第26話:静かなる舌戦
雨上がりのアスファルトが、街灯の光を鈍く反射している。
家を離れ、悠司の視線が届かなくなった瞬間、隣を歩く少女の空気は完全に変質した。
「宝蔵院さん……随分と、斗亞さんの“機嫌”を損ねるようなことを言ったんじゃない?」
斗亞は足を止め、少女を見据えた。
「……なぜ、その名前を?」
「最近、斗亞さんの周りを嗅ぎ回っていた記者。昨日、“あの場所”で会ってたでしょ? 紺色の装いで、いかにも“プロ”を気取った人」
紗莉菜はどこまで知っているのか、まるで直に見ていたかのように話してくる。
どこで、いつ、どうやって見たのか――その過程は一切語らない。
斗亞は、背筋を撫でるような寒気を覚えた。
「会ってみて、どうでした?」
「君には関係ない」
「そうかしら……」
紗莉菜は歩みを止め、街灯の下で斗亞の正面に立った。
その視線は、理性の人格ではなく、皮膚の裏に潜む『輪郭』を正確に捉えている。
「彼女はきっと、斗亞さんの事を“理解しているつもり”なのよ。自分の手の中に収まる怪物だって、信じてやまない」
「…………」
「笑えるでしょう? あの人は、あなたの内側にいる“彼”の価値を、何一つ分かっていない」
その瞬間、斗亞は気づいた。
――繞が、静かすぎる。
嫌悪も、嘲笑も、衝動すらない。
まるで、この少女の言葉を『聞いている』かのような沈黙。
「彼女は、あなたを自分の物語の一部にしたいだけ。安全な場所から覗いて、定義して、変質させたい」
紗莉菜の声は、信仰に近い熱を帯びていた。
「……あんなに白にも黒にもなりきれない欲望、斗亞さんの“色”とは混ざらないわ」
駅のロータリーが見えてくる。
「駅だ……ここからは一人で大丈夫だね」
斗亞はそれ以上、言葉を許さなかった。
だが、改札へ向かう直前、紗莉菜は背を向けたまま言った。
「ねえ、斗亞さん。私、お父様とも仲良くなれそうかな?」
斗亞の足が、わずかに止まる。
「……あなたの“本当の居場所”が、どこにあるのか。ようやく、分かった気がするから」
紗莉菜は振り返らず、改札の向こうへ消えた。
一人残された斗亞は、雨上がりの冷気の中で立ち尽くす。
守ってきた日常――その中心にある家、その構造、その住所、そして悠司という『急所』。
すべてを、彼女は意図的に踏んだ。
斗亞は、内側の沈黙に問いかける。
(……繞。なぜ、黙っている)
返答はない。
その沈黙だけが、これまでで最も不気味だった。
自宅に戻った斗亞を待っていたのは、紗莉菜を招き入れてしまったことを少しだけ悔やんでいるような、悠司の困り顔だった。
「あの子、無事に着いたかな……なんだか、不思議な子だったね」
「……そう、だね」
斗亞は短く応えると、自分の部屋へ逃げ込むように戻った。
紗莉菜が何を遺していったのかは分からない。
だが、彼女が自分の生活圏に足跡を残したという事実だけで、部屋の空気はひどく重く感じられた。
(……不純物が、増えていく)
宝蔵院映見――。
桐崎紗莉菜――。
そして、すでに死んでいる蒼葉陸兎――。
自らの理性が築いた防壁が、少しずつ、しかし確実に削り取られている。
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