第22話:白日の下のノイズ
翌朝――斗亞はいつも通り、スマートフォンのアラームが鳴る直前に目を覚ました。
カーテン越しの光量、時計の秒針の音、廊下から聞こえる悠司の足音。
それら全てが、茅野斗亞という人間の日常を彩っていた。
何の変哲のない日常のはずであり、違和感はない――はずだった。
(……夢は、見なかった)
それが妙に引っかかった。
眠りは深かったはずなのに、記憶がない。
悪夢も、断片も、何も残っていない。
ただ、脳の底に沈殿したままの形にならない重さだけがあった。
斗亞は身支度を整え、階下へ降りる。
「おはよう、斗亞」
「……うん、おはよう」
階段を降りると、その足音を聞きつけてわざわざ挨拶をするために悠司が階段下まで顔を覗かせた。
食卓にはトーストとコーヒー、いつも通りの朝。
悠司は新聞を畳みながら、何気ない調子で言った。
「今日、降水確率30%らしいから、一応傘は持っていきな」
「30か……結構絶妙な確率だな」
「どうだろうな、まぁ用心には越したことないだろ。別に折り畳み傘ならそう荷物にもならないだろ」
「そうだな。わかった……」
それだけの会話――。
それだけなのに、斗亞は一瞬、自分が“試されている”ような錯覚を覚えた。
(……違う。考えすぎだ)
ちゃんと約束通りに、ビジネスリュックに差し込むように折り畳み傘を入れていく。
悠司はさっきの会話を皮切りに一足早く出勤しており、斗亞は物悲しい風景に「行ってきます」という言葉だけを置いた。
戸締りをして、家を出る。
*****
研究所の白廊は朝の光を反射して、やけに明るかった。
清潔で秩序立っていて、すべてが正しい場所にある。
それが、今日は少しだけ嘘くさく見えた。
「おはよう、茅野くん」
「おはようございます」
挨拶、雑談、業務連絡。
誰も、何も知らない。
蒼葉陸兎の死も、宝蔵院映見の名も、この空間ではすでに『過去のノイズ』として処理されつつあった。
斗亞は実験データを確認しながら、作業に意識を集中させる。
数値は安定していて、再現性も問題ない。
(なんだ……?)
だが、ふとした瞬間に思考がばらつき始めた
メスピペットを持つ手が、若干揺れている。
その揺れは、果たして正常なものなのか疑問を抱いた。
まるで自分の意思と同期していないかのような、錯覚に陥る。
(僕は今、ちゃんと“ここ”にいるか?)
問いが浮かんだ瞬間、それをすぐに打ち消した。
「くだらない」
小さく呟き、再度、意識を作業に持っていく。
――自分が寝ている間に、何をしているか分からない。
昨日の言葉が、勝手に蘇る。
*****
昼休憩――。
ラウンジのテレビでは、ニュースが流れている。
『――警察は引き続き、事件性は低いものと見て……』
音量は小さい。
それでも、耳だけが勝手に拾ってしまう。
蒼葉陸兎。
密室。
不可解な死。
誰かがチャンネルを変え、話題は天気予報へと移った。
「最近さ、こういうニュース多くない?」
「別に世の中は広いんだし、相対的に見たらそうでもないでしょ」
軽い調子の会話。
誰も自分の隣にいる人間を疑っていない。
(……もし、僕だったら?)
思考が、また一歩踏み込む。
もし、空白の時間に何かをしていたとしても。
もし、それを誰も観測していなかったとしても。
この世界は、何事もなかったかのように回り続ける。
斗亞は、コーヒーを飲み干した。
苦味がやけに遅れてやってくる。
午後の研究は、滞りなく進んだ。
問題は起きずに、業務的な作業を終えた。
失敗はあったが、それは試験過程における必須事項だから問題はない。
誰一人として、ミスがないままの完璧な実験。
それが、逆に不安だった。
夕方、デスクに戻ると、ふと視界の端に違和感が引っかかる。
――何もない。
昨日、名刺が置かれていた場所であるキーボードの上。
そこには当然、何も置かれていない。
(……当たり前だ)
なのに、胸の奥がひどく冷える。
まるで、『いつでも置ける』と示されているようで……そう考えるだけで、気持ちが疲弊していく気がした。
斗亞はビジネスリュックを手に取り、研究所を後にした。
帰路、夕焼けに染まる街を歩きながら、一つの結論に辿り着く。
逃げても、意味がない。
名刺の主――宝蔵院映見。
彼女は、すでに自分の日常に侵入している。
白日の下で、確実にノイズは増幅していた。
ご覧いただきありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら、ブックマークや評価をいただけると執筆の励みになります。
よろしくお願いします。
※本作は毎週水曜日・土曜日の20:20頃に更新予定です。




