第24話:否定される渇望
夜の大学構内は、音が先に死んでいた。
半地下へと降りるスロープの先で、街灯の白い光だけがアスファルトを不自然なほど均一に照らしている。
学生の姿はなく。建物の窓もほとんどが暗い。
ここは、関係者以外が自由に出入りできる場所ではない。
それでも映見は、この駐車場の空気を知っていた。
事件直後、取材という名目で何度か足を運んでいたからだ。
立ち入りを許されたのは、その限られた回数だけだったが、足元の傾斜や照明の位置など、記憶には残っていた。
ここは――橘優恵が命を落とした場所。
映見にとっては、初めて『ある男』の輪郭を、意識の中で結んだ場所でもある。
今日は取材ではない。
時間も、理由も、正規のものではない。
それでもここを選んだのは、『特別な侵入』をしたかったからではなく、すでに何度か知ってしまった場所だったからだ。
ここで何かを見たわけじゃないし、誰かの姿を確認したわけでもない。
研究所で起きた有毒ガスによる事故で死亡した川西斉と、この駐車場の区画で首を絞められて殺された橘優恵。
場所も死亡理由も、それぞれが違い、二人に関係点などなかった。
だが――。
それぞれ別の机で扱っていた資料が、ある瞬間、同じ線で結ばれた。
それは断定ではない、証拠でもない。
けれど、映見にとっては無視できない違和感だった。
それが、『茅野斗亞』だった。
小さな足音がすると、それは反響を伴って徐々に大きくなっていく――。
乾いた靴音は、一定のリズムを刻みながら確実に近づいてくる。
映見は息を整え、振り返った。
「……来てくれたのね、茅野君」
闇の向こうから現れた男は、想像していたよりもずっと静かだった。
視線は鋭いが、攻撃的ではない。
周囲を見渡す仕草にも、過剰な警戒は感じられなかった。
「宝蔵院、映見さんですね」
淡々とした声が、映見を射抜く。
「電話では要件を聞いていませんでしたが、ここに呼び出した理由を、教えてもらえますか?」
責め立てる様子はなく、声もどちらかと言うと諭すように穏やかだ。
彼女にとっては、想定内ではあった。
自分の思い描いていた茅野斗亞が、この程度で感情を昂らせるとは思っていなかった。
事件の始末をあれほどに完璧で、隠すことにはある種のプロフェッショナリズムを感じていたからだ。
映見は一歩だけ距離を詰め、声のトーンを落とす。
「確認よ。あなたが、私の考えている“あなた”かどうか」
「……あなたが僕をどう思っているのかを知りません。なのでその質問には答えられない」
「いいえ、私にはそれが答えに聞こえるわ」
映見は不意に足元を見下ろした。
「この場所、覚えがないかしら?」
釣られて斗亞も視線を下げた。
そこには白い光に照らされたアスファルトが映る。
「含みを持った言い方はやめてもらいたい、何かを試されてるみたいで気分が悪い」
「そっ……それはごめんなさい。なら直球に聞くわね。あなたは橘優恵さんとは知り合いですね?」
それは尋ねるとか疑問とかを排した、断定した言い方だ。
「……えぇ。教え子です」
その『余白』は言葉に詰まった様子はなく、まるで情緒として存在するかのような間だった。
「亡くなったのも?」
「もちろん……」
「それが、他殺だということは?」
「……僕が知っているのは、ここで亡くなったということだけです。詳しい報道内容には、目を通していません」
「それはなぜ?」
「単にその事実を僕が直視できなかっただけです」
彼は肯定しない。
だが、否定もしない。
素直に、うまい返しだと映見は心で感心する。
――この人は、余計な言葉を与えない。
映見は、慎重に言葉を重ねる。
「研究所の事故で亡くなった川西さんは?」
「僕の勤務しているところの上司です」
「……その川西さんが事故、橘さんは他殺。あなたはその二人の共通点。だけど共通の知人だけなら大して珍しくもないわ。ただ、その共通の知人としてが絶妙に近くて遠い……それが私には、偶然だと切り捨てるには、少し整いすぎているようにしか見えないの」
「勝手な解釈だと、自分では思わないんですか?」
「そうかしら……」
即座に否定されないことに、胸の奥がわずかに熱を持つ。
「でも、あなた自身も違和感を覚えているはずよ。関係がないのなら、ここまで線はつながらない」
数秒の沈黙が空気を伝う。
斗亞は、考えるように視線を伏せただけだった。
「……あなたのその憶測が正しいとして、あなたは僕に何を望んでるんだ」
「別に私はあなたを告発しに来たわけでも、責めたいわけでもないわ」
少しだけ、声が柔らぐ。
「私はただ、理解したいの。あなたが、どういう“位置”にいる人間なのかを」
彼の目が、初めて映見を正面から捉えた。
それだけで、映見の心臓が跳ねる。
「理解して、どうするんですか」
「どうもしないわ……私は、安全な場所であなたを見ていたいだけ」
まるで愛を囁くように、静かに胸の内を告白する、
「私は……死にたくないの」
口にした瞬間、喉がひりつく。
だが、視線は逸らさなかった。
「蒼葉くんは、踏み込みすぎたわ。でも私は違う。あなたの邪魔をするつもりも、暴くつもりもない」
ここまで来れば、伝わるはずだと思った。
「だから、提案があるの……」
映見は、一息置いてから言う。
「私と協力関係を結ばない? 私はあなたを観測する立場に留まる。表には出ないし、あなたの代わりに何かをすることもない」
斗亞は、静かに耳を傾けている。
それが、映見に確信を与えた。
「事実を集め、繋げ、必要なら遮断する。あなたが余計な“視線”に触れずに済むように。それは、あなたにとっても悪い話じゃないはず」
映見は、承諾される未来をほとんど疑っていなかった。
――ここまで説明して、拒む理由がない。
そう思っていた、だが――。
「……宝蔵院さん」
