第23話:影が息をする
宝蔵院映見は、自分が怯えていることをはっきりと自覚していた。
恐怖とは、もっと直接的なものだと思っていた。
刃物を突きつけられるとか、背後から襲われるとか、見えない誰かによって見える形になっていく――そういうものだと、思っていた。
だが実際には違う。
それは日常の中に静かに溶け込み、気づいたときにはもう逃げ場を失っている。
蒼葉陸兎の死を知った瞬間も、そうだった。
胸を締めつける悲嘆はなかった。
後悔を抱くことも、懺悔を口にすることもない。
代わりに、ひどく冷静な声が心の奥で囁いた。
(……私じゃない、だから私が気にする必要はない)
彼は、選ばれただけだ。
自分が直接手を下したわけではない。
名を渡したのも、話題を向けたのも、あくまで『きっかけ』にすぎない。
それでも結果として、死んだのは彼で、自分は生きている。
この差は、あまりにも決定的だった。
陸兎は、ちょうどよかったのだ。
正義感が強く、単独で動き、引き際を知らなかった。
そして――社会的には惜しまれるが、守られはしない。
『生贄』として、あまりにも都合がよかった。
(私の前にあなたがいた。ただ、それだけ……)
映見は、そう考えてしまえる自分の冷静さをどこか誇らしくすら思っていた。
だからこそ、段階は次へと移行し始める。
――茅野斗亞。
防犯カメラに映らず、鍵を壊さず、恐怖すら与えずに命を摘み取る存在。
それが事実かどうかは問題ではなかった。
映見にとって重要なのは、そうであってほしいという仮説が、あまりにも美しく成立してしまったことだった。
だが、同時に理解もしている。
近づきすぎれば、陸兎のようになっていたのは自分自身だったかもしれないと。
だからこそ彼女は、彼に一枚の名刺を送った。
名を知らせ、存在を示し、警鐘のようにメッセージを刻む。
それだけでで十分だった。
決して映見は対等な関係を望んではいない。
脅かす存在として、彼の対になりたいわけでもない。
ただ、自分が『殺されない位置』に居続けたかった。
理解者。
観測者。
共犯者。
それが、宝蔵院映見の描く立ち位置だ。
だから映見は、斗亞に自分という『影』を落とし込むことで主張していく。
名刺を置いた日の夜――。
彼女は何度も、スマートフォンの画面を確認していた。
だが、いくら待てどその小さな箱からは音が鳴ることがなかった。
(……当然)
名刺一枚で、相手がどう動くかなど分からない。
無視される可能性の方が高い。
それでも、完全に諦めることはできなかった。
彼が名刺を見つけた瞬間の表情。
そして、裏面に記された文字を読んだときの反応――それを想像するだけで、胸の奥がざわついた。
自分が触れてしまった『深淵』が、こちらを見返してくる。
その一瞬を見逃すまいと、張り詰めた神経を途切れさせない。
夜が更け、部屋の灯りを落としたまま、映見はソファに身を沈めていた。
映見は何も目的を持たないまま、無気力なまでにその場に留まり続けている。
重力に抗うことを忘れたかのように、両手は床へ垂れ下がり、崩れた前髪が虚ろな瞳を覆い隠していた。
そのとき――。
テーブルの上に置かれたスマートフォンが、短く震えた。
画面に表示された番号は、見覚えのないもの。
だが、直感だけで分かってしまった。
スマートフォンを手に取ろうとした一瞬、指が止まった。
指先が、わずかに冷える。
(……想定内よ)
そう言い聞かせながらも、心臓の鼓動は確実に速くなっていた。
これは、こちらから仕掛けた接触ではない。
――選ばれたのは、自分だ。
未だ、安全地帯にいるつもりでいた。
まだ、影でいるつもりだった。
だが、その影に今まさに光が当たろうとしている。
映見は、スマートフォンを手に取ったまま、数秒だけ静止した。
出るべきか。
出ないべきか。
その逡巡自体が、もう答えだった。
彼女は、ゆっくりと通話ボタンに触れた。
声を出す前に、喉が小さく鳴る。
影が、息をする。
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