んじゃったけど」
軽い調子、だがその軽さが逆に危うい。
「……テレビ、見ました」
斗亞は少し迷いながら、口を開く。
「テレビって……あぁ、この間のニュースか」
瑠衣は苦笑し、照れ臭そうに頭を掻きながら続ける。
「まぁ、そうだよな……翌日、教頭から大目玉だよ。危うく謹慎処分になるところだった」
「……不躾ですが、蒼葉さんは……」
「うん。ちゃんとした妹だよ。事件の前日も、普通に電話してた。何もなかった。なのに自殺扱いだ? 笑えない」
歯を食いしばり、綺麗な顔を苦々しく歪ませる。
「だから、探してるんだ……犯人を」
「……探す、とは?」
「SNSを、最近始めたんだ。正直、ネットとか全然分かんないんだけど」
悪びれず、手提げカバンからスマートフォンを取り出す。
「兄が殺された。何か知ってる人がいたら教えてほしい、って投稿した」
スマートフォンの画面を向け、その投稿した文面を見せてきた。
それを見た斗亞は、少し呆気にとられる。
(……無防備すぎる)
内側で、繞が小さく嗤った。
――馬鹿だな――
――だが、嫌いじゃない――
「これ、合ってんのかな。リプライっていうのと、ダイレクト……なんだっけ。とにかく、怪しいリンクとかも踏んじゃいそうで怖かったけど」
彼女が差し出した画面には、位置情報さえオフにしていない不用心な投稿と、見え隠れする幾つもの不躾な返信が並んでいた。
「危険だとは、思わないんですか?」
「思ったよ。めちゃくちゃ」
即答だった、それが何もよりも意外だ。
テレビに乱入することといい、行動力が凄まじいからこそ、後悔や慎重よりも成果や利益を優先しているものと思っていたからだ。
彼女が語る言葉は、論理的ではない。
だが、その瞳に宿る熱量だけは、精密機械でも測定不能なほどの密度を持っていた。
それは、斗亞が日常を守るために『削ぎ落としてきたもの』そのものだった。
「でも、何もしない方が嫌だった。兄貴が“自殺した人”として処理されるのが、もっと嫌だ」
しばらく沈黙が落ちる――。
「……でさ」
静寂を打ち破るように、瑠衣が声を落とした。
「今朝、DMが来たんだよ」
斗亞は何も言わない。
「兄貴の死について知ってるって。会って話せるって」
その言葉だけで、十分だった。
繞が、確信を帯びた声で囁く。
――おい黎、この女、自分が“餌”を撒いてる自覚がねえぞ――
(黙っていろ)
――笑えるよな。正義を盾にして、悪意の底なし沼に自分で飛び込もうとしてやがる――
「日時は?」
「三日後。時間は私に合わせてくれるらしく、放課後に待ち合わせしてるんだ」
瑠衣はどこか嬉しそうに笑った。
それが、何より不安だった。
「……その人のこと、信用しているんですか?」
「もちろん、してないよ。でも、無視もできない」
正直だ、だからこそ危なっかしさが際立って見えた。
昼休憩終了を告げるアナウンスが、ラウンジに淡々と流れた。
『――こちらは研究棟管理室です。休憩時間は終了となります。学生の皆様は速やかに集合場所へお戻りください。これより午後のカリキュラムを開始します』
「あ……もう時間か」
瑠衣が、缶を軽く振って立ち上がる。
「午後もよろしくお願いします……“茅野斗亞”さん」
その言い方に、斗亞は一瞬だけ違和感を覚えた。
瑠衣の視線は、彼の顔ではなく、胸元に下げられたネームプレートへと落ちている。
そこに記された名前を確かめるように見てから、彼女はにこりと微笑んだ。
「はい。こちらこそ、蒼葉先生」
「……先生って、瑠衣でいいよ」
即座に返ってくる。
「言ったでしょ。堅苦しいの、苦手なんだって」
「いや、なら……蒼葉さん、で」
「…………」
瑠衣は何も言わず、じっと斗亞を見つめている。
笑っていない、だが怒っているわけでもない。
静かな圧だけが、そこにあった。
「……な、なんですか?」
「今後、名前で呼んでくれないと、返事しないから」
淡々と、しかし一切の冗談味なく言う。
「それと、私相手に敬語はいらないよ……それじゃ」
それだけを言い残し、彼女は生徒たちの方へと歩いていった。
そして、その言葉は冗談ではなかったようで――。
午後の見学が始まり、斗亞が蒼葉先生と声をかけても、瑠衣は案の定、完全に無視を決め込んだ。
引率教員としての指示が出ず、進行はあっさりと滞る。
(……本気だったのか)
結局、斗亞はすぐ折れた形となってことなきを得ることにした。
「……瑠衣ちゃん、こちらへお願いします」
その人だけに伝わる距離を保ち、斗亞が瑠衣に話しかける。
その瞬間、何事もなかったかのように、瑠衣は振り返った。
「はーい」
ただし、人前での体裁だけは譲らず、周りに誰かいる状況では蒼葉先生。
そして二人だけ、もしくはお互いの職場の人間がいない状況では瑠衣ちゃん呼びすることで、妥協してもらった。
*****
「今日はありがとうございました、茅野さん。また、どこかで」
生徒を研究所入り口まで向かわせ、瑠衣は斗亞に丁寧に挨拶をして、戻っていった。
それに対し、斗亞は軽く頷くだけだった。
午後のプログラムを終え、来客を見送った頃、研究棟の窓の外には傾き始めた夏の光が差し込んでいた。
まだ一日は終わっていない。
それでも、穏やかだったはずの時間が、静かに歪み始めている。
(もしかして僕は、彼女に関わろうとしているのか……)
誰に問いかけたけでもない自問に、答えは出ない。
すると、内側の繞が、問いに答えるように言った。
――もう、関わってるだろ――
斗亞は、その声を否定できなかった。
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