第18話:白い静寂の亀裂
研究所の午後は、午前中の慌ただしさが嘘のように、奇妙な静けさを孕んでいた。
昼休憩を終え、研究者たちが規則正しく歩く白廊には、いつもと変わらない消毒液の匂いが漂っている。
そこを歩く斗亞の耳に届く微かなざわめきだけが、昨日までとは決定的に違う“異物”の混入を告げていた。
「……おい、聞いたか? 昨日取材に来た記者の人が、亡くなったってよ」
「あぁ、ニュースで見たよ。急死だったって。まだ若いのに……」
「自殺かもって話だけど……昨日の今日って……川西さんといい、研究所って呪われてんじゃねぇかって思うレベルだけどな」
すれ違う職員たちの視線が、一瞬だけ斗亞に触れては逸れていく。
それは明確な疑念というよりは、あまりにも唐突な死の予感に対する生理的な忌避感に近いものだった。
斗亞は、表情を一つも変えずに自分のデスクへと向かった。
「おはよう、茅野くん……大変なことになったね」
そこで声をかけてきたのは、昨日の陸兎を案内していた広報担当の職員だった。
その顔は青ざめ、隠しきれない動揺に強張っている。
「おはようございます……大変なこと、とは?」
斗亞は、自身の声が驚くほど平坦であることに満足した。
「……昨日、君に取材していた新聞社の蒼葉さんが今朝、宿泊先のホテルで亡くなっているのが見つかったんだ」
「……え」
斗亞は、適切な長さの絶句を演じてみせた。
その驚きは半分は演技であり、半分は本物だった。
「……昨日、あんなに熱心に話をされていたのに……」
「警察が朝から広報に来ていてね。昨日、彼が最後に接触した一人が君だということで、後で話を聞きたいと言っているんだ……もちろん、君がどうこうという話じゃなくて。ただの状況確認だそうだ。密室だったそうだし、病死の可能性が高いらしいから」
「……そうですか。わかりました。協力できることがあれば」
斗亞は短く答え、パソコンの電源を入れた。
モニターの明かりが、網膜に移り込む。
(昨日の記者が、ホテルで……)
斗亞は、昨日の記憶を手繰り寄せた。
陸兎と対峙し、橘優恵の名前を出され、不快な視線を浴びせられた。
その後は確か……定時に研究所を出て、自宅に戻り、夕食を済ませ、悠司と少し言葉を交わして眠りについた。
そこには一分の隙もないはずの日常を記憶していた。
だが、爪の先で薄氷を引っ掻くような、小さく、しかし鋭い違和感が消えない。
自分が彼に不用心だと忠告した、そのわずか数時間後に……。
(僕は、昨日の夜、ずっと家にいたか?)
自身の記憶という名のサーバーを検索する。
ログは完璧だ、矛盾はない。
しかし、そのログ自体が誰かによって『事後的に上書きされたもの』ではないという保証が、確約できなかった。
一方で、脳のどこかが冷ややかに囁く。
(本当に、僕の可能性があるのか? あんな短時間に、どうやって?)
「茅野さん、顔色が悪いですよ」
隣の席の佐伯が、心配そうに覗き込んできた。
「……あぁ、ごめんね。昨日まで会ってた人が亡くなったと聞いて、少し……考え事をね」
「それって、昨日の記者ですよね……でも。その人、茅野さんの過去がどうとか、随分失礼なことを聞いていたらしいけど、それって本当ですか……? だとしたら、祟りなんて言ったら不謹慎だけど……同情はできないな、僕は」
目線を向けず、仕事に集中しながら不服そうな物言いをする。
佐伯の何気ない一言が、斗亞の心臓を直接掴んだように冷たくした。
蒼葉陸兎が死んだ――。
取材なんて体のいい言葉で本心を隠し、怪しんでいたというより確定事項かのように接近してきた男。
そんな彼の死は、斗亞にとっての『障害』が消えたことを意味する。
だが、そのあまりにも都合の良すぎる死は、斗亞を安堵させるどころか底知れない『誰かの意思』を感じさせた。
自分の中の『怪物』か、それとも外側にいる『誰か』か。
斗亞は、マウスを握る右手に力を込めた。
手が震えていないことを確認する。
自分への存在証明を、自分自身へと投げかける。
その時、デスクの電話が鳴った。
一定のリズムを刻むコール音が、午後の研究室に沈殿する静寂の底で、罪を糾弾する叫びのように響き続けた。
それは基礎研究部のチーフからで、創薬ターゲットの探索の途中報告書をデータで送ったので確認してほしい、という業務連絡だった。
陸兎が斗亞に遺したのは小さな『ヒビ』だ。
それは、ほんの些細な衝撃でも容易く全体を崩壊させかねない脆さを潜めている。
午後の時間は、何事もなかったかのように進んでいった。
実験の進捗報告、メールの返信、定型的な業務。
そのすべてが、斗亞の感覚だけを現実から切り離していく。
繞は衝動的な人格だ、壊すことはできるが整えることはしない。
今回の陸兎の死は、あまりにも整いすぎている。
完全な密室と痕跡の欠如。
それは感情の爆発ではなく、冷静な処理の結果でしかない。
(僕ではない。自信持ってそう言える……だが、繞は……)
夕方が近づき、研究室の照明が自動的に切り替わる。
その瞬間、斗亞はふと、自分のデスクに違和感を覚えた。
キーボードの上に、一枚の名刺が置かれていた。
つい先ほどまで、確かに存在しなかったはずのものだ。
白地に、紅い文字。
そして、研究所の消毒液とは明らかに異なる、ほのかに甘い香りのフレグランス。
斗亞は、それを掬い上げるように手に取った――。
午後の白廊は、何事もなかったかのように沈黙を保ち続けていた。
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