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黎繞(クロマト)グラフィー ―愛と殺意の同一性―  作者: 柊ソラ


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第21話:食卓の微熱



「おかえり、斗亞。今日は少し遅かったな」

 玄関を開けると、出汁の香りと共に悠司の穏やかな声が迎えてくれた。


 研究所での張り詰めた空気、今もなお財布の中で熱を帯びる宝蔵院映見の名刺、そして自分が蒼葉陸兎を殺したのかもしれないという泥のような自己不信。

 それらが、悠司の何気ない微笑みに触れた瞬間、無理やり剥がれ落ちていくような感覚がした。


「……ただいま。少し、仕事が長引いちゃって」

 斗亞は精一杯の理性でいつもの息子を演じ、うそぶくことをさらに習慣づける。


 悠司に軽く言葉を交わし、その足で洗面所へ向かった。

 まるで返り血を落とすように乱暴に手を擦り、水を叩きつけるように顔へ浴びせる。


 鏡に映る自分の顔は、驚くほど普通に見える。

 だが、指先は微かに冷え切っていた。



 食卓には、湯気を立てる味噌汁と、丁寧に焼かれた魚が並んでいた。

 悠司はエプロンを外しながら、向かいの席に座る。


「今日は病院の方も忙しくてね。変な天気が続いてるせいか、体調を崩す患者さんが多くて」

「そうなんだ……悠司さんも、無理しないで」

「あぁ、俺は大丈夫……そういえば今日、面白いというか、考えさせられる患者さんがいてね」

 悠司は箸を動かしながら、ふとした日常の報告のように続けた。


「重度の睡眠障害、あるいは解離性障害の一種だと思うんだが……自分が寝ている間に何をしているか、全く記憶がないと言うんだ。朝起きると、身に覚えのない場所のレシートがあったり、服が汚れていたりする。本人は“自分の中に自分じゃない誰かがいて、勝手に動いているんじゃないか”と、ひどく怯えていてね」

 楽しそうな顔で、雑談程度の会話として話す悠司。

 けれど――。


 斗亞の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 汁碗を持つ手が、わずかに止まる。


「……その患者さんは、どうなったの?」

「そういう人には、まずは安心してもらうことが第一なんだ。脳の防衛本能が、辛い現実を切り離そうとして空白を作ってしまうこともある。ただ、本人が一番苦しんでいるのは、その空白の間に自分が何か取り返しのつかないことをしたのではないかという、根拠のない罪悪感なんだ」

 悠司は優しく、どこか遠くを見るような目で言った。


「斗亞、心というのは不思議なものだよ。真実がどうあれ、自分の記憶を信じられなくなった時、人は自分を自分だと認識できなくなってしまう。俺は、その人の空白を責めるのではなく、今ここにいるその人自身を信じてあげたいと思っているんだ」


 斗亞は、視線を落とした。

(…………)

 脳の奥底へ向けて、音のない声を投げる。


(繞……お前なのか?)

 自然な、あまりにも切実な自問。

 だが、その答えが返ってくることはなかった。  

 それは繞が眠っているからなのか――それとも、単に解答というものを拒絶しているだけなのか、あるいは……。


(もしかしたら、俺の中に……繞以外の、誰かがいるのか?)

 その考えが脳裏を掠めた瞬間、背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。


 茅野斗亞は自分という存在を肯定したことがなかった。

 正確に言えば、否定しかしてこなかった。


 生まれた意味、所在場所、誰かをおもんぱかる仕草。

 その全てに疑問が浮かんだとき、導き出された答えは『否定』だった。


 そして――その否定を肯定し、正当化する人格が生まれた。


 それから、一番斗亞を否定し続けた連中がいなくなり、斗亞を優しさと温もりで肯定してくれる悠司が現れた。

 悠司に拾われ、確実に守るべき対象となったとき、斗亞は茅野斗亞という『存在』を否定し、殺した。


 その瞬間――自分自身を斗亞ではなく『黎』と定義し、獣である『繞』を管理してきた。

 その二極の構造すらも、実は自分を守るためのまやかしに過ぎないのではないか。


 自分の知らない『第三の拠り所』が、この家を一歩出た外側で、誰の目にも止まらぬ殺戮さつりくを繰り返しているのではないか。

 自分という存在そのものが、底の抜けた器のように思えてくる。


「……そうだね。その患者さんも、悠司さんみたいな先生に診てもらえて、きっと救われるよ」

 斗亞は無理に微笑み、魚の身を口に運んだ。


 味はよく分からなかった。

 悠司の心からの信頼が、今の自分にはあまりにも眩しすぎて、直視することを自然と避けてしまっていた。


「そうだ、斗亞。おやつにゼリーを買ってあるんだ。食後に一緒に食べよう」


「ありがとう。いただくよ」

 他愛ない会話――これを守るためなら、自分はどうなってもいい。

 たとえ、正体不明の『誰か』と向き合うことになっても。


 斗亞は、悠司の笑顔の裏側に、あの名刺の感触を強く感じていた。


 宝蔵院映見に会わなければならない。

 彼女が何を握り、何をしようとしているのか、それを確かめることは自分自身の中に潜む何者かを、晒すことになってしまうのかもしれない。


 だが、そうだとしても、平穏と引き換えになるのならば安い代償でしかない。



 夕食を終え、悠司が楽しそうに冷蔵庫へ向かう背中を見つめながら、斗亞は静かに決意を固めた。

 理性の光が届かない場所へ、自分自身の罪を確認した上で彼は静かに選択していく。


 隠すのか――。

 生かすのか――。

 終わらせるのか――。







ご覧いただきありがとうございます。

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よろしくお願いします。


※本作は毎週水曜日・土曜日の20:20頃に更新予定です。



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