斗亞は、穏やかな声で言った。
「ひとつ、確認させてください」
「……なに?」
「あなたのそれは、すべて仮説が罷り通った時にこそ……と、思うんですが?」
胸の奥が、ひやりとする。
「事実だと断定できるものは、何ひとつない」
「それは……」
彼は、ほんの少しだけ首を傾けた。
「僕がその全てに関与している前提で話を進めるのは、違いませんか?」
責めていない。
突き放してもいない。
ただ、淡々と整理しているだけだ。
「僕は、あなたの想像を否定もしません。でも、肯定する理由もありません」
映見の唇が、わずかに震える。
よく人は、否定しないことを肯定だと捉える。
だが、彼の言うそれは――そういうのではない。
肯定も否定も置かないことで、自分がいかに『無関心』であるかを示していた。
少なくとも、映見の目にはそう映ってしまった。
「所詮は、あなたの想像や妄想でしかない」
「……じゃあ、この話は……」
「僕は何も聞いてません……」
それは、今までの話の『全て』を否定した言葉であり、冷たい拒絶ではなくただの結論だった。
「あなたが不安を抱こうが、懐に入り込もうが、それは僕とは無関係の世界の話だ」
映見は、言葉を失った――。
理解されなかったからではない、取り合われなかったからだ。
「これ以上、僕の生活に土足で踏み込むようなマネはやめてほしい」
「どうして……あなたに何もリスクがないのよ。それどころか、記者である私がいれば、何かと都合のいい場面は増えるはず」
「……話はここまでです。これ以上、あなたと話す気はない」
それは、静かな境界の明示だった。
その得体の知れない何かによって、映見の顔色は途端に青ざめる。
「だめ……そんなの許さない。それじゃぁ私は、なんのために蒼葉くんを差し出したというの」
ぼそっと声をこぼした。
それは決して後悔でも自責の念とも違う、無情の何かが内からこぼれ出したもの。
斗亞の喉が、わずかに鳴った。
だが、その理由を自分で探すこともなく会話を先へ進めた
「……それでもあなたが、必要以上に干渉しようというのなら……“ちゃんとした手順”で、僕の視界からあなたを排除する。安心してください。僕があなたを捌くことはないから……」
それ以上の言葉はなかった。
斗亞は背を向け、来た道を戻っていく。
そこに、振り返るそぶりは一切ない。
斗亞の足音が、スロープの向こうへ消えていく。
映見は、しばらくその場から動けなかった。
白い光の下で、心臓の鼓動だけが遅れて大きく響く。
追いかけるという選択肢は、最初から存在しなかった。
それをした瞬間、自分が『越えてはいけない線』を越えることになると、はっきり分かっていたからだ。
胸の奥で、感情が今までとは違う形に変化していく。
拒絶と否定――それらはどれも、映見が想像していたものとは少し違っていた。
彼は怒らなかった。
声を荒らげることも、威圧することもなかった。
ただ、丁寧に言葉を選び、仮説と現実を切り分け、淡々と線を引いただけだ。
――だからこそ、厄介だった。
(……あの人は、逃げていない)
否定しなかったのではない。
肯定もしなかったのではない。
――乗らなかったのだ。
映見は、ゆっくりと息を吐いた。
自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていたらしい。
この場所に来るまで、確信していた。
話せば分かると、理屈は通るはずだと。
こちらは感情で踏み込まず、距離を保った協力を提示している――そう思っていた。
だが、斗亞はその一段上にいた。
仮説を仮説として扱い、不安を不安のまま返し、そこに意味を与えなかった。
(……それでも)
映見は、唇を噛む。
彼の言葉は、冷たかったわけではない。
だが、優しくもなかった。
そこにあったのは、徹底した理性と適切な距離感覚。
そして何より――必要ないものを抱え込まない強さ。
蒼葉陸兎は、違った。
彼は善意で踏み込み、疑念を感情に変え、最後には線を越えた。
(私は……越えていない)
そう思いたかった。
だが、斗亞の態度はそれすらも許さなかった。
『理解したい』という言葉。
『観測したい』という立場。
それらが、彼にとってはすべて同じ方向を向いていた。
映見は、背後のアスファルトに視線を落とす。
白い光に照らされた、何の変哲もない地面。
ここで何かを見たわけじゃない。
誰かの影を目撃したわけでもない。
それでも、自分はここで結んでしまった。
二つの事件と、一人の男を。
それが間違いだと言われれば、否定できない。
だが、正しいと証明する術も今はない。
(……だからこそ)
胸の奥で、別の感情がゆっくりと芽を出す。
悔しさではない。
怒りでもない。
見誤ったかもしれないという、自覚。
彼は、こちらが思っていたよりもずっと――『安全地帯』にいた。
危険なのは彼ではない、彼に意味を見出そうとした自分の方だ。
それでも――映見は、静かに顔を上げた。
拒絶された、けど排除されたわけではない。
彼は干渉を拒んだだけで、関心を持つこと自体を禁じたわけではない。
(……まだ、終わってない)
ただし、やり方を変える必要がある。
近づかない。
触れない。
言葉を投げない。
影のままで、影を見る。
映見は踵を返し、スロープを上り始めた。
背後で、駐車場の明かりがゆっくりと遠ざかっていく。
昨日の電話と今日の対面。
この二日間で、彼女は一つだけ確信した。
――茅野斗亞は、こちらの想像よりもずっと『普通』で、想定よりもずっと『危うい』。
映見は、夜の構内に溶け込むように歩きながら、
次にこの男と交差する『距離』を、頭の中で測り始めていた。
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