第20話:空白に触れる指先
警察の事情聴取があったのは、定時を過ぎてからだった。
白廊の一角に設けられた簡易的な応接室で、二人の刑事が淡々とした口調で質問を投げかけてくる。
――昨日、蒼葉陸兎さんと会っていましたよね。
――取材の内容は。
――別れたあとの行動を教えてください。
それだけだった。
疑いの色は薄く、声色にも圧はない。
『容疑者』としてというより、『確認事項』としてという形での聴取だった。
前日に接触していた人物であると言う事実。
それ以上でも、それ以下でもない。
余計なことは口にせず、事実だけを並べた。
取材の経緯、会話の内容、研究所を出た時刻、自宅に戻ってからの行動。
用意していたわけではないが、すべてが整然と並んでいた。
「ご協力ありがとうございます。今日はこれで」
内容としては、あっさりとしたものだった。
研究所を出る頃には、外はすっかり夜の色に沈んでいた。
街灯の下を歩きながら、斗亞は自分の足取りが驚くほど安定していることに気づく。
帰宅し、悠司と短い会話を交わし、風呂に入り、食事を済ませる。
いつもと変わらない夜の手順。
そのすべてが、あまりにもいつも通りで、かえって不気味だった。
二階の自室に戻り、部屋の明かりを落とす。
ベッドに腰を下ろしたとき、斗亞は無意識のうちにポケットへ手を伸ばしていた。
茶色い、使い古した折りたたみの財布。
中から取り出したのは、一枚の名刺だった。
あの時――。
いつの間にか、キーボードの上に置かれていたもの。
誰が、いつ、どこから入り、どうやって置いたのか――何一つ分からない。
それが誰に渡される予定だったのかすら、不明だ。
白地に、紅い文字。
余計な装飾のない、簡潔なデザイン。
――宝蔵寺映見。
フリーのルポライターという肩書きを持つ者の名前。
指先に触れる紙は、薄く、軽い。
それなのに、やけに存在感がある。
斗亞は、名刺をしばらく表向きのまま眺めていた。
名前、肩書き、連絡先――どれも現実的で、実態が掴めないほどに普通だった。
逆に言えば、普通すぎるがゆえに、かえって現実感がないとも言える。
――違う。
彼女が本当に伝えたいものは、ここじゃない――。
そんな確信にも似た感覚に導かれるように、斗亞は名刺を裏返した。
そこには、たった一行の文字があった。
ボールペンで、質素に刻まれた言葉。
『彼は、あなたの顔をどう見てた?』
呼吸が、小さく乱れる。
具体的なことは、何も書かれていない。
何に対しての言葉なのか、誰に向けての声なのか。
本来なら全てが不明と言える一文でしかないのだが、それが斗亞には楔として突き刺さる。
(……これは)
これは偶然ではない。
脅しでも、悪戯でもない。
蒼葉陸兎の死を、浅く差しているのだと斗亞は直感する。
そして何より、この文は自分に向けて書かれている。
そう理解した瞬間、背中を冷たいものが撫でた。
研究所で嗅いだ、あの微かな甘い香りが記憶の底から蘇る。
自分の知らないところで。
自分の知らない誰かが。
自分の日常を、正確になぞっている。
斗亞は名刺を掴んだ指に力を込めると、ゆっくりと息を吐いた。
まだ、何も起きていない。
だが、もう――何も起きていない世界には戻れない。
静まり返った部屋で、名刺の紅だけが、妙に鮮やかに目に焼きついていた。
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